第十四話 罪人、帰れないと決める
「もう、逃げるのはやめろ」
男の声は大きくなかった。
それでも、後ろから追ってきた王国兵たちまで足を止めた。森の中に並ぶ騎士たちも動かない。
僕は乱れた息を整えようとしたけれど、走り続けた肺がうまく空気を吸ってくれない。隣ではユラも肩で息をしながら、それでも僕の手だけは離していなかった。
前には騎士が六人。
後ろには、マルグから追ってきた王国兵たち。
左右は森だけど、逃げ込もうとしたところですぐに追いつかれる距離だった。
「……待ってたんですか」
「この辺りで一番近い町はマルグだ。王都から南へ逃げたなら、立ち寄る可能性は高い」
男は僕を見たまま答えた。
「まして町の中で見つかり、正門を使えなくなれば、逃げる方向もある程度は絞れる」
それで先回りしたらしい。
嫌になるくらい、ちゃんと考えている。
男が一歩だけ前へ出た。二十代半ばくらいだろうか。短く整えた茶色の髪に、ほかの騎士より少し軽そうな鎧を着ている。
腰には剣。
でも、まだ手をかけていない。
「俺はリオル。王国騎士団所属だ」
「…………」
「お前を殺しに来たわけじゃない」
それは、たぶん本当だ。
殺すだけなら、こうして話す必要はない。
「榊優。お前の同級生たちは無事だ」
予想していなかった言葉だった。
「え?」
「王都にいる。少なくとも、お前が心配するようなことにはなっていない」
喉の奥が詰まった。
召喚された教室。
みんな。
善。
剣。
王都から逃げてから、ずっと考えないようにしていた。
「……剣も?」
「ああ。天道剣も、獅波善も無事だ」
名前を聞いただけで、胸の奥が変な感じになった。
「二人とも、お前を気にしている。獅波は、自分が事情を説明すると言っているそうだ。天道も、お前と直接話したがっている」
「剣が……」
会いたい。
そう思った。
ほんの少し前まで、同じ教室にいた相手だ。
二人の顔を見たら、それだけで少し安心できるような気がした。
「だから戻れ」
リオルが言った。
「これ以上、罪を増やす必要はない。王都から逃亡し、偽名を使って町へ入り、昨夜は商会へ不法侵入した。すでに事情を聞かなければならないことは増えている」
「…………」
全部、本当にやったことだった。
「今なら、まだ話せる。俺も、お前が理由もなくこんなことを繰り返しているとは思っていない」
後ろの兵士たちが少しざわついた。
王国から見れば、僕は【罪人】だ。
それでも、この人はいきなり剣を抜かなかった。
「王都まで俺が同行する。獅波や天道とも会わせる。事情があるなら、そこで話せばいい」
そして。
リオルの視線がユラへ移った。
「その少女も、王国へ返す」
握られていた手が、急に強くなった。
「ユラ?」
見ると、ユラが俯いていた。
僕の手を両手で握っている。
震えていた。
「その子は、王国の保護下にあったドライアドだと聞いている。希少な種族だ。勝手に連れ出していい相手じゃない」
「保護?」
思わず聞き返した。
「そう報告されている」
「ユラは、どこで保護されてたんですか」
リオルの眉がわずかに動いた。
「施設の場所までは知らない」
「どんな施設だったかも?」
「俺の任務に必要な情報ではなかった」
やっぱり。
知らない。
「地下です」
「何?」
「窓もない地下にいました。鎖につながれて」
リオルの表情が変わった。
「……何の話だ」
「鞭で叩かれてました。泣くまで」
後ろの騎士たちにも小さな動揺が走る。
「泣いたら、その涙を瓶に集めてました」
「待て」
リオルが片手を上げた。
「俺が受けている報告には、そんな話はない」
「でしょうね」
僕だって、あそこへ入れられなければ知らなかった。
「何か認識の食い違いがある可能性もある」
リオルは少し考えてから言った。
「なら王都で確認する。俺からも報告を上げる」
「それまでユラは?」
「ああ。王国の管理下に置く」
ユラの指が、さらに強く僕の服を掴んだ。
「戻りたくない」
小さな声だった。
リオルがユラを見る。
ユラは僕の後ろへ半分隠れていた。
「戻りたくない」
もう一度。
今度は、はっきり聞こえた。
