第1話 三度目の毒と、二度目の朝
(お店の串焼きが食べたいなあ)
小梅は、目の前の蓮の花びらの浮いた白粥を見て、そう思った。
ここは玲国の後宮。翡翠の瓦、金の欄干、歩けば香が漂う、見渡す限りの絢爛豪華である。そしてその片隅の、日の当たらない下女部屋で、小梅は今日も誰かの毒見をしていた。
(前世の俺――いや、今は私か――は、確かおにぎりを喉に詰まらせそうになりながら、頭を打って死んだんだっけ)
生前の名前は霞。製薬会社の研究職を、三十二歳の冬に「事業再編」という名の神の声によって失い、そのままコンビニ前で倒れた。気づけば赤ん坊で、気づけば玲国で、気づけば村の娘・小梅として育ち、気づけば人さらいに売られて後宮の最下層にいた。
転生特典? ない。美肌? そばかす。チート? 毒で死ねる。
毒見役とは、妃に出される料理を一口先に食べ、一時間経っても死ななければ「無毒」と判定する職業である。要は人間試験管だ。前世で培った薬学の知識が役に立つかというと、微妙である。毒の種類が違う。あちらのmg単位の精密さなど、こちらの「匙ひとさじで顔が膨れて死ぬ」世界の前では無力だった。
(それでも、給金は出る。食事は出る。住む場所もある)
前世の職場とそう変わらない。いや、違うところがひとつある。こちらは本当に死ぬ。
小梅は箸を取り、粥を一口、口に運んだ。
蓮の蜜の甘さ。仄かな杏仁の香り。
(――杏仁?)
その瞬間には遅かった。喉が焼けた。視界が明滅する。粥椀が落ちて、白い粥が床に散った。
「あら、ダメだったのね」
どこかで誰かの声がした。優しい声だった。それが最後の記憶である。
目が覚めると、小梅は下女部屋の薄い布団の上にいた。
「……え?」
喉は焼けていない。胸も痛くない。見れば、井戸端の草は三日分、まだ青い。同僚の豆花が「小梅、今日は玉貴妃さまの膳だよ」と、三日前に聞いたのと同じ声で言った。
(……戻った?)
一度目は事故だと思った。二度目は夢だと思った。そしてこれが三度目である。死ぬと、三日巻き戻る。そういう法則らしい。
(マジか。俺、死ぬたびに残業が三日前に巻き戻るとか、地獄の労働環境にも程があるぞ)
ぼやきつつも、頭は冷静だった。前世のクソみたいな職場が与えてくれた唯一の財産は、「理不尽を処理する冷静さ」である。
毒見の膳は三日前と同じく玉貴妃の部屋に運ばれた。同じ白粥。同じ蓮の花びら。小梅は箸を止めた。
(杏仁。――あの香り、前はもっと薄かった。いや、前の二度も、俺は同じものを食べて死んでいる)
「小梅? どうしたの、早く食べなさい」
膳を運んできた上級侍女が、にっこり笑う。美しい笑みだった。前世で霞は学んでいる。女の笑顔ほど都合のいい封印はない、と。いや、これはこの世界で学んだか。
「すみません、腹の調子が悪くて。こいつは替えてもらえませんかね」
「規則よ。毒見は先食が義務。嫌なら減俸」
(減俸。死ぬよりはマシか)
小梅は粥椀を押し戻した。その夜、玉貴妃の部屋では、替わりに毒見をした別の下女が死んだという。
(……つまり、あの粥は本当に毒入りだった。で、俺は三日戻ったおかげで生き延びた。で、別の誰かが死んだ)
夜、板の間の布団の上で、小梅は天井を見た。罪悪感はある。だが、俺が死ねば誰かが生きる、という種類の話でもない。毒を盛った奴がいる。そいつは、俺が替えても、誰かを殺すまで盛り続ける。
前世の俺は、理不尽の前でいつも目を逸らしていた。リストラの朝も、机に座って「お疲れ様でした」のメールを打つ以外、何もできなかった。
だから今回くらいは――
(くそ、面倒だ。だが、放っておくと、次はまた俺の番が来る。だったら原因を潰したほうが、結果的に楽だ。……そう、あくまで楽をするためだ)
そう自分に言い聞かせた、その時だった。
〈――ふむ。ようやく少しは働く気になったか、貴様〉
声は、頭の中からした。
小梅は飛び起きた。部屋に誰もいない。窓は閉まっている。天井に蜘蛛がいるだけだ。
〈こちらだ。中だ。貴様の中にいる〉
「……は?」
〈妾は朱華。五年前、この後宮で処刑された貴妃朱華である。世間では「毒婦」「悪女」などと下品な呼ばれ方をしているが、まあ半分は合っている〉
声は傲慢で、高く、それでいてどこか、長いこと人と話していない掠れがあった。
〈貴様、三度死んだな。妾はそれを見ていた。奇妙な術を使う娘だと思ってな〉
(……待て待て待て。落ち着け。俺はまず状況を整理する。一、俺は死に戻りをした。二、死んだはずの伝説の悪女妃が俺の中にいる。三、あの?)
〈毒見の粥の件、犯人には心当たりがあるぞ〉
声は、楽しそうに言った。
〈なにせあの毒の配合、五年前に妾が作ったものと同じだからな〉
(――は?)
(なんだそれ。それってつまり、あんたの毒で俺は三回も殺されたのか?)
〈やれやれ、働きたくないとぬかす割に、貴様はこれからとても忙しくなるぞ〉
天井の蜘蛛が、ゆっくりと糸を降りていく。
小梅――元・霞は、ひとつ、深いため息をついた。
(……焼き鳥、食べたかったなあ)
人生、二度あっても、楽にはならないらしい。




