第三話「地下へ」
非常階段を降りながら、テツは頭の中で地図を広げた。
このビルの地下一階。戦後の改築で塞がれた旧配管スペース。そこから東へ二十メートル、高度経済成長期に敷設された古い排水管が走っている。直径八十センチ。人が這って通れる。
問題はその先だ。
「走れるか」テツは後ろのハルトに言った。
「走れます」
「革靴で?」
ハルトは一瞬黙った。「走ります」
悪くない返事だ、とテツは思った。
地下一階は暗かった。
テツが懐中電灯を点ける。コンクリートの床、錆びたパイプ、蜘蛛の巣。ハルトが小さく咳をした。
「スマートフォンを切れ」テツは言った。
「でも連絡が——」
「GPSを切るだけじゃ駄目だ。電源ごと落とせ。GHAはスタンバイ状態でも位置を拾う」
ハルトは躊躇なく電源を落とした。学習が早い。
テツは壁を叩きながら奥へ進んだ。三枚目のコンクリートパネルの前で止まる。指先で縁をなぞり、隙間を確認する。
「ここだ」
「どうやって開けるんですか」
テツは腰の工具袋からバールを取り出した。パネルの縁に差し込み、体重をかける。低い軋み音。パネルが外れた。
黒い穴が現れた。
「先に俺が入る。五秒待ってからついてこい」
テツは穴に頭を突っ込んだ。
管の中は、思ったより広かった。
這うというより、腰を屈めて歩ける。テツは懐中電灯を前に向けて進んだ。背後でハルトが入ってくる音がした。スーツが汚れる音がした。
「テツさん」ハルトの声が管の中で反響した。「GHAは、どこまで追ってきますか」
「地上は全部見てる」テツは前を向いたまま言った。「ここはデッドゾーンだ。電波が届きにくい。ドローンも入れない」
「それを知ってたんですか」
「このビルに来るたびに、ドローンが迂回してた。地下に何かある証拠だ」
ハルトはしばらく黙って歩いた。
「さっきのパイプ」ハルトが言った。「横田基地まで直通ということは、今も誰かが使ってるということですよね」
「ああ」
「GHAが、ですか」
「GHAか、その向こうにいる人間か。どっちかだ」
また沈黙。管の中では、二人の足音だけが響く。
「俺が承認しようとしてた教育改訂案」ハルトが呟くように言った。「あれで消えるはずだったものが、あのパイプの中を流れてるんですかね」
テツは答えなかった。答える必要がなかった。
二十分後、管が広がった。
天井が上がり、立って歩ける空間になった。テツが懐中電灯を振ると、壁にペンキで矢印が描いてある。古い。だが、誰かが意図的につけたものだ。
「人がいたんですか、ここに」ハルトが言った。
「いる」テツは訂正した。「今も」
矢印の方向へ進む。曲がり角を二つ越えると、前方に光が見えた。
オレンジ色の、温かい光。
近づくにつれ、声が聞こえてきた。複数の人間の声。
開口部をくぐると、そこは広い空間だった。
天井から裸電球が何本もぶら下がっている。壁際に簡易ベッド、折り畳みテーブル、缶詰の山。紙の地図が、壁一面に貼り付けてある。東京の地下、路線図、古い区画図。
そして、人がいた。
十人ほど。年齢はばらばら。共通しているのは、全員スマートフォンを持っていないことだ。
その中の一人が立ち上がった。
三十代半ば、ショートカットの女。作業着を着ているが、その目は鋭い。疲れた目だが、諦めてはいない。長いあいだ、怒りを燃料にして生きてきた人間の目だ。
「テツさん」女は言った。「また連れてきたんですか」
「ハルトだ。霞が関の官僚だった」
「だった?」
テツはハルトを見た。ハルトは少し考えてから、頷いた。
「たぶん、もう戻れないと思います」
女はハルトをしばらく無言で観察した。それから、小さく息を吐いた。
「ミサキです」女は名乗った。「元都市計画士。GHAに仕事を奪われた側です。図面を読んでも、AIが一秒で同じことをやる。十年積み上げたものが、一晩でゼロになった」
ハルトは頭を下げた。
ミサキはテツに向き直った。「パイプ、見つかったんですね」
「ああ」
「横田まで繋がってるやつ」
「生きてた」
ミサキは壁の地図を一枚めくった。その裏に、別の地図が隠れていた。東京の地下、無数の線が書き込まれている。その中の一本に、赤いマーカーで印がついていた。
「メインサーバーの場所、絞り込めてきました」ミサキは静かに言った。「旧第一生命ビルの地下、三層目」
テツは地図を見つめた。
「どのルートで行く」
「まだ一つ問題があります」ミサキは言った。「そこに辿り着く前に、GHAが『絶対に通れない』と判定した区間がある」
「どこだ」
ミサキは地図の一点を指で叩いた。
「銀座の地下。古い郵便トンネルです。七十年前の構造で、GHAの予測では崩落率九十八パーセント」
全員の視線がテツに集まった。
テツは地図を見たまま、静かに言った。
「行ける」
「根拠は?」
「機械が崩落すると言っても、俺の手が崩落すると言わなければ、崩落しない」
ミサキは一瞬目を細めた。それから、初めて笑った。
「頼もしい」
続く