「ユラ」
「やだ」
身体が震えている。
「地下、やだ」
僕の服を掴む。
「鞭、やだ」
そして僕を見た。
「ユウといる」
リオルは黙った。
その顔を見る限り、本当に何も知らなかったんだと思う。
「……わかった」
しばらくして、リオルが言った。
「今の話も含めて俺から確認する」
「でも、ユラは連れていく?」
「ああ」
迷わなかった。
「それが俺の任務だ」
「少女」
リオルはユラへ声をかける。
「少なくとも、俺が同行している間は悪いようにはしない」
たぶん、この人なら本当にそうする。
僕を騙そうとしているようにも見えない。
悪い人には見えない。
でも。
この人は知らなかった。
ユラがどこにいたのか。
何をされていたのか。
そして王都へ戻ったあとも、リオルがずっとユラのそばにいてくれるわけじゃない。
「……すみません」
「何だ」
「やっぱり、戻れません」
リオルが息を吐いた。
「天道と獅波が待っていても?」
痛いところだった。
「会いたいです」
本当に。
「だったら――」
「でも」
ユラを見る。
まだ、僕の服を掴んでいる。
「ユラを戻せません」
リオルは、しばらく僕を見ていた。
「少女だけ置いて、お前一人で逃げるという選択もないか?」
「ないです」
「即答か」
「それは、考える必要ないので」
もう一度、リオルが息を吐いた。
そして今度は腰の剣へ手を置く。
「残念だ」
空気が変わった。
周囲の騎士たちも同時に構える。
「榊優。これより身柄を拘束する」
リオルが騎士たちへ視線を送った。
「少女も確保する。二人とも、可能な限り傷つけるな」
逃げる。
そう思った時には、もう左右から二人来ていた。
「ユラ、下がって!」
僕は短剣を抜く。
ゴブリンから盗ったものだ。
騎士の剣と比べると、ひどく頼りなく見えた。
右から来た騎士は剣を抜かなかった。僕の腕を掴み、そのまま押さえ込もうとする。
避ける。
でも、もう一人が回り込む。
速い。
「うわっ!」
肩を掴まれた。
振りほどけない。
力が全然違う。
騎士の腰に、縄が見えた。
【窃盗可能】
考えるより先に留め具へ手を伸ばす。
引いた。
縄がするりと騎士の腰から外れる。
【窃盗の熟練度が上昇しました】
「何っ?」
騎士が腰を見る。
その一瞬に身体を捻り、どうにか腕を抜いた。
「ユラ!」
「うん!」
地面から草が伸びる。
町で使った時より太い。
騎士の足へ絡みついた。
「植物を使う! 足元に注意しろ!」
すぐに対応された。
剣で草を切られる。
やっぱり、町で追ってきた兵士とは違う。
「右を塞げ!」
リオルの声が飛ぶ。
僕たちが動こうとした方向へ、もう騎士が入っている。
「左!」
ユラの手を引く。
そっちにもいた。
完全に読まれている。
次に飛んできたのは網だった。
「ユラ!」
ユラを押す。
代わりに僕の肩へ網がかかった。
一気に引かれる。
「捕えた!」
「まだ!」
網を掴んでいる騎士へ引かれるまま、一歩踏み込んだ。
腰に小さなナイフがある。
【窃盗可能】
すれ違う瞬間に抜く。
【窃盗の熟練度が上昇しました】
そのまま網を切った。
「またか!」
外へ抜ける。
でも。
目の前にはリオルがいた。
「……変わった技を使うな」
「僕もそう思います」
「感心している場合か」
「してません」
怖い。
リオルは僕の短剣、足の向き、その後ろにいるユラまで、一瞬で全部見ているように思えた。
「最後に言う。武器を捨てろ」
「嫌です」
「そうか」
剣が抜かれた。
速い。
反射的に短剣を上げる。
ガンッ、と硬い音が響いた。
腕が痺れる。
「っ!」
一撃だけで短剣を落としそうになった。
次はどうにか身体を引く。
剣先が服をかすめる。
殺そうとはしていない。
だからこそ、差がわかった。
この人は、僕よりずっと強い。
別の騎士が背後から来た。
避けた先にも一人いる。
いつの間にか、動ける場所そのものを狭められている。
また腕を掴まれた。
「離して!」
騎士の腰にある予備の剣へ手を伸ばす。
【窃盗可能】
触れる。
抜く。
【窃盗の熟練度が上昇しました】
騎士が驚き、わずかに力を緩めた。
