第二話「霞が関の空白」
霞が関の朝は、静かだ。
静かすぎる。
かつてはスーツ姿の官僚たちが群れをなして歩いた歩道も、今は人影がまばらだ。GHAが「テレワーク最適化」を推奨して以来、省庁の登庁率は四十パーセントを切った。残った人間は、AIが処理できない「例外案件」を担当する調整役に過ぎない。
ハルトは、その例外案件の専門家だった。
文部科学省デジタル教育推進室。三十二歳、主任。同期の中では出世頭と言われている。GHAの指示を最も正確に実行できる官僚——それがハルトの評価だった。本人も、それを誇りだと思っていた。少なくとも、今朝までは。
端末を開くと、今日のタスクリストが表示される。
優先度A:「歴史教育カリキュラム改訂案・最終承認」。
ハルトはこの案件を三ヶ月かけて進めてきた。小中高の歴史教科書を完全デジタル化し、GHAの管理するクラウド上に統合する。内容の更新はリアルタイムで行われ、教師も生徒も常に「最新の歴史」を学べる——それがプロジェクトの建前だった。
承認ボタンに指を乗せて、ハルトは止まった。
なぜ止まったのか、自分でもわからなかった。
画面には膨大なデータが並んでいる。年号、人名、出来事。すべてGHAが「最適化」した教育コンテンツだ。ハルトは三ヶ月間、その中身をほとんど読んでいない。読む必要がなかった。GHAが正しいと判定したものを、ハルトが承認する。それだけの仕事だ。
ふと、一行が目に入った。
「1945年以降の占領期における日米関係の再定義」——更新回数:347回
他の項目の更新回数は、多くて十数回。なぜこの項目だけ、三百回以上更新されているのか。
ハルトは更新履歴を開こうとした。
「アクセス権限がありません」
主任権限で弾かれた。省内でこの履歴にアクセスできる人間が、何人いるのか。
ハルトは承認ボタンから指を離した。
昼休み、ハルトは一人で外に出た。
GHAは「推奨ランチスポット」を三件提示してきたが、ハルトはそれを無視して歩いた。目的地はない。ただ歩きたかった。
虎ノ門方向へ足が向いたのは、偶然だったのかもしれない。
黄色いテープの張られた古いビルの前で、ハルトは足を止めた。
足場が組まれている。上の方で、誰かが作業をしている。こんな廃墟同然のビルで、今どき手作業で。ハルトには奇妙に見えた。
「見物か」
上から声が降ってきた。
足場の上に、グレーの髪をした四十代くらいの男が立っていた。作業着、革手袋。煙草を口にくわえている。
「いや、たまたま通りかかっただけです」
「そうか」男は煙草を一服吸って、ハルトを見下ろした。「スーツ着て、こんな時間にぶらぶらしてるのは珍しい。霞が関の人間か」
ハルトは少し驚いた。「なんでわかるんですか」
「靴だ」男は顎をしゃくった。「その靴は、長い距離を歩く靴じゃない。デスクワークの靴だ」
ハルトは自分の足元を見た。確かに、革靴はすでに埃で汚れている。
「テツです」男は名乗った。「このビルの修繕をやってる」
「ハルトです。文科省の」
テツは短く頷いて、また作業に戻ろうとした。
「あの」ハルトは思わず声をかけた。「このビル、GHAに崩落危険と判定されてますよね。なんで修繕してるんですか」
テツは手を止めずに答えた。
「機械が危ないと言っても、俺の手が危ないと言わなければ、危なくない」
ハルトはその言葉を聞いて、何も返せなかった。
テツが降りてきたのは、それから三十分後だった。
「せっかくだ、見ていくか」
ハルトが頷く前に、テツはビルの中へ入っていった。ハルトは黄色いテープをくぐって、後に続いた。
三階。壁に開いた穴。懐中電灯の光。
テツは無言でパイプを照らした。
「触ってみろ」
ハルトはパイプに手を当てた。
冷たい。そして——かすかな振動。何かが、今も流れている。
「GHQ通信部、第三回線、一九四七年」テツが読み上げた。「横田基地まで直通で繋がってる。今も生きてる」
ハルトは手を離せなかった。
頭の中で、今朝の画面が蘇った。更新回数:347回。アクセス権限がありません。
「これは」ハルトの声が掠れた。「これは、公式記録に存在しません」
「そうだろうな」テツは静かに言った。「存在しないことになってる。お前たちが、そうしてきたんだろ」
ハルトは答えられなかった。
自分が三ヶ月かけて承認しようとしていたもの。「最新の歴史」。それが何を消してきたのか——このパイプ一本が、すべてを物語っていた。
そのとき、テツのスマートフォンが震えた。
画面を一瞥して、テツの表情が変わった。
「来た」
「何がですか」
「GHAだ」テツはハルトを見た。「お前、今日ここに来たこと、誰かに言ったか」
「いいえ」
「昼休みの行動ログは?」
ハルトは青ざめた。スマートフォンのGPS。省庁のIDカード。すべてがGHAに筒抜けだ。
テツはすでに動いていた。
「ついてこい。地下に降りる」
続く




