第二章「レイワスタールビー」
ナビが示す道は、途中から急に細くなった。
「……ほんとにこっち?」
助手席のセラが画面と窓の外を交互に見る。
「ナビに聞いて」
「ルカが運転してるから」
「私はナビじゃない」
舗装された道の両側には、低い木柵が続いていた。
その向こうに広がる緑。
遠くに馬がいる。
一頭。
二頭。
さらに奥にも。
首を下げて草を食む馬もいれば、こちらを見ている馬もいる。
セラが窓へ身体を寄せた。
「すごい」
「何が?」
「馬がいる」
「牧場だからね」
「分かってるけど」
少し間を置いて、
「こういうのどかな景色の中に、本当にいるんだね」
ルカには、その意味がなんとなく分かった。
競走馬と聞けば、テレビや写真の中で走っている姿を思い浮かべる。
歓声。
芝。
ゼッケン。
騎手。
けれど、そのずっと前にこういう時間がある。
誰にも見られず、
ただ風の中で草を食べている時間。
二人にとって、それは初めて見る景色だった。
やがて、小さな看板が見えてきた。
「ここじゃない?」
「たぶん」
ルカが速度を落とす。
大きな観光牧場ではなかった。
厩舎があり、作業用の建物があり、その向こうに放牧地が続いている。
飾り気はない。
人に見せるためというより、
馬が暮らすためにある場所。
そんな印象だった。
指定された場所に車を停める。
「着いた」
「ほんとに来ちゃった」
「来たいって言ったのセラでしょ」
「そうだけど」
セラは急に自分の髪を触った。
「変じゃない?」
「さっき『今日は誰にも会わないからいい』って言ってた人?」
「予定が変わったの」
「誰のせいで」
「レイワスタールビー」
「馬のせいにしない」
二人が車を降りる。
風が違った。
海沿いより柔らかく、草の匂いが濃い。
どこかから馬の鼻を鳴らす音が聞こえた。
セラがそちらを見る。
「……今の?」
「たぶん」
「なんかいいね」
「何が?」
「ちゃんと馬のいる音がする」
ルカは答えず、少し笑った。
ほどなく、作業着姿の男性がこちらへ歩いてきた。
日に焼けた顔。
長靴には土がついている。
「さっき電話くれた方?」
「はい」
セラが頭を下げる。
「突然すみません」
ルカも続いた。
「お仕事中にありがとうございます」
「いやいや。ちょうど手が空くところだったから」
男性は二人を見た。
「札幌から?」
「はい。でも今日は日高をドライブしていて、たまたま近くまで来てたんです」
ルカが先に説明する。
セラが横を見る。
「なに」
「いや。私が言う前に説明したなって」
「セラに任せると『スタールビーに呼ばれて』とか言いそうだから」
「言わないよ」
一拍。
「……たぶん」
男性が笑った。
「で、そのスタールビーを見て来たと」
「はい」
セラがスマートフォンを見せる。
SNSに載っていた写真。
男性はすぐに頷いた。
「ああ。この写真ね」
「この仔、まだいるんですよね?」
「いるよ」
セラの顔が明るくなる。
男性はその表情を見て、不思議そうに尋ねた。
「競馬好きなの?」
「いえ」
即答だった。
男性が目を丸くする。
ルカが横から補足した。
「二人とも、詳しくなくて」
「じゃあ、馬が好き?」
「好きですけど……」
セラが少し考える。
「この仔の名前が気になったんです」
「名前?」
「スタールビー。グレープフルーツの品種ですよね?」
「お、よく知ってるね」
「やっぱりそうなんだ」
セラの顔が少し明るくなる。
「この仔も、そこから?」
「そう。スタールビーから取った名前」
「ほら」
セラがルカを見る。
「何が『ほら』なの」
「やっぱり縁があった」
「まだ何もないでしょ」
男性が笑う。
「何かあるの?」
「私たち、二人で音楽やってるんです」
「へえ」
セラは自分を指した。
「私が、セラ・ルビー」
続いてルカを指す。
「こっちが、ルカ・スターレット」
「ルビーと、スター……」
男性が二人を見比べる。