僕の手には剣がある。
重い。
使い方なんて知らない。
その時。
【窃盗の熟練度が一定値に達しました】
【窃盗 Lv1 → Lv2】
【対象認識精度が上昇しました】
【動作補正が上昇しました】
「今度はそっち!?」
さっきから。
逃げるたびに犯罪技能ばかり育っている。
でも表示が消れると、少しだけ感覚が変わった。
騎士たちの腰にある袋。
武器。
留め具。
手を伸ばせば取れそうなものが、さっきよりわかりやすい。
「武器を返せ」
リオルが来る。
「嫌です!」
奪った剣を振る。
簡単に避けられた。
次の瞬間、手首を打たれる。
「痛っ!」
剣を落とした。
リオルの手が僕の肩へ伸びる。
「終わりだ」
「まだ!」
身体を捻って逃れる。
「ユラ!」
振り向く。
ユラの方にも、騎士が二人いた。
草で牽制しているけれど、少しずつ追い詰められている。
「ユウ!」
「今行く!」
騎士の間へ飛び込む。
一人が剣を横に構えた。
斬るためじゃない。
通さないためだ。
その脇を抜けようとして肩を掴まれる。
「ユラ、走って!」
「ユウも!」
「すぐ行くから!」
振りほどこうとしても動かない。
その時、ユラが伸ばした草が騎士の足へ絡んだ。
ほんの一瞬。
体勢が崩れる。
腕が自由になった。
走った。
ユラまで、あと少し。
「優、止まれ!」
リオルの声。
振り返らない。
前では、別の騎士がユラへ手を伸ばしている。
「ユラ!」
僕は、その間へ飛び込んだ。
同時に。
横から剣が走った。
リオルは僕の進路を塞ぐつもりだったんだと思う。
止まれば当たらない。
たぶん、そのくらいの距離だった。
でも。
僕は止まらなかった。
熱い。
そう思った次に、痛みが来た。
「……え?」
身体が傾く。
左の脇腹。
服が裂け、その下から赤いものが広がっていた。
「ユウ!」
ユラの声。
膝が落ちる。
リオルがすぐに剣を引いた。
「榊!」
さっきまでとは違う声だった。
「動くな! 傷が開く!」
痛い。
手で押さえる。
指の間から血が滲んだ。
「治療を!」
リオルが騎士へ叫ぶ。
「すぐ止血しろ!」
騎士が近づこうとした。
でも。
ユラの方が早かった。
「ユウ」
声が震えている。
僕の前へ来て、血を見る。
顔から色がなくなった。
「だいじょうぶ」
そう言おうとした。
「ちょっと――」
「いや」
ユラが呟いた。
「ユラ?」
「いや」
僕の服を掴む。
瞳に涙が溜まっていく。
「ユウ……いや」
そして。
「いやあああああっ!」
叫んだ。
その瞬間。
森が鳴った。
ざあっ、と周囲の葉が一斉に揺れる。
最初は風だと思った。
でも。
風は吹いていない。
「何だ?」
誰かの声。
次に地面が震えた。
「下がれ!」
リオルが叫ぶ。
土が盛り上がり、太い根が地面を割って飛び出した。
「うわっ!」
騎士の一人が弾き飛ばされる。
一か所じゃない。
根。
枝。
蔓。
周囲の植物が、次々に動き始める。
「植物術か!?」
誰かが叫ぶ。
僕にもわからない。
さっきまでユラが動かしていた草とは、全然違った。
一本や二本じゃない。
周りにある木という木が、全部。
幹が軋む。
太い枝が低く垂れ、根が土を押し上げる。
それらが壁のように、僕たちと騎士の間へ入り込んだ。
「攻撃するな!」
リオルの声が響く。
「全員下がれ! 少女を刺激するな!」
騎士たちが退く。
それを追いかけるように根と枝が動いた。
でも。
襲っているようには見えなかった。
押す。
遮る。
遠ざける。
僕とユラから。
「ユラ……?」
返事はなかった。
ユラは泣きながら、ただ僕を見ている。
その足元から。
今度は細い根が伸びた。
僕の腕へ触れ、脇腹へ回る。
「え……」
一瞬だけ身体を引いた。
でも、痛くない。
柔らかい葉が傷口の周囲へ重なる。
じんわりと温かい。
さっきまで焼けるようだった痛みが、少しずつ薄れていく。
押さえていた手を離した。
血が。
止まり始めている。
深く裂けていた傷口の縁も、わずかに寄っていた。
「ユラ……これ」
こんなの、見たことがない。
ユラ自身が土や水、陽の光で元気になるのは知っている。
