第二十話 罪人、森狼と戦う
翌朝、村を出る前にグレンが僕の脇腹を確認した。
傷の周りを何か所か指で押されても、痛みはほとんどない。昨日ユラに【緑癒】を使ってもらってから、かなり楽になっていた。
「痛むか」
「ほとんど大丈夫です」
「走ったら?」
「それは……やってみないと」
「なら無理に走るな。痛んだら言え」
「はい」
隣では、ユラが昨日より大きな水袋を背負っている。マルタが貸してくれたものらしい。
グレンが弓を背負った。
「今日は昨日より奥へ入る。森狼を狩るのが目的じゃない」
「どこから来てるのかを見る」
「ああ。行くぞ」
僕たちは、昨日羊を見つけた森へ入った。
◇
朝の森では、あちこちから生き物の音が聞こえた。
鳥の声が頭上を行き交い、茂みの中では小さな獣が走っている。
少し歩いたところで、前方の葉が揺れた。
何かいる。
足を止めると、木の陰から細長い顔がのぞいた。
鹿に似ている。
でも、日本で見たことのある鹿より毛の色が濃く、耳も少し大きかった。
「……鹿?」
ユラも僕の隣から顔をのぞかせる。
「あれ、なに?」
「森鹿だ」
グレンが答えた。
「森鹿」
ユラが繰り返す。
森鹿はこちらをじっと見ていた。
数秒して身体を見せると、そのまま木々の間を走り去っていく。
グレンがその背中を目で追った。
「珍しいな」
「珍しい?」
「森鹿は警戒心が強い。普通なら、人間に姿を見られる前に逃げる」
僕は森鹿が消えた方向を見る。
もう何も見えない。
「じゃあ、今のは僕たちに気づいてなかった?」
「それなら、もっと近くまで来る」
グレンは少しだけ周囲を見た。
「何かに気を取られてたのかもしれん」
「何かって?」
「知らん」
いつもの答えだった。
グレンはそれ以上考え込まず、地面へ視線を戻した。
何度か立ち止まりながら進み、やがて僕たちを手招きする。
「ここ」
足元を見る。
土の上に森狼の足跡が残っていた。その中の一つだけ、右前脚の爪跡が短い。
「昨日見た個体と同じ可能性が高い」
「もう先に言われるようになった」
「お前が言い切る前にな」
森狼の跡は、村とは反対側へ続いていた。
グレンの後ろを歩きながら地面を見る。
昨日までなら、ただ土と落ち葉しか見えなかった。でも今は時々、踏まれた草や削れた土が目に入る。
何の跡なのかまでは、まだわからない。
それでも、少しは見えるものが増えてきた。
しばらく進んだところで、グレンが突然足を止めた。
片手が上がる。
僕も止まった。
ユラもすぐ動きを止める。
森の音に耳を澄ます。
風。
葉。
鳥。
その中に、低い唸り声が混じっていた。
短剣へ手を伸ばしかけると、グレンが小さく首を振る。
まだ抜くな、ということらしい。
ユラが僕の袖を掴んだ。
「ユウ」
「なに?」
「いる」
小さな声だった。
その場へしゃがみ、指先を土につける。
【樹脈感知】。
少ししてユラが顔を上げた。
「前」
それから左を見る。
「そっちも」
グレンの手が弓へ伸びる。
「数は」
「わかんない」
「動いてるか」
「うん」
その直後、前方の茂みが揺れた。
灰色の身体が現れる。
森狼。
一頭。
低く身体を沈めたまま、僕たちを睨んでいた。
「下がれ」
グレンが言う。
僕とユラがゆっくり後ろへ下がった。
森狼は逃げない。
むしろ牙を見せながら、じりじりと距離を詰めてくる。
グレンが弓を構えた。
その瞬間だった。
「左!」
ユラの声。
振り向く。
木の陰から、もう一頭が飛び出していた。
「っ!」
短剣を抜く。
横へ逃げたつもりだった。
でも、遅い。
森狼の前脚が学生服を掠め、左腕に鋭い痛みが走った。
「痛っ!」
森狼は僕の横を抜けて着地し、すぐにこちらへ向き直る。
「止まるな!」
グレンの声が飛ぶ。
僕も短剣を構え直した。
怖い。
手が震える。
森狼が地面を蹴った。
今度は見えた。
横へ動く。
牙が目の前を通り過ぎる。
追わない。
角兎の時に言われたことを思い出す。
森狼が着地する。
身体を反転させる。
首が横から見えた。
僕は短剣を握り直して踏み込んだ。
「っ!」
刃が首元へ入る。
浅い。
森狼が暴れ、短剣ごと腕を持っていかれそうになる。
「離せ!」
グレンの声。
すぐに柄から手を離した。
森狼が身体を振ると、短剣が抜けて地面へ転がる。
血を流している。
それでも、まだ倒れない。
短剣は森狼の向こう側。
