第十九話 罪人、森狼の跡を追う
東の囲いには、もう何人かが集まっていた。
羊たちは柵の奥で身を寄せ合い、落ち着かない様子で鳴いている。その外側では、木柵の一部が斜めに傾いていた。
「一頭だけか」
バルトが聞く。
「数え直した。いないのは一頭だ」
答えたのは、羊を飼っているダンだった。
「いつ気づいた」
「餌をやりに来た時だ。夕方までは全部いた」
グレンは二人の話を聞きながら、柵の前でしゃがんでいた。
僕も近くで見ようとして、一歩踏み出す。
「そこから動くな」
「え?」
「足跡がある」
慌てて足を止める。
足元を見る。
土と草。
僕にはそれしか見えない。
「危なかった……」
「もう一歩で踏んでたな」
「すみません」
「今度から地面を見ろ」
「はい」
昨日から、見るものが増えてばかりだ。
グレンが柵の外を指差した。
「ここ」
少し離れた場所から覗き込む。
言われて探すと、大きな足跡があった。昨日、村へ来る途中で見たものと似ている。
「森狼?」
「ああ」
少し離れた場所にも、同じような跡がある。
さらに、その横にも。
「何頭ですか」
「待て」
グレンは答えず、地面を見ながら囲いの周りをゆっくり歩き始めた。
僕も今度は勝手についていかず、その場で待つ。
隣へ来たユラも、同じように地面を見ていた。
「ユウ」
「なに?」
「見えない」
「僕も」
「グレン、見える」
「すごいよね」
僕たち二人には、ただの地面にしか見えない。
しばらくして、グレンが戻ってきた。
「最低三頭」
昨日と同じ数だ。
「昨日の狼ですか?」
「一頭は、その可能性が高い」
「爪?」
「ああ」
少し嬉しかった。
ちゃんと覚えていた。
「右前脚の外側が欠けてる」
グレンが一つの足跡を示す。
言われてよく見ると、確かに一つだけ爪の跡が短い。
「じゃあ、昨日見た三頭がここに?」
「一頭はな」
「あ」
また、決めるのが早かった。
グレンは今度は柵を調べ始めた。
支柱そのものは折れていない。ただ、支柱を留めていた縄が外れ、根元の土が大きく削れている。
「ここから入ったんですか」
「そう見える」
ダンが言う。
「こんなところ、昨日まで何ともなかったぞ」
グレンが支柱を押した。
ぐらりと、意外なくらい簡単に動いた。
「元々緩んでた」
「……直そうとは思ってた」
ダンが気まずそうに言った。
「責めてない」
グレンは外れた縄を見る。
「森狼が体当たりでもすれば、外れる程度だったんだろう」
「弱いところを狙ったんですか?」
僕が聞く。
「それもまだわからん」
「ですよね」
少しずつ、聞く前にわかるようになってきた。
◇
囲いの外には、少量の血が落ちていた。
そこから森の方へ向かって、草が倒れている。
「引きずった?」
「ああ。羊だろう」
グレンが答える。
ダンの顔が曇った。
「生きてる可能性はありますか」
僕が聞いた。
誰もすぐには答えない。
グレンが地面の血を見る。
「なくはない」
その言い方で、可能性が高くないことだけはわかった。
「追うぞ」
グレンが立ち上がる。
ダンもすぐに動いた。
「俺も行く」
「お前は残れ」
「なんでだ」
「残ってる羊を移せ。今夜はここを使わない方がいい」
「また来ると思うのか」
「来ない保証がない」
ダンは少し迷ってから頷いた。
「わかった」
グレンがバルトを見る。
「今夜だけでも、家畜を村の内側へ寄せた方がいい」
「ああ。ほかにも伝える」
次々に話が決まっていく。
僕は、その横に立っていた。
このまま何も言われずに終わりそうになって、口を開く。
「グレン」
「何だ」
「僕も行けますか」
グレンの視線が、僕の脇腹へ向いた。
「傷は」
「今は痛くないです」
「今日は朝から何した」
「芋を分けました」
「聞き方が悪かった」
「ひどくないですか」
「どれくらい歩いた」
「畑と小屋くらいです」
グレンは少し考えた。
「森へ入るだけなら問題なさそうだな」
「じゃあ」
「近くまでだ。追跡を手伝うんじゃない。見て覚えろ」
「わかりました」
それでもいい。
何もできないより、ずっといい。
「ユラは?」
ユラが自分を指差す。
「行く」
即答した。
「危ないかもしれないよ」
「ユウも行く」