「それでスタールビー?」
「それだけじゃなくて」
セラが少し笑った。
「実は私たちのユニット名、グレイプフルーツっていうんです」
「そっちまでグレープフルーツかぁ。面白い」
「はい。果物は普通に“グレープ”ですけど、私たちはあえて“グレイプ”」
「グレープでなくて、あえてグレイプ? なんでまた?」
セラとルカが一瞬、顔を見合わせた。
「北海道で音楽やるなら、ちょっとくらい憧れを混ぜてもいいかなって」
男性は一瞬考えて、
「ああ」
と笑った。
「そっちの“グレイ”ね」
「はい」
「なるほど。グレープフルーツをもじってね」
男性はもう一度、レイワスタールビーを見る。
「そりゃ、この名前は気になるわ」
「でしょ?」
セラが得意げに言う。
ルカが小さく笑った。
「別に私たちのためにつけた名前じゃないけどね」
「分かってるって」
「縁があったんでしょ?」
「そう。勝手に」
「勝手なんだ」
三人が笑った。
「じゃあ、なおさら会っていかなきゃだね」
セラが一瞬、目を丸くした。
「ホントに……いいんですか?」
「そのために来たんでしょ」
「はい!」
「セラ、声」
「あ」
セラが慌てて声を落とす。
「……はい」
「急に小さい」
ルカが笑った。
男性について、二人は放牧地へ向かった。
歩いている間にも、セラの視線は忙しい。
厩舎。
柵。
遠くの馬。
積まれた牧草。
使い込まれた道具。
「キョロキョロしすぎ」
「だって初めてだもん」
「転ばないでよ」
「子供じゃないって」
その直後、小さな段差につまずいた。
「ほら」
「今のは地面が悪い」
「地面のせいにしない」
前を歩いていた男性の肩が揺れている。
笑っているらしい。
「仲いいね、二人」
「長いので」
ルカが答えた。
「腐れ縁です」
セラが言った。
「誰が腐ってるの」
「縁」
「分かってる」
そんな話をしているうちに、
男性が足を止めた。
「いた」
セラも止まる。
柵の向こう。
少し離れたところに、一頭の若い馬がいた。
写真と同じ馬。
――いや。
写真とは、まるで違った。
「……大きい」
思わずセラが呟く。
「馬だから」
ルカが小声で言う。
「それは分かってる」
けれど本当に、それが最初の感想だった。
画面の中では、可愛らしい顔ばかり見ていた。
実際に目の前にすると、
長い脚。
しなやかな首。
光を受ける毛並み。
一つ一つが、写真から想像していたよりずっと大きい。
それなのに顔には、まだ幼さが残っている。
レイワスタールビーがこちらに気づいた。
耳が動く。
顔を上げる。
じっと見ている。
セラも見返した。
「……見てる」
「セラを?」
「たぶん」
「自信あるね」
やがて若馬は、ゆっくりこちらへ歩き始めた。
一歩。
また一歩。
セラの表情から、いつもの軽口が消えていく。
「来た……」
「動かないでね」
男性が言った。
「はい」
「急に触らないで。向こうから来るから」
セラは小さく頷いた。
レイワスタールビーが柵まで来る。
男性には慣れているのだろう。
まず彼の手元へ鼻を寄せる。
ふん。
鼻を鳴らす。
それから――
セラを見た。
「…………」
鼻先が近づく。
セラは動かない。
ふっ。
温かい息が手の甲を撫でた。
セラの目が丸くなる。
「……あったかい」
ルカが吹き出しそうになる。
「生きてるんだから」
「分かってるけど」
もう一度。
今度は袖口。
ふん、ふん、と匂いを嗅ぐ。
「なに?」
もちろん答えない。
鼻先が袖を軽く押した。
「ちょっと」
セラの顔が崩れた。
「かわいい……」
「顔」
「なに」
「すごい顔してる」
「しょうがないでしょ、かわいいんだから」
その声を聞いたのか、
レイワスタールビーが今度はルカへ顔を向けた。
「ルカ、行った」
「実況しなくていい」
ルカの前へ鼻先が来る。
「…………」
「ルカ?」
「なに」
「固まってる」
「近いから」
「かわいいでしょ?」