取りに行けない。
森狼が身体を沈めた。
また来る。
その時、足元の草が一気に伸びた。
細い蔓が森狼の前脚へ絡みつく。
「ユラ!」
ユラが片手を土についていた。
【芽吹き】。
森狼の身体が崩れる。
ほんの一瞬。
それだけで十分だった。
僕は地面へ落ちた短剣を拾い上げた。
森狼はもう蔓を引きちぎっている。
立ち上がる前に踏み込む。
首の下。
さっき傷つけた場所へ、短剣を深く押し込んだ。
森狼が激しく暴れる。
身体ごと押し返されそうになる。
それでも柄を離さなかった。
やがて脚から力が抜ける。
森狼が地面へ倒れた。
動かない。
僕は短剣を握ったまま、その場で息を吐いた。
手が震えている。
自分で倒した。
その感覚が、まだ身体についてこない。
「優!」
グレンの声で顔を上げた。
終わっていない。
最初に現れた森狼が、グレンへ向かって走っていた。
グレンが矢を放つ。
森狼は横へ跳んだ。
外れる。
そのまま一気に距離を詰めていく。
「グレン!」
反射的に身体が動いた。
「来るな!」
もう走り出している。
森狼の横から声を上げる。
「こっち!」
一瞬だけ、森狼の頭が僕へ向いた。
その間にグレンが数歩下がる。
次の矢をつがえる。
森狼が僕へ向きを変えた。
まずい。
「ユウ、右!」
ユラの声に従って右へ跳ぶ。
直後、森狼がさっきまで僕のいた場所を駆け抜けた。
弓弦の音が鳴る。
グレンの矢が森狼の脇腹へ深く刺さった。
森狼はそのまま数歩走り、地面へ倒れた。
しばらく動かない。
【樹脈感知の熟練度が上昇しました】
【芽吹きの熟練度が上昇しました】
グレンはすぐに周囲へ目を向けた。
「もう一頭いる」
「え?」
ユラも目を閉じる。
「向こう」
森の奥を指差した。
「離れてく」
グレンは弓を下ろした。
「追わないんですか」
「必要ない」
森狼が消えた方向を見る。
「北へ行ってる」
それだけ確認すると、倒れた二頭へ歩いていった。
◇
ユラが僕の左腕を見る。
学生服が裂け、その下から血が流れていた。
「痛い?」
「ちょっと」
ユラは水袋を下ろし、中を確認した。
それから僕を見る。
「治す?」
「お願いしていい?」
「うん」
グレンも傷を見る。
「先に洗え」
「はい」
水で傷口を洗う。
思った以上にしみた。
「……痛い」
ユラが僕を見る。
「すごい顔」
「水が痛いんだよ」
洗い終えると、ユラがしゃがんだ。
片手を土へ置き、もう片方を僕の腕へ近づける。
淡い緑色の光が広がった。
痛みが少しずつ引いていく。
流れていた血も止まった。
【技能【緑癒】の熟練度が一定値に達しました】
【緑癒 Lv1 → Lv2】
ユラが指を二本立てた。
「緑癒、二になった」
「おめでとう」
「うん」
ユラは水袋へ口をつけた。
グレンはもう森狼の方へ向かっている。
「終わったなら、こっち来い」
「はい」
◇
倒れた森狼を、村へ持ち帰れる形にする。
グレンは一頭目を仰向けにすると、僕へ短剣を渡した。
「こっちからやれ」
「僕が倒した方?」
「ああ」
【密猟】を意識する。
森狼の身体に何本もの線が浮かんだ。
角兎とも羊とも違う。
毛皮。
脚。
胸。
魔石。
前よりも、線が何を示しているのか考えやすい。
「皮からですか」
「そうだ。ここから入れろ」
グレンが首元を示した。
「線と少し違います」
「今取るのは皮だ」
「あ」
技能が見せる線と、作業の順番は同じじゃない。
短剣を入れる。
「立てすぎ」
少し寝かせる。
「そこ。押すな」
刃を滑らせる。
途中で何度か止められたけれど、一枚の皮として外せるところまで進めることができた。
【密猟の熟練度が上昇しました】
グレンはすぐに二頭目をこちらへ向けた。
「次」
「もうですか」
「疲れたか」
「……やります」
今度は、グレンの矢が刺さった森狼だった。
傷の位置が違う。
同じ種類でも、一頭目とまったく同じようには切れない。
「矢の周りは?」
「広めに避けろ」
「はい」
もう一度【密猟】を使う。
線を見る。
傷を見る。
筋肉の向きを見る。
グレンに教わったことを思い出しながら、短剣を動かしていく。
途中で、二つの線のどちらを先に進めるか迷った。
「ここ、どっちからですか」
「自分で決めろ」
「え」
「どっちだ」
少し考える。
「こっち。矢の傷から離れてるから」
「ならやれ」
短剣を入れる。
