第一章 「風の向くまま」
はじめに
本作は『誰モ知ラナイ歌を』シリーズ、第3弾。
アニメやドラマでいうなら、少し長めな時間を描く劇場版――そんな位置にある物語だ。
まだ二人が、ZESTIASという名前を持っていなかった頃。
北海道で少しずつ活動の場を広げていた、二人組の音楽ユニットがあった。
その名は――
グレイプフルーツ。
少し変わった名前には、ちゃんと理由がある。
ボーカルのセラ・ルビー。
ギターのルカ・スターレット。
二人の名前から連想したのは、ルビーレッドやスタールビー。
グレープフルーツにまつわる名前だった。
なら、二人でグレープフルーツ。
――でも、表記はグレイプフルーツに。
そこには、同じ北海道から音楽を鳴らし続けてきた偉大な先輩たちへの、二人なりの小さなリスペクトも混じっていた。
大げさに語るようなものではない。
二人だけが分かっていれば、それでよかった。
そうして生まれた名前が、
グレイプフルーツ。
始まりは、それくらいだった。
まだ北海道の外では、ほとんど誰も知らない名前。
けれど小さなライブハウスでは、少しずつ同じ顔を見かけるようになっていた。
歌を公開すれば、知らない誰かから感想が届く。
ライブを終えれば、
「次も行きます」
そう言ってくれる人がいる。
大きな何かが始まったわけではない。
ただ、二人の歌が二人だけのものではなくなり始めていた。
そんな頃。
二人は一頭の馬と出会う。
いや――正確には、
一頭の馬の名前を見つける。
その小さな偶然が、
遠い牧場から東京のターフへ、
過ぎ去った夢から、まだ見ぬ夢へ、
そして二人自身の名前へと続いていくことを――
このときは、まだ誰も知らない。
八月の終わり。
北海道では、夏が暦より少し早く帰り支度を始める。
札幌を離れてしばらくすると、車窓から建物が減っていった。
低い山の稜線。
広い牧草地。
ところどころに転がる白いロールベール。
青空にはまだ夏の色が残っているのに、窓を少し開けると、入り込んでくる風には微かな冷たさがあった。
助手席のセラが窓を下げる。
風が赤い髪をさらった。
「気持ちいい」
「髪、すごいことになってるよ」
運転席のルカが言う。
セラはサイドミラーを覗いた。
「ほんとだ」
そう言いながら、直そうともしない。
「まあいいや」
「いいんだ」
「今日は誰にも会わないし」
「そういう日に限って会うんだよ」
「誰に?」
「知らないけど」
「じゃあ大丈夫」
「何が」
二人を乗せた車は、日高へ向かっていた。
目的らしい目的はない。
ライブもない。
取材もない。
誰かに呼ばれたわけでもない。
ただの休日。
昨夜、セラが突然、
「明日、海見に行こう」
と言い出した。
それだけだった。
「昨日まで山に行きたいって言ってなかった?」
ルカが訊く。
「昨日は山だった」
「今日は?」
「海」
「明日は?」
セラは少し考えた。
「明日になったら決める」
「自由だねえ」
「ルカも来たじゃん」
「一人で行かせると、どこまで行くか分からないから」
「失礼な」
「前科あるでしょ」
「……あれは道が続いてたから」
「道路はだいたい続いてるの」
セラが笑う。
ルカもつられて笑った。
カーオーディオから流れていた曲が終わる。
一瞬だけ車内が静かになった。
タイヤが路面を転がる音。
風。
遠くで光る海。
今日は曲を作らなくていい。
歌詞を考えなくていい。
次のライブのセットリストも考えない。
そういう時間が、最近は少し貴重になっていた。
グレイプフルーツとして活動を始めた頃は、何もかも二人だけだった。
歌いたければ歌う。
弾きたければ弾く。
聴いている人が三人でも、十人でも構わなかった。
けれど最近は違う。
ほんの少しだけ。
待ってくれる人がいる。
次の歌を。
次のライブを。
嬉しい。
間違いなく嬉しい。
けれど、嬉しいからこそ走り続けてしまう。
だから今日は――休み。
少なくとも、ルカはそう思っていた。
助手席でスマートフォンを眺めていたセラが、不意に身体を起こした。
「……え」
ルカは前を向いたまま訊く。
「なに」
返事がない。
「セラ?」
「ちょっと待って」
「なにが」
画面を何度かスクロールしている。
そして。
「ルカ」
「うん」
「面白いの見つけた」
ルカは小さく息を吐いた。
