第三章 「届かなかった馬」
「二着だった」
風の中で、メロゴールドがゆっくりと顔を上げた。
セラは、すぐには言葉を返せなかった。
日本ダービー。
競馬に詳しくない二人でも、その名前くらいは知っている。
けれど目の前にいるのは、テレビの中を駆ける競走馬ではない。
歓声もない。鮮やかな勝負服も、ゼッケンもない。
午後の日差しの中で、静かに草を食んでいる一頭の馬だった。
「……二着」
セラがもう一度、その言葉を口にした。
「すごいじゃないですか」
「ああ。すごい馬だよ」
男性の答えに迷いはなかった。
メロゴールドが再び首を下げる。
草を噛む音が、風の合間にかすかに聞こえた。ルカが尋ねる。
「ダービーって、競馬のレースの中でも特別なレースって聞いたことがあります」
「そうだね」
「そんなに特別なんですか?」
男性は少し考えてから言った。
「三歳馬だけのレースだから、一生に一度しか出られない」
「一度だけ?」
セラが反応した
「次の年にもう一回、ってわけにはいかないんだ」
セラはメロゴールドを見る。
「じゃあ、この仔にとっては……」
「最初で最後だった。出走した仔は皆そうだ」
最初で最後……。
その言葉だけが、妙にはっきりと残った。
負けたから来年。
今年駄目だったから、もう一度。
そういうものではない。
その年、その五月、その一度だけ。
セラは柵の向こうへ目を向けたまま訊いた。
「……惜しかったんですか?」
男性が小さく笑う。
「惜しかったよ」
「どれくらい?」
「あと少し」
それ以上、男性は言わなかった。
何馬身だったのか。
どんな展開だったのか。
誰が乗っていたのか。
そんな数字や記録よりも、
あと少し。
その言葉だけで十分な気がした。
ルカがメロゴールドを見つめる。
「この仔……悔しかったんでしょうか」
男性はすぐには答えなかった。
少し離れたところで、メロゴールドは変わらず草を食べている。
風が吹けば尾を揺らし、ときどき耳を動かす。
やがて男性が言った。
「どうだろうね」
柵に置いた手を、ゆっくり滑らせる。
「今も悔しがってるのは――俺たちの方かもしれないな」
セラが男性を見る。
その横顔は笑っていた。
けれど、さっきレイワスタールビーを見ていたときの笑顔とは少し違った。
メロゴールドにとって、ダービーはとうに過ぎた一日なのかもしれない。
今、この馬が見ているものは、
目の前の草と、吹いてくる風と、今日という一日だけなのかもしれない。
けれど人間は覚えている。
何年経っても。
あと少しだったことを。
「あいつは何にも言わないからね」
男性が言った。
「俺たちが勝手に夢を乗せて、勝手に悔しがってるだけなのかもしれない」
セラは少しだけ眉を寄せた。
「でも」
「ん?」
「勝手でも、いいんじゃないですか」
男性が振り向く。
セラ自身、なぜそう言ったのか分からなかった。
「だって……この仔が走ったから、そういう気持ちが残ったんですよね」
男性は何も言わない。
「何もなかったら、悔しくもならないし」
隣でルカが静かに聞いている。
セラはメロゴールドを見た。
「二着だったから悔しいんじゃなくて――」
少し考える。
「そこまで連れていってくれたから、まだ悔しいんじゃないですか」
男性の目が、わずかに細くなった。
「……歌う人ってのは、面白いこと言うね」
「今の、歌詞に使えそう?」
ルカが横から訊く。
「そういう意味で言ったんじゃない」
「ならいいけど」
「なんでも歌にすると思わないでよ」
「するじゃん」
「……たまにね」
男性が声を上げて笑った。
その声に反応したのか、メロゴールドが片方の耳をこちらへ向ける。
「聞いてる」
セラが言う。
「悪口じゃないから大丈夫」
ルカが返した。
男性が柵の入口へ向かった。
「近くで見る?」
「いいんですか?」
「こいつはもう人にも慣れてるから。俺と一緒なら」
二人は言われた通り、男性の後についていった。
レイワスタールビーとは違う。
メロゴールドは二人が近づいても慌てる様子を見せず、一度だけ顔を上げた。
黒い瞳がセラを映す。
セラは足を止めた。
「……こんにちは」
ルカが小声で言う。
「馬に挨拶するんだ」
「するでしょ」
「まあ、するか」
「ルカも」
「こんにちは」
男性が笑う。
「律儀だなあ」
メロゴールドが鼻を鳴らした。
「返事した」
