第一話「バグ」
本作はフィクションです。作中に登場するGHA(政府管理AI)、ネクストアーバン社、および地名・組織名・固有名詞の一部は架空のものです。実在の人物・団体・組織・機関とは一切関係ありません。また、GHQおよび横田基地に関する描写は歴史的事実に基づくものではなく、物語上の設定として使用しています。
虎ノ門の空は、ドローンで埋まっている。
配送用、監視用、測量用。羽音のない機体が整然と飛び交い、地上の人間たちは誰も空を見上げない。見上げる必要がないからだ。GHA――政府が導入した都市管理AIのことを、人々はそう呼んでいた――が最適なルートを選んでくれる。GHAが最適な時間を教えてくれる。GHAが、今日の東京に必要なものをすべて決めてくれる。
テツは、足場の上で煙草に火をつけた。
違反だ。もちろん。敷地内全域禁煙、AIドローンが煙を感知すれば三秒以内に警告音が鳴る。だが今日は鳴らない。このビルの上空だけ、ドローンが妙な軌道を描いて迂回している。まるでここを避けるように。
「やっぱりな」とテツは呟いた。
築七十年。虎ノ門再開発の波に呑まれず、奇跡的に残された六階建ての雑居ビル。外壁は黒ずみ、非常階段は錆びている。GHAの判定は「崩落危険度九十九パーセント」。立入禁止の黄色いテープが入口に張られていた。
そのテープを、テツは今朝また自分で切った。
「テツさん、今日も来たんですか」
下から声がした。現場の若い助手、ケンジだ。ヘルメットの上に小型センサーをつけている。GHAと連動して危険を知らせる安全管理デバイスだ。今どきの職人は全員これをつける。テツだけがつけていない。
「当たり前だ。仕事だろ」
「でも昨日、事務所にまた警告が来て。崩落リスクの高い現場への立ち入りは推奨されないって」
「推奨されない、ね」テツは煙草の煙を吐き出した。「禁止じゃないんだろ」
ケンジは黙った。
テツは足場から地上を見下ろした。再開発で更地になった隣の区画に、もう新しい基礎工事が始まっている。アメリカ資本のデベロッパー、ネクストアーバン社。去年だけで東京に四棟建てた。全部同じ顔をしたガラス張りのビルだ。
テツは視線を手元に戻す。
今日の作業は三階の外壁補修。コンクリートの剥落が進んでいる部分に、下地を塗り直す。機械には任せられない細かい仕事だ。AIは「補修の費用対効果はゼロ」と判定しているが、テツには関係ない。このビルのオーナーの爺さんに頼まれた。それだけだ。
コンクリートを削るノミを当てたとき、テツの手が止まった。
音が、違う。
長年の勘だ。説明できない。コンクリートを叩いたときの返ってくる音で、その奥に何があるかがわかる。固いか、空洞か、水が染みているか。今の音は——空洞だ。それも、かなり広い。
「おい、ケンジ」
「はい」
「三階の図面、持ってきてるか」
「GHAのデータベースから落としたやつなら」
「そっちじゃない。紙の図面だ。爺さんから預かった古いやつ」
ケンジが怪訝な顔をした。「紙って……あの、黄ばんだやつですか」
「それだ」
図面は、一九五〇年代のものだった。
手書きの線と、薄れた墨の数字。ケンジはスマートフォンで読み込もうとしたが、GHAが「フォーマット非対応」と弾いた。結局、テツが古い図面を広げて目で読んだ。
「……ここだ」
三階の一室。図面には「通信室」と記されている。だが、現在の区画割りにその部屋は存在しない。どこかの改築で壁に塞がれ、消えた部屋だ。
テツはノミを持ち直した。
「何するんですか」とケンジが言った。
「開ける」
「でも構造に影響が——」
「ここは荷重の経路じゃない」テツは壁を指先で叩いた。「仕上げ壁の裏に、もう一枚壁がある。塞いだだけだ。抜いても問題ない」
ケンジは黙って後ろへ下がった。
ノミを当て、ハンマーで叩く。古いコンクリートが崩れ、断面が現れる。もう一枚。また叩く。粉塵が舞う。三十分後、壁に人が通れる穴が開いた。
懐中電灯を向ける。
部屋があった。
六畳ほどの空間。空気が止まっている。埃が積もった木製の机。錆びた金属の棚。壁際に、古い機材の残骸。そして——
テツは懐中電灯を床から天井へ、ゆっくり動かした。
壁を貫通して、それは走っていた。
直径十センチほどの、真鍮製のパイプ。現代の配管とは明らかに異質な、重厚な金属の輝き。床から入り、天井へ抜け、壁を突き破って——建物の外へと続いている。
テツはしゃがんで、パイプの表面を指でなぞった。
冷たい。使われている。今も、何かが流れている。
「なんですか、これ」ケンジが後ろで呟いた。
テツは答えなかった。パイプの根元に、小さなプレートが打ちつけてあった。英語と、日本語で。
GHQ通信部 第三回線 1947
テツはしばらく、その文字を見つめた。
プレートの下、パイプの継ぎ目に耳を当てた。低い振動が、かすかに伝わってくる。建物の外へ出て、上を見上げた。ビルの壁面を、パイプが這うように続いている。その先——北西の方角。横田基地のある方向だ。
今も生きている。誰かが、今も使っている。
窓の外で、ドローンが一機、不自然に旋回している。
続く