「そうなんだけど」
昨日までだったら、僕が決めていたかもしれない。
危ないから待っていて。
でも、昨日ユラ自身が言った。
ユラが決める。
「ユラは行きたい?」
「うん」
「なんで?」
少し考える。
「森、見る」
それから、僕の袖を握った。
「ユウもいる」
「そっか」
グレンがユラを見る。
「歩けるか」
「歩ける」
「疲れたら言え」
「うん」
「勝手に根を追って、どこかへ行くな」
「ユウに言う」
「そうしろ」
今度は僕を見る。
「お前も止めろ」
「はい」
信用されているのか、されていないのか。
たぶん、両方だ。
◇
血の跡は、森へ入った途端に見つけにくくなった。
村の近くでは土の上に赤い跡が残っていたのに、森の中では落ち葉や草、木の根に紛れてしまう。
少し進んだだけで、僕にはもうわからなくなった。
「……なくなりましたね」
「ある」
グレンは足を止めない。
「どこですか」
「そこ」
指差された葉を見る。
端に、小さな赤黒い点がついていた。
「これ?」
「そうだ」
数歩進む。
今度は血がない。
それでもグレンは、地面を見て方向を変えた。
「こっち」
「何で?」
「草が倒れてる」
言われてみれば、何本かの草が同じ方向へ寝ている。
さらに進む。
今度は木の幹に、白いものが引っかかっていた。
グレンが指で取る。
「羊の毛だ」
「…………」
全部、残っている。
僕に見えていないだけだ。
「すごいですね」
「何が」
「僕には何もない森に見えるのに」
グレンが少しだけ振り返った。
「何もない森なんてない」
それだけ言って、また前を向く。
僕も地面を見る。
まだ何も読めない。
それでも昨日までより、少しだけ森の見え方が変わった気がした。
◇
しばらく進んだところで、ユラが立ち止まった。
「どうしたの?」
返事をせず、近くの木へ手をつく。
目を閉じた。
【樹脈感知】だ。
ユラがこの技能を使う時は、なんとなくわかるようになってきた。
「何かいる?」
「わかんない」
グレンが戻ってくる。
「何がわかる」
ユラは困った顔をした。
少しして、森の右側を指差す。
「こっち。何か、通った」
「いつだ」
「わかんない」
「大きさは」
ユラは少し考えてから、両手を広げた。
「おっきい」
ものすごく曖昧だ。
でも、グレンは笑わなかった。
「羊より大きいか」
「わかんない」
「狼より?」
「……いっぱい」
余計にわからなくなった。
グレンはユラが示した方向へ数歩進み、地面へしゃがんだ。
「こっちにも跡がある」
「羊?」
僕が聞く。
「違う」
「森狼?」
「それもある」
グレンが地面を指差す。
大きな足跡が一つ。
その上に、別の跡が重なっている。
僕には違いがよくわからない。
「これは?」
「鹿だ」
「鹿?」
「古い跡だ」
ユラが感じたのが鹿なのか、森狼なのか。それとも、別の何かなのか。
まだわからない。
「ユラ」
グレンが言った。
「次に何か感じても、それが何か無理に決めなくていい」
「うん」
「通った。動いた。大きい。小さい。わかることだけ言え」
「わかった」
僕にも同じことを言われている気がした。
その時、ユラの視線が少しだけ宙へ動いた。
【樹脈感知の熟練度が上昇しました】
「上がった?」
僕が聞く。
「うん」
それだけ答えて、ユラはもう一度森を見る。
熟練度が上がること自体には、少し慣れてきたみたいだった。
◇
先へ進むにつれて、血の跡が増えた。
葉。
土。
木の根。
そして少し先に、白いものが見えた。
「あ……」
羊だった。
反射的に近づこうとして、止まる。
今度は、ちゃんとグレンを見る。
グレンは周囲を確認していた。
右。
左。
木の上。
森の奥。
しばらくして、ようやく僕たちへ言った。
「来い」
近づく。
羊は死んでいた。
首と腹が大きく傷つき、一部は食べられている。
昨日まで、この村にいた羊だ。
遠くから聞こえていた鳴き声の中に、この一頭もいたのかもしれない。
ダンの顔を思い出した。
「森狼ですか」
グレンが傷口を確認する。
「そうだろうな」
「何頭で?」
「まだわからん」
周囲には足跡がいくつも重なっている。
僕には、ほとんど同じに見えた。
「ここ」
グレンが一つを示す。