「たぶん違う」
「ルカは夢がない」
「今日それ二回目」
男性に教えられながら、セラがそっと首筋へ手を添えた。
温かかった。
レイワスタールビーと同じはずなのに、なぜか違って感じた。
若い馬の体温には、これから始まる時間があった。
この馬の温かさには、すでに通り過ぎてきた長い時間があるような気がした。
もちろん、それはセラが勝手にそう感じているだけだ。
メロゴールド自身は、何も語らない。
「東京まで行ったんだね」
セラが小さく言った。
馬の耳が動く。
「覚えてるのかな」
「どうだろう」
男性が答えた。
「馬は人間とは違うからなあ。でも、いろんなことは覚えてるよ」
セラはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、もう一度ゆっくりと首筋を撫でた。
放牧地を出るころ、ルカが何気なく尋ねた。
「メロゴールドが、ここの牧場で初めてダービーまで行った馬なんですか?」
男性の足が少しだけ止まった。
「いや」
「違うんですか?」
「その前にもいるよ」
二人は顔を見合わせる。
男性は再び歩き出した。
「ダービーまで行った馬もいるし、行けなかった馬もいる」
「行けなかった?」
セラが訊く。
「そりゃ、そっちの方が多いよ」
厩舎へ向かう道を歩きながら、男性は話す。
「ダービーを目指して育てても、その前に怪我することもある。思ったほど勝てないこともある。賞金が足りなくて出られないことだってある」
ルカが言う。
「じゃあ……ダービーを目指した馬全部が、ダービーを走れるわけじゃない」
「むしろ、走れない馬の方が圧倒的に多い」
男性は振り返らなかった。
「当たり前だけどね」
その言葉には、諦めとは違う響きがあった。
やがて厩舎の横にある、小さな建物へ着いた。
「ちょっと見てく?」
扉を開ける。
中は簡素な休憩所兼事務所のようだった。
机と椅子。棚。カレンダー。
そして、壁には何枚もの写真が飾られていた。
セラが足を止める。
大きな額に入ったもの。
少し色褪せたもの。
レース中の写真。
牧場で撮られた写真。
人と馬が一緒に写った写真。
その一枚一枚に、馬の名前が記されている。
「全部、ここの馬ですか?」
「ああ。うちで生まれた仔たち」
男性は壁の写真を見上げた。
「馬主さんは、それぞれだけどね」
「違うんですか?」
「個人だったり、会社だったり。いろいろだよ」
「へえ……」
セラは一枚ずつ眺めていく。
やがて、見覚えのある名前を見つけた。
「メロゴールド」
今よりずっと若い。
身体は引き締まり、目つきも違う。
芝の上を、全身を伸ばして駆けている。
さっき触れた穏やかな馬と同じ馬だとは、すぐには思えなかった。
「これ……」
「ダービーのとき」
セラは写真へ少し近づいた。
そこには、今は聞こえない歓声が閉じ込められているようだった。
けれど、その隣にも馬がいる。
さらに、その隣にも。
「この仔たちも?」
「走ったよ」
「ダービー?」
男性は首を振った。
「そこまでは行けなかった」
別の一枚を指す。
「こいつも」
また別の写真。
「こいつもな」
セラは黙った。
ダービー二着の写真だけが、この牧場の物語ではなかった。
むしろ、その一枚へ辿り着くまでに、名前すら知らない馬たちが何頭もいた。
「毎年……ですか?」
セラが訊いた。
「何が?」
「こうやって次の馬を育てて……また、目指すんですか」
男性は壁の写真を見た。
「毎年、ダービー馬が出るような牧場じゃないよ」
苦笑する。
「そんなに甘くない」
「でも」
「うん」
男性の目が、写真から離れない。
「いい馬が生まれたら、やっぱり思うよ」
少しだけ間を置いた。
「――今度こそ、って」
セラの表情が変わった。
今度こそ。
たった四文字。
けれど、その言葉の後ろには、この壁に並んだ何頭もの馬がいる。
ルカも写真を見つめていた。
「メロゴールドの次も?」
「ああ」
「また?」
「また」
男性は笑った。
「懲りないでしょ」
セラは首を横に振った。
「……そうは思わないです」
「そう?」
「はい」
少し間を置いて、
何気なく訊いた。
「じゃあ……来年は?」
男性がセラを見る。
「来年?」
「今、二歳の馬」
ルカも視線を向ける。
「ここで生まれて、今、来年のダービーを目指してる仔っているんですか?」