でも。
僕の傷を治したことなんて、一度もない。
「ユラ?」
その瞬間。
ユラの瞼が落ちた。
「え?」
身体から力が抜ける。
「ユラ!」
倒れる身体を慌てて抱き止めた。
「おい!」
木々の向こうからリオルの声がする。
「少女はどうした!」
答える余裕はない。
「ユラ!」
呼ぶ。
返事はない。
でも。
息はしている。
胸も動いている。
「……よかった」
生きている。
それだけ確認した。
木々の壁は、まだ僕たちと騎士を隔てていた。
でも、いつまで続くのかわからない。
「榊優!」
リオルの声。
「待て! その状態で森の奥へ行くな!」
正しい。
僕もそう思う。
知らない森。
道もわからない。
僕は怪我をしている。
ユラは意識を失っている。
普通なら、絶対に行かない方がいい。
でも。
木々の間。
僕たちの前だけが、森の奥へ向かって開いていた。
まるで。
こっちへ行けと言われているみたいに。
「……ごめんなさい」
誰に言ったのか、自分でもわからなかった。
ユラを抱き上げる。
傷は完全には治っていない。
でも、血は止まっている。
歩ける。
「榊!」
リオルが叫ぶ。
「戻れ! 少女にも治療が必要だ!」
根の向こうを見る。
リオルがいた。
剣はもう鞘へ戻している。
本当に。
悪い人じゃないんだと思う。
それでも。
「戻れません」
今度は。
自分ではっきり言った。
聞こえたかどうかはわからない。
僕はユラを抱えて、森の奥へ入った。
◇
どれくらい歩いたのか、もうよくわからなかった。
最初のうちは後ろから騎士たちの声が聞こえていたけれど、いつの間にかそれも消えた。
今聞こえるのは、葉の揺れる音と自分の足音。
それから、腕の中にいるユラの呼吸だけだった。
「ユラ」
返事はない。
「そろそろ起きてもいいんじゃない?」
やっぱり返事はない。
腕が痛い。
肩も痛い。
斬られた脇腹も、血は止まっているけれど、歩くたびに鈍く痛んだ。
「……ユラ、意外と重い」
もちろん返事はない。
「今のは、起きても忘れてね」
聞かれていないと思う。
たぶん。
本当なら、一度地面へ寝かせて休みたい。
でも、また騎士が来るかもしれない。
何か魔物が出るかもしれない。
ユラが起きないまま何かあったら。
そう思うと、下ろせなかった。
森は深かった。
王都の外で見た森より、ずっと木が多い。
道らしい道もない。
どっちへ進んでいるのかさえわからない。
日も、少しずつ傾いてきている。
「まずいな……」
水。
少し。
食べ物。
少し。
地図。
ない。
ユラ。
起きない。
そして僕は。
もう、かなり限界だった。
足が止まる。
そのまま膝をついた。
「っ……」
ユラだけは落とさないように、ゆっくり地面へ座る。
木の幹へ背中を預けた。
「ちょっと……休もう」
もちろん返事はない。
目を閉じる。
駄目。
寝たら。
たぶん、駄目だ。
でも、身体が言うことを聞かない。
「ユラ」
顔を見る。
呼吸している。
「よかった……」
それを確認した途端、身体から一気に力が抜けた。
「……少しだけ」
瞼が落ちかける。
その時だった。
「おい」
声がした。
目を開ける。
木々の間に、一人の男が立っていた。
弓。
腰には大きなナイフ。
使い込まれた革の防具。
髭のある、知らない男。
「…………」
また。
人。
短剣へ手を伸ばそうとする。
でも、腕が動かなかった。
男は僕を見る。
次に、腕の中のユラ。
そして血のついた僕の服を見た。
眉を寄せる。
「お前」
一歩近づく。
「こんな森の奥で、何やってる」
「…………」
僕が聞きたい。
男は僕の少し向こうへ目をやった。
地面には、大きな獣の足跡が残っている。
それを確認してから、もう一度僕を見る。
「死にたくなきゃ、そこで寝るな」
そこまで聞いたところで。
僕の意識は途切れた。
現在のステータス
榊 優 Lv.2
天職:【罪人】
【解錠 Lv.3】
【窃盗 Lv.2】
【密猟 Lv.2】
【詐欺 Lv.1】
【文書偽造 Lv.2】
ユラ Lv.1
【芽吹き Lv.2】
今回の成長
優:【窃盗 Lv.1 → Lv.2】