「……嫌な予感がする」
「なんで?」
「セラがドライブ中に『面白いの見つけた』って言うと、予定が変わるから」
「今日、予定ないじゃん」
「それはそうだけど」
「じゃあ問題ない」
「その理屈、強いな」
セラが画面を見たまま言った。
「――レイワスタールビー」
ルカの眉がわずかに動いた。
「スタールビー?」
「うん」
今度は反応が早かった。
二人にとって、その言葉は馴染みがある。
「馬みたい」
「馬?」
「日高の牧場のSNS」
「へえ」
「若い仔だって。写真かわいいよ」
「今は見られない」
「運転中だもんね」
珍しく素直に引き下がった。
――かと思ったら。
「でもさ」
「なに」
「レイワスタールビーって名前の馬が、たまたま今日来てる日高にいるんだよ?」
「うん」
「しかも私たち、グレープフルーツ由来」
「うん」
「スタールビー」
「うん」
「これはもう――」
「偶然」
ルカが先に言った。
「まだ何も言ってない」
「顔で分かる」
「運命かもって」
「だから偶然」
「夢がないなあ」
「セラの好奇心に全部運命つけてたら、一年中運命だらけになるよ」
「それはそれで楽しそう」
ルカは笑った。
やがて道路脇に駐車帯が見えてきた。
「ちょっと止まる?」
「うん」
ウインカーを出す。
車がゆっくり道路を外れた。
エンジンを止めると、ロードノイズが消えた。
途端に、風の音が近くなる。
草原の向こうを雲の影がゆっくり流れていた。
遠くには海。
空は高い。
セラがスマートフォンを差し出す。
「これ」
ルカが受け取った。
画面には一頭の若い馬が写っていた。
まだどこか幼さの残る顔。
黒く澄んだ目。
カメラに興味を持ったのか、鼻先をこちらへ近づけている。
写真の下に馬名があった。
レイワスタールビー。
ルカの口元が少し緩んだ。
「確かにかわいい」
「でしょ?」
ルカが画面から顔を上げた。
セラは笑っている。
嫌な予感は、もう予感ではなくなっていた。
「……まさか」
「近いんだよね、ここ」
「調べたの?」
「もう」
「早いな」
「車でそんなにかからない」
「いやいや。牧場でしょ。観光施設じゃないんだから、突然行っちゃ駄目」
「分かってるよ」
セラが投稿画面を開く。
「見学希望は事前に連絡してください、って」
「ほら」
「だから電話して聞く」
「今日だよ?」
「駄目なら諦める」
その言い方に、ルカが少しだけ黙った。
セラはこういうところがある。
無理を通そうとはしない。
けれど、
駄目かどうかを確かめる前に諦めることもしない。
歌でも同じだった。
思いついたら試す。
届くかどうかは、投げてみてから考える。
ルカはスマートフォンを返した。
「……ちゃんと、今日突然ですみませんって言うんだよ」
セラの顔がぱっと明るくなる。
「行っていいって言われたら行く?」
「まだ何も言ってない」
「今、言ったようなものじゃん」
「言ってない」
セラはもう電話番号を表示していた。
「電話するね」
「どうぞ」
発信。
数回の呼び出し音。
やがて相手が出た。
「あ、もしもし。突然すみません」
さっきまでとは少し違う、よそ行きの声になる。
ルカは窓の外を眺めた。
「はい。SNSを拝見して……レイワスタールビーという馬が気になって――」
草が風に揺れている。
そのずっと向こうに、
今の二人にはまだ見えない牧場がある。
そこには、
未来を何も知らない若い馬がいて。
かつて東京で、あと少しだけ届かなかった馬がいて。
そして、そこからすでに旅立った一頭の二歳馬がいる。
その名を、
二人はまだ知らない。
電話口のセラが何度も頷いた。
「あ、はい……! ありがとうございます」
声が明るくなる。
ルカはそれだけで結果を悟った。
電話を切ったセラがこちらを見る。
「ルカ」
「いいって?」
「うん」
「……ほんとに行くことになった」
「行こう」
「海は?」
セラは一瞬だけ考え、
窓の向こうを指さした。
「もう見た」
「そういうところだよ」
エンジンがかかる。
車は再び道路へ戻った。
ただ海を見るだけだったはずの休日。
ほんの小さな寄り道が始まった。
このとき二人が追いかけていたのは、
SNSで見つけた、
少し自分たちに縁を感じる名前の――
可愛い一頭の馬だけだった。
まだ、
それだけだった。
つづく