男性は、
すぐには答えなかった。
「目指してる、って言うにはまだ早いけどね」
「早い?」
「まだ二歳だからな」
男性は机の上に置かれていた競馬新聞を手に取り、二人の前へ広げた。
「この時期なんて、来年どうなってるか分からない。順調にいくかも、どこまで走れるかも」
セラが新聞を覗き込む。
「じゃあ、まだ……」
「何にも決まってないよ」
男性は笑った。
それは、
レイワスタールビーを見ながら聞いた言葉と、
どこか似ていた。
分からないから、育てる。
まだ何者でもないから、
その先を夢見る。
男性の指が、
新聞のある場所で止まった。
「でも――いるよ」
セラの目が、
その指先へ落ちる。
「ここにはいないけどね」
「どこに?」
「もう北海道を出た。今は本州の厩舎にいる」
「もう?」
セラが少し驚く。
「二歳でも行くんですね」
「ああ。競走馬だからね。こっちで生まれて、育って、それから次の場所へ行く」
ルカも新聞を覗き込んだ。
いくつもの馬名が並んでいる。
二人には、
どれなのか分からない。
セラが顔を上げる。
「その仔も……いつかダービーに?」
男性は少しだけ考えた。
そして、
壁の写真を見た。
メロゴールド。
その隣。
さらに、その隣。
「――行けたらいいな」
さっきまでとは違う顔だった。
過去を懐かしむ顔ではない。
まだ何も決まっていない未来を、
少しだけ遠くから見ているような顔だった。
「名前は?」
男性が答えた。
「――ゼスティール」
「ゼスティール……」
セラがその音を繰り返した。
ルカも何か引っかかったように、顔を上げる。
「それも……果物なんですか?」
男性は少し笑った。
「当たらずも遠からず、かな」
「?」
「“ゼスト”ってあるだろ。料理なんかで使う、柑橘の皮をすりおろしたやつ」
「ああ、ゼスト」
ルカが先に頷いた。
「そっちのZESTがひとつ。で、もうひとつがSTEALとかsteelとか」
「スティール?」
セラが訊く。
「奪う、って意味だ」
男性は新聞に載った馬名を、
指先で軽く叩いた。
「強く、タフに走って――最後は勝利を奪い取ってこい、ってな」
steal a victory――
セラはその言葉を聞きながら、
ふと壁を見た。
若き日のメロゴールド。
その隣。
さらに、その隣。
東京まで届いた馬。
届かなかった馬。
名前も知らない何頭もの馬たちが、
写真の中からこちらを見ている。
セラが男性へ視線を戻した。
「それって……」
少しだけ間を置く。
「今度こそ、ってことですか?」
男性の指が止まった。
部屋が静かになった。
外から、
風の音が聞こえる。
男性は壁の写真を見た。
そして、
ゆっくり頷いた。
「――そうだな」
もう一度、
メロゴールドの写真を見る。
「今度こそ、だ」
ルカも何も言わなかった。
その言葉は、
ゼスティール一頭だけに向けられたものではないように聞こえた。
ここから送り出された馬たち。
その馬を育てた人たち。
届かなかった五月。
あと少しだった五月。
そして、
これからやって来る五月。
その全部の先に、
まだ二歳の馬がいる。
ゼスティール。
「ZESTとSTEAL…STEEL…」
ルカが静かに呟いた。
「それで、ゼスティール」
「ああ」
セラは新聞の文字を見つめた。
レイワスタールビー。
メロゴールド。
そして――ゼスティール。
名前のつけ方は違っても、
やっぱりこの馬にも柑橘の香りが残っている。
セラの口元が、
少しだけ緩んだ。
「やっぱり、グレープフルーツじゃん」
「馬はゼスティールでしょ」
ルカがすぐに返す。
「そうじゃなくて。この牧場の人たちがってこと」
「ああ」
ルカも笑った。
そして男性を見やり、
「確かに、好きよね。それもかなり」
男性が腕を組んだ。
「あんたたちに言われたくないなあ」
三人の笑い声が、
小さな部屋に重なった。
けれど――
セラはもう一度、
新聞へ目を落とした。
ゼスティール。
その名前だけは、
なぜかもう一度、
心の中で読んだ。
まだ会ったこともない馬だった。
その蹄が、
どんな音を立てるのかも知らない。
来年五月、
東京の芝まで辿り着けるのか。
まして、
その先に何が待っているのか。
何ひとつ分からない。
それでも。
今度こそ。
その言葉が今、
セラの胸に小さく刻まれた。
つづく




