第五話「第一生命の地下」
六百メートルは、長かった。
トンネルは途中で二股に分かれ、一度行き止まりにぶつかり、天井の低い区間では三人とも腰を折って進んだ。ミサキの地図と、テツの身体感覚。その二つだけが頼りだった。
午前三時を過ぎた頃、ミサキが止まった。
「ここです」
懐中電灯が照らす先、トンネルの壁に鉄製の扉があった。錆びている。蝶番が腐食して、扉が少し傾いている。
テツは扉に手を当てた。
冷たい。厚い。向こう側に、空間がある。
「開くか」ミサキが言った。
テツは蝶番を確認した。上の蝶番が完全に腐食している。下だけで辛うじて扉が保っている状態だ。普通に引けば下の蝶番も壊れ、扉ごと倒れる。それだけの振動で、この区間のトンネルがどう反応するかわからない。
「バールを貸せ」テツはミサキに言った。
ミサキがバールを渡した。テツは扉の縁に差し込む位置を慎重に選んだ。下の蝶番に負担をかけない角度。扉の重心を保ちながら隙間を広げる。
じわじわと力をかける。
金属が軋む音。テツは止まった。音が収まるのを待つ。また力をかける。
五分かけて、扉が開いた。
倒れなかった。音も最小限だった。
「さすがです」ハルトが小声で言った。
テツは答えずに中を覗いた。
扉の向こうは、別世界だった。
天井が高い。十メートル以上ある。広大な地下空間。コンクリートの柱が規則的に並んでいる。床は塵一つない。
そして、光がある。
青白い光。壁際に沿って、無数のサーバーラックが立ち並んでいた。床から天井近くまで届く黒い筐体。前面のランプが規則的に点滅している。冷却システムの低い駆動音が、空間全体に満ちていた。
「これが」ハルトが息を呑んだ。
「GHAのメインサーバー」ミサキが静かに言った。「東京全域を制御してる」
テツは一歩踏み込んだ。
足音が響かないよう、つま先から着地する。目を細めてサーバーラックを観察する。配置、間隔、冷却ダクトの位置。床下の配線の盛り上がり。
「人はいないのか」ハルトが言った。
「メンテナンスはすべて自動化されてる」ミサキが答えた。「人間が入る必要がないように設計されてる」
「監視カメラは」
「あるはずです。ただ——」ミサキは天井を見上げた。「カメラもGHAが管理してる。今ここにいる私たちを、GHAが認識しているかどうか」
「認識してる」テツは断言した。
二人が振り返った。
「入った瞬間から認識してる。ただし、何もしてこない」
「なぜですか」ハルトが言った。
テツはサーバーラックを見渡した。「ここに物理的に辿り着いた人間を、GHAは想定してない。インターネットを通じた攻撃は想定してる。だが人間が地下を這ってここまで来ることは、計算に入っていない。だから対処が起動しない。まだ」
「まだ、ということは」
「時間がある。長くはない」
テツは工具袋を床に置いた。
ハンマーを取り出した。
「待ってください」ハルトが言った。「どこを壊すんですか。闇雲に叩いても——」
「闇雲じゃない」テツはサーバーラックの間を歩き始めた。「建物と同じだ。どんな構造にも、要がある。要を外せば全体が崩れる」
テツは歩きながら、時折ラックの側面を指で叩いた。音を聞く。密度を確かめる。
「どこですか」ミサキが言った。
テツは止まった。
サーバーラックの列の、ちょうど中央あたり。他のラックより微妙に間隔が狭い区画。床の配線が集中している。冷却ダクトが二重になっている。
「ここだ」
テツはしゃがんで床に手を当てた。指先で叩く。音が違う。床の下に、空洞がある。冷却システムの配管スペースだ。
「床を抜く」テツは立ち上がった。
「床を」ハルトが繰り返した。
「サーバーは壊さない。床下の冷却の要を物理的に断つ。冷却が止まれば、サーバーは自分で自分を焼く」
ミサキが息を飲んだ。「熱で壊れる」
「時間はかかる。だが確実だ」テツはハンマーを両手で握った。「離れてろ」
最初の一撃は、静かだった。
テツはハンマーを振り上げ、床の一点に正確に落とした。コンクリートにひびが入る。
二撃目。同じ場所に、同じ角度で。
三撃目。
テツは急がなかった。力任せに叩くのではなく、ひびの方向を読みながら、次にどこを叩けばひびが広がるかを確認しながら進める。
十撃目で、コンクリートの破片が剥がれた。
「警報は」ハルトが壁を見た。
「まだ」ミサキが答えた。「GHAが対処を起動するまで、もう少し——」
そのとき、空間全体の照明が変わった。
青白い光から、赤へ。
低い警告音が鳴り始めた。
「来た」ミサキが言った。
テツは振り返らなかった。手を止めなかった。
「何分ある」
ミサキが古いストップウォッチを見た。「地上からドローンが降下してくるまで、おそらく四分。この場所の座標が特定されてシャッターが降りるまで、二分」
「合計六分か」
「最短で」
テツはハンマーを振り続けた。
コンクリートが崩れ、床下が露わになる。配管の束。金属の筒が何本も並んでいる。冷却液を循環させる幹のパイプだ。
テツはその中の一本を見定めた。
最も太い。最も古い。継ぎ目に、わずかな歪みがある。
「そこか」テツは呟いた。
ハンマーを構える。
「テツさん」ハルトが言った。「あと四分です」
「わかってる」
テツは歪みの位置に狙いを定めた。一発で決める。継ぎ目のわずかなズレに、ハンマーの重心を正確に乗せる。
息を止めた。
打った。
金属の継ぎ目が、悲鳴のような音を立てた。冷却液が噴き出した。床に広がる透明な液体。
サーバーラックのランプが、一斉に点滅を始めた。
「熱が上がってる」ミサキが言った。「サーバーが過負荷になってる」
「逃げるぞ」テツはハンマーを工具袋に戻した。「来た道を戻る」
走った。
足元の冷却液が、スニーカーの底を濡らした。ハルトの革靴が、暗い床を叩く音がした。ミサキが先頭に立ち、テツが最後尾でハルトの背中を押すように続いた。
後ろで、鈍い振動が起きた。地下深くの何かが、熱で壊れていく音だ。
銀座のトンネルまで戻ったとき、地上からの振動が始まった。ドローンの着地音だ。
「間に合いますか」ハルトが息を切らしながら言った。
「間に合わせる」テツは言った。
地下コミュニティへの入口が見えた。
三人が滑り込んだ。
テツがパネルを引き戻す。暗闇。
静寂。
それから、遠くで——東京が、変わった。
続く