「……まあ」
鼻先が肩に触れそうになる。
ルカがほんの少し身体を引く。
「まあ?」
セラが楽しそうに覗き込む。
「かわいい」
「聞こえない」
「かわいいって」
「でしょう?」
「なんでセラが得意げなの」
男性は二人のやり取りを見ながら笑っていた。
やがてレイワスタールビーは興味を失ったのか、柵の近くの草へ鼻を下ろした。
セラは、その横顔を見つめる。
「この仔、これから競走馬になるんですよね」
「そうだね」
「いつ頃走るんですか?」
男性は少し考えた。
「まず、そこまで行ければね」
セラが振り返った。
「そこまで?」
「競走馬として走るために育ててる。でも、育てた馬がみんな無事にデビューできるわけじゃない」
さっきまで笑っていた男性の声が、少しだけ変わった。
「怪我する仔もいる。身体が思うようにできない仔もいる。デビューできても、勝てない仔の方がずっと多い」
セラの視線が、草を食べる若馬へ戻る。
「じゃあ……この仔も?」
「分からないよ」
男性は穏やかに言った。
「まだ、何も分からない」
風が吹く。
若い馬のたてがみが揺れた。
レイワスタールビーは、
自分の未来の話をされていることなど知るはずもなく、
ただ草を食べている。
セラが小さく呟いた。
「……そっか」
未来がある。
だから明るい。
そう単純なものではないのだと、
ほんの少しだけ知った。
ルカが尋ねる。
「でも、毎年育てるんですよね」
「うん」
「どうなるか分からなくても?」
男性はルカを見る。
それから、レイワスタールビーを見た。
「分からないから、育てるんだよ」
短い言葉だった。
けれどセラは、なぜかその言葉を覚えた。
しばらくして、ルカが尋ねた。
「レイワスタールビー以外にも、やはり果物から名前をつけた馬って、ここにいるんですか?」
「ああ。いるよ」
「やっぱり」
「昔からそういう名前をつけた馬が何頭かいる」
セラがすぐ反応した。
「ここにいます?」
「今?」
「はい」
「セラ」
ルカが横からたしなめる。
「質問が早い」
「だって気になる」
男性は少し考えてから、放牧地の奥へ目を向けた。
「……一頭いるよ」
セラの目が輝く。
「ほんとですか?」
「ただ――」
男性の表情が、わずかに変わった。
「レイワスタールビーみたいな若い仔じゃない」
「何歳ですか?」
「もう引退してる」
男性が歩き出す。
「こっち」
「名前は?」
「メロゴールド」
ルカがその名を反芻する。
「メロゴールド……それも、グレープフルーツですよね」
「お、さすがだね」
セラが少し得意そうに笑った。
「そりゃ私たち、グレープフルーツ由来ですから」
「そうだった」
男性も笑った。
けれど、その笑顔には先ほどまでとは違うものが混じっていた。
懐かしさなのか。
それとも――
別の何かなのか。
やがて柵の向こうに、一頭の馬が見えた。
レイワスタールビーとは、まるで違う。
こちらへ寄ってくるでもない。
顔を上げるでもない。
陽の傾き始めた放牧地で、
静かに、
ゆっくりと草を食んでいる。
「……あの仔?」
セラが尋ねる。
「そう」
男性は柵に手を置いた。
「メロゴールド」
風が吹いた。
年を重ねた馬のたてがみが、静かに揺れる。
セラはその姿を見ながら尋ねた。
「この仔も、競走馬だったんですよね」
「ああ」
「どんな馬だったんですか?」
男性はすぐには答えなかった。
遠くのメロゴールドを見つめている。
その沈黙が、
セラにもルカにも、
少しだけ長く感じられた。
やがて男性は言った。
「――ダービーまで行ったよ」
セラが瞬きをする。
「ダービー?」
「日本ダービー」
ルカもメロゴールドを見る。
さっきまで、
ただ穏やかに草を食べている一頭の馬だった。
その姿に、
突然、
二人の知らない時間が重なった。
男性は続けた。
「二着だった」
風の中で、
メロゴールドがゆっくりと顔を上げた。
つづく




