第2話 朱華の秘毒と、疑り深い太医
(きしり、と蝶番が軋む音で目が覚めた。)
夜明け前の下女部屋。小梅は布団の中で、頭に手をやった。頭痛はない。熱もない。つまり、昨夜のあれは幻聴でも夢でもなかったということだ。
〈おはよう、とでも言うところか。存外、寝起きは悪くないようだな、貴様〉
(マジかこの声、本当にいる。しかも朝から元気だな、五年前に死んだ幽霊のくせに)
「……本当に、いるんですね」
小梅は誰もいない天井に向かって、小さく呟いた。豆花がまだ隣で寝息を立てている今のうちに、確認すべきことは山ほどある。
〈幽霊とは失敬な。妾は魂だ。魂と幽霊とでは格が違う〉
(いや、その違い、今どうでもいいから)
「昨日の話、詳しく聞かせてください。粥の毒、あなたが五年前に作ったものと同じだって」
〈「牡丹の涙」――妾が編んだ七つの秘毒のうち、最も基本にして、最も見破りにくい代物よ。杏仁の香りに、毒の臭いを紛れさせる。素人には決して作れぬ配合だ〉
〈本来ならば、その製法は妾の死とともに、この世から消えているはずだった〉
(つまり――)
「その毒を今も使えるのは、あなたを直接知っている人間だけ、ということですか」
〈察しがいいな。気に入った〉
朱華の声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。自分の死後もなお、自分の名を騙って毒を撒く者がいる。悪女と呼ばれた誇りが、それを許さないらしい。
(面倒なことに首を突っ込んじまったな。でも――)
(前世の俺は、他人の尻拭いばかりさせられて、誰も俺の尻拭いなんてしてくれなかった。今度くらいは、自分から首を突っ込むだけマシか)
小梅は起き上がり、粗末な麻の上衣に袖を通した。
その日、毒見の呼び出しは玉貴妃の朝餉ではなく、太医院からだった。
「毒見侍女の小梅、こちらへ」
低く、涼やかな声。振り返ると、白い医官服の若い男が立っていた。年の頃は二十代半ば。切れ長の目の下に、隈が濃い。数日、まともに寝ていない色だ。
「太医の白澤だ。昨夜、玉貴妃の粥で毒見をして生き延びたと聞いた」
(うわ、めんどくさいのが来た)
「はい。運がよかっただけです」
「運、ね」
白澤は小梅の顔を、値踏みするように見た。
「毒見役が同じ毒杯を三度避け続ける確率を計算したことがあるか? ないなら教えてやろう。ほぼ、ない」
(鋭い。しかも頭の回転が速いタイプだ、こいつ)
〈ほう。妾好みの、生意気な口を利く若造だな〉
(それ、今どうでもいいから黙ってて)
「あの粥には、杏仁の香りに似せた毒が仕込まれていた。普通の毒見役なら気づかない。だがお前は箸を止めた」
白澤は懐から小さな竹筒を取り出し、小梅の前に置いた。
「昨夜の粥の残り滓だ。この毒の正体を言い当てられるなら――俺はお前を、ただの下女とは思わない」
(試されてる。……いや、これはチャンスだ)
小梅は竹筒の蓋を開け、匂いを嗅いだ。前世の記憶が、分子式のように蘇る。
「杏仁――もとい、苦扁桃の香りに似せていますが、本物の杏仁ならここまで喉の奥を焼くことはありません。恐らく、別の毒草の汁を杏仁油で香り付けしたものかと」
〈正解だ。「牡丹の涙」の基礎配合そのままだな〉
朱華の満足げな声が、頭の中で響く。
白澤の目が、わずかに見開かれた。
「……下女風情が、よくそこまで言い当てたものだ」
「たまたま、鼻がいいだけです」
「そうか。なら次は、鼻ではなく頭で答えてもらおう」
白澤は懐から一枚の紙を取り出し、小梅の前に広げた。後宮内で過去五年に起きた「原因不明の急死」の記録が、几帳面な字でびっしりと並んでいる。
「五年前、朱華貴妃が処刑されて以来、後宮の毒殺は絶えたとされてきた。だが実際は――年に一、二件、こうした『原因不明』が続いている」
(つまりこいつは、朱華が死んでからも事件が終わってないって、とっくに気づいてたってことか)
〈面白い男だ。生かしておく価値がある〉
(あんたの評価基準、いちいち物騒なんだよ)
小梅は紙面に目を落とし、乾いた喉に唾を飲み込んだ。串焼きを食べる暇は、当分なさそうだった。
「小梅、といったな。俺の助手として太医院に来い。俸給は今の倍出す」
「……断ったら?」
「断らせない。お前はもう、次に狙われる側の人間だからな」
朱華が喉の奥で笑うような気配がした。
〈やれやれ。悪女の遺産を継ぐ羽目になるとはな。せいぜい励め、小梅〉
(他人事かよ)
窓の外で、後宮の鐘が朝を告げた。小梅の――霞の、二度目の人生における、初めての「昇進」だった。