止められなかった。
そのまま進める。
胸を開き、魔石の位置までたどり着く。
周りを傷つけないよう刃を入れ、硬い石を取り出した。
【技能【密猟】の熟練度が一定値に達しました】
【密猟 Lv2 → Lv3】
「密猟、三になりました」
「そうか」
グレンは外した皮を指差した。
「畳め」
「はい」
昨日は、どこへ刃を入れるか一つずつ聞いていた。
今日は一か所だけでも、自分で順番を決められた。
少しずつ覚えている。
◇
持ち帰る肉や皮を縄でまとめる。
二頭を丸ごと運ぶのは難しいので、グレンが必要な部位を選んだ。
僕も持てる分を背負う。
ユラは、小さくまとめた皮を一つ抱えた。
「重くない?」
「だいじょうぶ」
グレンはすでに地面を見ている。
「もう少し見る」
指したのは、三頭目の森狼が消えた方向だった。
僕たちは再び森の奥へ進んだ。
少し行くと、森狼とは違う足跡もいくつか見つかった。
さっきグレンに教えてもらった森鹿のもの。
小さな獣のもの。
僕には何のものかわからない足跡もある。
グレンは何度か場所を変えながら、跡を確かめていく。
「多いな」
「何がですか」
「南へ動いてる」
足跡を指で示す。
「この森鹿も。こっちの小さいのもだ」
朝、木の陰から顔をのぞかせた森鹿を思い出す。
普段なら、人間に姿を見られる前に逃げる。
あれも、北から来たんだろうか。
ユラがしゃがみ、土へ手をついた。
【樹脈感知】。
しばらくして北を見る。
「向こう、いっぱい」
「こっちへ来てる?」
僕が聞く。
ユラは少し考えてから、南を指した。
「こっち」
グレンも北の森を見る。
「森狼だけじゃないな」
それ以上は言わなかった。
僕も同じ方向を見る。
木々がどこまでも続いている。
今の僕には、普通の森にしか見えない。
でも、その奥から離れようとしている獣が多い。
◇
村へ戻ると、グレンはそのままバルトのところへ向かった。
僕とユラもついていく。
バルトは家の前で、持ち帰った森狼の皮と肉を見た。
「二頭か」
「一頭は優がやった」
グレンが言う。
バルトの目が僕へ向く。
「お前が?」
「ユラとグレンさんに助けてもらいましたけど」
「それでも一頭は一頭だ」
グレンは地面へ枝を置き、森で見たものを簡単に説明した。
村の近くまで来ていた森狼。
北へ逃げた一頭。
南へ向かう森鹿や小さな獣の足跡。
ユラが感じた動き。
バルトは途中で口を挟まず、最後まで聞いていた。
「明日は、もう少し北を見る」
グレンが言った。
「森狼だけの話じゃないかもしれん」
バルトが腕を組む。
しばらく黙ってから、僕とユラを見た。
「そういや、お前らに言った三日だが」
心臓が少し跳ねた。
忘れていたわけじゃない。
でも、森のことで頭がいっぱいになっていた。
「……今日まで、ですよね」
「ああ」
ユラもバルトを見る。
「出る?」
バルトは首を振った。
「いや」
僕は思わず顔を上げた。
「森のことが片づくまでは、ここにいろ」
「いいんですか?」
「グレンについて森まで行って、村の仕事もしてる。今追い出す理由もない」
バルトは僕を見る。
「ただし、危ないと思ったら森には入るな。村にいるなら、できる仕事はやれ」
「はい」
「ユラも?」
ユラが聞く。
「お前はまず無理するな」
「ユラも、はたらける」
「元気な時だけでいい」
ユラが少し不満そうな顔をした。
僕はそれを見て、少しだけ笑った。
三日前。
この村に来た時は、三日先にどこへいるのかさえわからなかった。
今も、この先どうなるのかはわからない。
それでも明日の朝、追い出されることだけはなくなった。
バルトがグレンを見る。
「明日も行くのか」
「ああ」
「無茶はするなよ」
「それはこいつらに言え」
「僕ですか?」
グレンは答えず、森狼の肉を持ち上げた。
明日は、もう少し北へ行く。
森狼や森鹿たちが、どこから来ているのか。
その先に何があるのか。
まだ、何もわからなかった。
――――――――――
【現在のステータス】
榊 優 Lv.2
天職:【罪人】
【解錠 Lv.3】
【窃盗 Lv.2】
【密猟 Lv.3】
【詐欺 Lv.1】
【文書偽造 Lv.2】
ユラ Lv.1
【芽吹き Lv.2】
【樹脈感知 Lv.2】
【緑癒 Lv.2】
【今回の成長】
優
【密猟 Lv2 → Lv3】
ユラ
【緑癒 Lv1 → Lv2】




