第四話「銀座の骨」
出発は夜中の二時と決まった。
GHAの監視ドローンは二十四時間稼働しているが、深夜は巡回の密度が下がる。ミサキの観測では、午前一時から三時の間が最も薄い。人間の睡眠サイクルに合わせてAIが最適化した結果、皮肉なことに、その時間帯が最も人間に都合がいい抜け穴になっていた。
テツは出発まで、地図を読んでいた。
紙の地図だ。GHAのデータベースには存在しない、手書きの書き込みだらけの古い図面。ミサキが何年もかけて集めた、「AIが消した東京」の記録だった。
「銀座の郵便トンネル」テツは呟いた。「戦後すぐに掘ったやつか」
「一九四八年です」ミサキが隣に座った。「銀座の各デパートに地下から郵便物を届けるために作られた。高度経済成長期に一部が拡張されて、バブル崩壊後に放棄された」
「天井の素材は」
「大半はレンガ積み。一部コンクリート補強」
「レンガか」テツは指で地図をなぞった。「レンガは悪くない。コンクリートより正直だ。ひびが入ったら入ったなりに、ちゃんと教えてくれる」
ハルトが横から地図を覗いた。「GHAが崩落九十八パーセントと判定したのは、データが古いからですか」
「それもある」テツは言った。「だがGHAの判定には、もっと根本的な欠陥がある」
「欠陥?」
「あいつらは平均で考える。レンガ一万枚のうち何枚が劣化しているか。数字を出して、危険な割合を超えたら崩落リスクと判定する。だが実際の構造は平均じゃない。一枚一枚が違う。どこに重さがかかるかが違う。どこに歪みが出るかが違う。全体が九十八パーセント危なくても、通れる経路が一本あれば通れる」
「その一本を、テツさんが見つけられると」
テツは地図から目を上げてハルトを見た。「見つけられなかったら引き返す。それだけだ」
午前一時五十分。
テツ、ハルト、ミサキの三人が動いた。
地下コミュニティの他のメンバーは残った。全員が動けば足跡が増える。最小人数で動くのが鉄則だ。
ミサキが先頭で道を選んだ。テツが中間。ハルトが最後尾。
渋谷川の暗渠から入り、古い下水管を経由して西銀座方向へ。ミサキは地図を見なかった。頭の中に全部入っている。
「どのくらいかかりますか」ハルトが小声で言った。
「郵便トンネルの入口まで四十分」ミサキは前を向いたまま答えた。「トンネル内は、わからない」
「わからない?」
「入ったことがないから」
ハルトは黙った。
テツは後ろのハルトの気配を感じた。怖いだろう、と思った。当然だ。昨日まで霞が関でキーボードを叩いていた人間が、真夜中に東京の地下を這っている。
だが、ハルトは弱音を言わなかった。
悪くない、と再びテツは思った。
郵便トンネルの入口は、古いビルの基礎の隙間にあった。
ミサキが懐中電灯を向ける。黒い口が開いている。冷たい空気が流れてきた。
テツは入口の縁に手を当てた。レンガの感触。指先で表面をなぞり、目地の状態を確認する。それから、軽く叩く。耳を近づける。
「テツさん、どうですか」ミサキが言った。
「入口付近は問題ない」テツは立ち上がった。「ただし、中で何かあったときは俺の指示に従え。二人とも」
「はい」ハルトが即答した。
ミサキも頷いた。
テツが先頭に立った。
トンネルの中は、思ったより広かった。
天井まで二メートル弱。大人が立って歩ける。幅は一・五メートルほど。壁はレンガ積み、天井は一部コンクリートで補強されている。
テツは歩きながら、絶えず壁と天井を確認した。
懐中電灯の光を当てながら、指先で触れ、叩く。音を聞く。ひびの方向を読む。水の染み方を確認する。レンガ一枚一枚が語っていることを、身体で受け取る。
「大丈夫そうですか」ハルトが後ろで言った。
「今のところ」テツは短く答えた。
五分、十分。トンネルは続く。
十五分ほど進んだところで、テツが止まった。
天井に、大きなひびが走っている。レンガが数枚、すでに落ちていた。その周辺、直径三メートルほどの範囲が明らかに危ない。
「ここか」ミサキが呟いた。「GHAが崩落と判定した区間」
テツは懐中電灯をゆっくり動かした。壁、天井、床。ひびの走り方、レンガの傾き、水の流れた痕跡。
しばらく無言だった。
「右の壁際を一列で行く」テツは言った。「天井から顔を近づけるな。足音を立てるな。俺の歩き方をそのまま真似ろ」
「なぜ右の壁際なんですか」ハルトが聞いた。
「重さが左に偏ってる。右はまだ逃げてる。今すぐ崩れるとしたら左から始まる」
「それはどうやって——」
「見ればわかる」
テツはゆっくり歩き始めた。
一歩ずつ、足の裏で床の感触を確認しながら。体重を均等に分散させながら。頭上のひびを刺激しないように、振動を最小限に。
後ろでハルトとミサキが、テツの足跡を正確になぞって続いた。
十メートル。二十メートル。
天井からパラパラと砂が落ちた。三人が同時に止まった。
テツは天井を見上げた。ひびが動いていない。砂だけだ。
「続ける」
また歩き始めた。
三十メートル。
天井が、元に戻った。レンガが安定している。ひびがない。
テツは立ち止まって、後ろを振り返った。
ハルトが、口を固く結んで立っていた。顔が青い。だが、立っている。
「抜けた」テツは言った。
ハルトは長い息を吐いた。ミサキは無言で天井を見上げ、それから小さく目を閉じた。
「この先、どのくらいですか」テツはミサキに聞いた。
ミサキは地図を広げた。懐中電灯で照らす。
「旧第一生命ビルの真下まで、あと六百メートル」
テツは頷いた。
「行くぞ」
続く