「爪の欠けた奴だ」
僕もしゃがんだ。
言われればわかる。
右前脚の外側だけ、爪の跡が短い。
「昨日から村の近くにいた一頭」
「同じ可能性が高い」
「……はい」
また言い切りかけた。
グレンは羊の傷や、残っている肉を確認していく。
「持って帰るんですか」
「使えるところはな」
「僕も手伝います」
グレンが僕を見る。
「処理か」
「はい」
昨日、角兎で教えてもらった。
僕にもできることがある。
「ここでは全部やらん」
グレンは周囲を見る。
「血の匂いが強すぎる。別の獣を寄せる」
「あ」
「運びやすくするところまでだ」
「はい」
短剣を抜き、羊を見る。
【密猟】を意識すると、身体のあちこちに淡い線が浮かんだ。
昨日の角兎よりずっと大きい。その分、見える線も多い。
「……結構ある」
「何が」
「切る場所です」
「全部切るなよ」
「わかってます」
グレンが羊の脚を持ち上げる。
「まずここだ。運ぶだけなら、今必要なのは全部の素材じゃない」
「はい」
僕には、素材を取り出すための線が見えている。
でも、グレンが見ているのはその先だった。
何を取るのか。
何を残すのか。
今、どこまで処理するのか。
それによって、刃を入れる場所まで変わる。
言われた位置へ短剣を入れる。
「立てすぎだ」
「こうですか?」
「もう少し寝かせろ。骨を避けて滑らせろ」
角度を変える。
今度は刃が通った。
「……入った」
「止めるな。そのまま引け」
言われた通りに動かす。
昨日より、ずっと少ない力で切れた。
【密猟の熟練度が上昇しました】
表示が浮かぶ。
「上がった」
「何がだ」
「【密猟】です」
「なら手を止めるな」
「はい」
喜んでいる暇はなかった。
次の場所へ移る。
今度は線が見えても、すぐには刃を入れない。
先にグレンを見る。
「ここですか?」
「違う」
「あ」
「少しは学んだな」
褒められた。
たぶん。
グレンが正しい位置を指す。
僕は、視界に浮かんだ線とグレンが教える手順の両方を見る。
技能が教えてくれるのは、素材がどこにあるか。
グレンが教えてくれるのは、そこへどう辿り着くか。
似ているようで、全然違う。
それが少しずつわかってきた。
◇
村へ戻る頃には、日がかなり傾いていた。
途中から、脇腹が少し熱を持ち始めている。
痛いというほどではない。
でも、朝より重かった。
村へ着くと、ダンは運んできた羊を見て、しばらく何も言わなかった。
「すまん」
グレンが言う。
「いや」
ダンは首を振った。
「見つけてくれただけでいい」
羊を受け取ろうとしたところで、グレンが止めた。
「まだだ。食えるところと、駄目なところを分ける」
「ここでやるのか」
「ああ」
近くに台が用意された。
グレンが羊を載せる。
「優」
呼ばれた。
「はい」
「続きだ」
僕も台の前へ立つ。
「食われたところは?」
傷口を見ながら聞く。
「周りまで広めに落とす。獣の口が入った肉を、そのまま使うな」
グレンが傷口の周囲を示した。
僕も【密猟】を意識する。
また線が見える。
でも今回は、その線だけを追わない。
色。
匂い。
傷の深さ。
グレンが見ているものを、一つずつ確認する。
「ここは?」
「残せる」
「こっちは?」
「駄目だ」
「見た目は同じですけど」
「触れ」
言われて触ってみる。
少し柔らかい。
「傷み始めてる」
「……なるほど」
素材を取るだけじゃない。
食べられるものを残すことも、処理なんだ。
言われた通りに刃を入れる。
一度。
二度。
昨日の角兎より、ずっと時間がかかった。
でも今回は途中から、グレンに聞く回数が少しずつ減った。
最後の部分を切り離したところで、表示が出る。
【密猟の熟練度が上昇しました】
「また上がった」
「今日二度目か?」
「はい」
グレンが僕の処理した肉を見る。
「なら、少しは覚えたんだろ」
「たぶん」
言ってから、グレンを見る。
「……覚えました」
「ならいい」
さっきより、ちょっとだけ嬉しかった。
ダンへ羊を渡す。
何を言えばいいのかわからなかったけれど、ダンは小さく頭を下げた。
「ありがとな」
「あ……はい」
僕が殺した羊じゃない。
助けられたわけでもない。
それでも、少しだけ役に立てたらしい。
◇
バルトがグレンを見る。
「どうだった」
「森狼だ」
今度は、かなりはっきり言った。
「最低三?」
「現場にいたのは、その可能性が高い」
「また来るか」
「わからん」
バルトが少し顔をしかめる。
「ここ最近だけで何度目だ」
「羊まで取られたのは初めてだ」
「だが、近づいてきてる」
「ああ」
二人とも、しばらく黙った。
やがて、バルトが口を開く。
「グレン」
「何だ」
「調べてくれ」
「森狼を?」
「それだけじゃない」
バルトは森の方へ目を向けた。
「なんで急に、ここまで人里へ寄るようになったのか」
グレンは答えない。
「狩れば済むなら狩る。だが、理由があるなら先に知りたい」
少し考えてから、グレンが短く答えた。
「ああ」
村の仕事が決まった。
僕は少し迷った。
それでも、口を開く。
「僕も手伝わせてください」
バルトが僕を見る。
「お前が?」
「はい」
「何ができる」
聞かれて、すぐには答えられなかった。
僕は狩人じゃない。
足跡も読めない。
森のことも知らない。
でも。
「言われたことは覚えます」
一度口にしてから、言い直す。
「……いや。覚えます」
たぶん、じゃない。
やるなら覚える。
「解体も少しなら手伝えます。それと――」
ユラを見る。
「僕だけじゃなくて、ユラにもわかることがあります」
ユラが僕を見る。
「森」
自分で言った。
「ユラ、見る」
バルトはグレンを見る。
決めるのは僕じゃない。
少しして、グレンが言った。
「明日の朝、傷を見る」
「はい」
「歩けるなら連れていく」
「……はい!」
思わず声が大きくなった。
「ただし」
来た。
「俺の言うことを聞け」
「はい」
「前へ出るな」
「はい」
「わからないものに触るな」
「はい」
「勝手に狩るな」
「はい」
グレンはユラを見る。
「お前もだ」
「うん」
「勝手に根を追うな」
「ユウに言う」
「そうしろ」
グレンがため息をついた。
「二人まとめて面倒だな」
「すみません」
「謝るくらいなら言うことを聞け」
「はい」
でも、少し嬉しかった。
この村へ来た時、僕たちはグレンに拾われただけだった。
三日だけ置いてもらう。
それだけだった。
それが、明日は村の仕事を少し手伝える。
そう思ったところで、ユラが僕の袖を引いた。
「ユウ」
「なに?」
「おなか」
脇腹を指差している。
「ああ。ちょっと痛いだけ」
「治す?」
【緑癒】。
「でも、水が――」
言いかける。
ユラは周りを見回した。
そして、村の井戸を指差す。
「ある」
「あ」
ちゃんと覚えていた。
使ったあと、水が必要になる。
だから先に確かめる。
「じゃあ、少しだけお願いしていい?」
「うん」
ユラは僕の前へしゃがんだ。
片方の手を傷の近くへ添え、もう片方を地面へつく。
淡い緑色の光が灯った。
傷の周囲に、じんわりと温かさが広がっていく。
歩いている間に出てきた鈍い痛みが、少しずつ引いていった。
全部治すわけじゃない。
ユラも、長くは続けなかった。
光が消える。
【緑癒の熟練度が上昇しました】
「どう?」
ユラが聞く。
身体を少し動かしてみる。
「楽になった。ありがとう」
「うん」
ユラは嬉しそうに頷いた。
その直後、自分から井戸を指差す。
「水」
「うん。飲もう」
二人で井戸へ向かう。
昨日なら、ユラはただ僕の傷を治そうとしていた。
今日は、そのあと自分に必要になるものまで考えている。
ユラも少しずつ、この世界でどう生きるのかを覚えている。
僕も、たぶん同じだ。
森狼が、どうして村まで来るようになったのか。
僕にはまだ何もわからない。
だから明日は、グレンと一緒に見に行く。
今度は逃げるためじゃない。
わからないものを、ちゃんと見るために。
――――――――――
【現在のステータス】
榊 優 Lv.2
天職:【罪人】
【解錠 Lv.3】
【窃盗 Lv.2】
【密猟 Lv.2】
【詐欺 Lv.1】
【文書偽造 Lv.2】
ユラ Lv.1
【芽吹き Lv.2】
【樹脈感知 Lv.2】
【緑癒 Lv.1】
【今回の成長】
優
【密猟】熟練度上昇
ユラ
【樹脈感知】熟練度上昇
【緑癒】熟練度上昇




