第十一話 罪人、怪しい契約に首を突っ込む
目を覚まして、最初に見えたのは天井だった。
「…………」
一瞬だけ、どこにいるのかわからなかった。
教室じゃない。
自分の部屋でもない。
地下牢でもない。
横を見ると、隣のベッドでユラが丸くなって眠っている。
「……そっか」
マルグ。
宿。
赤い鳥。
昨日、自分でお金を払って取った部屋だ。
窓から朝の光が差し込み、外から人の声も聞こえてくる。
普通の朝だった。
異世界に来てから、初めてそんなふうに思った。
一階へ降りると、朝食が用意されていた。
パンと薄いスープ。それに小さな卵。
ユラは昨日教えたことを覚えていた。
「いただきます」
「覚えてたんだ」
「うん」
ちょっと得意そうだった。
僕も手を合わせる。
「いただきます」
食事をしながら、今日のことを考える。
手持ちは二十一銅貨。それに、昨日灰鼠から取った極小魔石が三つと、大きな前歯が六本。
でも、僕には狩猟札がない。
町の正規の店では売れないから、売るならまた町の外にいる、札なしでも買ってくれる店へ持っていくしかない。
ただ、少量を売るためだけに町を出て、また入街税を払うのももったいない。
もう少しまとめてからの方がいい。
「……お金、大事だな」
「はちみつ?」
「その話じゃないよ」
いや。
少しはその話でもあるけど。
食事を終えて荷物を確認していると、左腕が少し痛んだ。
「痛っ」
昨日、灰鼠に飛びかかられた時についた傷だ。
大したものではない。服が擦れて、皮膚が少し切れている程度。
でも、これからまた森を歩くなら、薬くらいは持っていた方がいい気がする。
ゴブリンにも襲われた。
角兎も狩った。
この世界では、怪我をする機会が多すぎる。
「薬、買っておこうかな」
「くすり?」
「怪我した時に使うやつ」
ユラが僕の腕を見る。
「いたい?」
「ちょっとだけ」
「みせて」
腕を差し出すと、ユラは傷をじっと見た。
「ちょっと」
「でしょ」
「うん」
診察が終わったらしい。
「じゃあ、行こうか」
「どこ?」
「薬屋」
「はちみつは?」
「今日は薬屋」
「…………」
明らかにがっかりした。
「お金に余裕ができたらね」
「いつ?」
「僕も知りたい」
宿の女将さんに薬屋の場所を聞く。
もちろん僕には看板の文字が読めないので、「大きな木の絵が描いてある店」と教えてもらった。
少し歩くと、すぐに見つかった。
古い木造の小さな店で、入口の横には葉をたくさんつけた木の絵が描かれている。
扉を開けると、乾いた草の匂いがした。
壁一面の棚には袋や瓶が並び、天井からも束ねた草がいくつも吊るされている。
「……すごい匂い」
ユラが鼻を動かす。
「くさ」
「いっぱいあるね」
奥から声がした。
「いらっしゃい」
出てきたのは、お婆さんだった。
その後ろには同じくらい年を取った男の人がいて、さらに僕たちより少し年下くらいの女の子が棚へ瓶を並べている。
家族でやっている店らしい。
「何がいるんだい?」
「傷に使う薬ってありますか?」
「どれ、見せてみな」
腕を見せると、お婆さんは傷を見て笑った。
「このくらいなら塗り薬で十分だね。旅をするなら、包帯も少し持っておいた方がいいよ」
「じゃあ、それもお願いします」
値段を聞く。
これくらいなら買える。
必要なものだけを選ぶと、孫らしい女の子が袋へ入れてくれた。
「はい」
「ありがとう」
代金を払う。
また少しお金が減ったけれど、薬は必要だ。
たぶん蜂蜜よりは。
ユラには言わない。
お婆さんが僕の外套を見た。
「旅の途中かい?」
「はい」
嘘ではない。
「二人で?」
「はい」
「大変だねえ」
その時、お爺さんが棚の奥から箱を運んできた。
「ばあさん、こっちはもう空だぞ」
「あら。また仕入れないとね」
「金があればな」
その一言で、お婆さんの表情が少しだけ曇った。
「……ごめんよ。お客さんの前で」
「いえ」
僕には関係ない。
そう思った。
でも、この世界へ来てからお金の話ばかりしているせいか、気になってしまった。
「何かあったんですか?」
聞いてから、少し聞きすぎたかなと思う。
お婆さんは答えるか迷ったようだった。
その代わり、棚へ瓶を並べていた女の子が言った。
「明日、この店なくなるかもしれないの」
「え?」
お婆さんが振り返る。
「ミナ」
「だって本当でしょ」
女の子――ミナは唇を尖らせた。
「おじいちゃんたち、ちゃんとお金返してたのに」
店がなくなる?
「借金ですか?」
お爺さんがため息をついた。
「バルガ商会からな」
その名前を聞いて、僕は止まった。
「……バルガ?」
昨日、カイルが話していた商会だ。
お婆さんが頷く。
「ここみたいな小さい店にも、お金を貸してくれるんだよ」
まただ。
新人狩人にも。
小さな店にも。
普通ならまとまったお金を用意しにくい人たちへ、バルガ商会は金を出している。
「前から借りてたんですか?」
「何度もね」
お爺さんが答える。
「仕入れが多い時期にはまとまった金がいる。バルガが貸してくれるようになって、ずいぶん助かった」
「ちゃんと返してたんですよね?」
「ああ。借りて、返して。また必要な時に借りて。それで何年もやってきた」
だったら。
どうして店がなくなるんだろう。
「今回は?」
「今回も、同じつもりだったんだよ」
お婆さんが説明してくれた。
今回借りたのも、薬草を仕入れるための資金だった。これまでと同じように、何回かに分けて返していく。
ただ途中で一度、王都方面から来るはずだった薬草の荷車が遅れた。
商品が入ってこない。
売るものも足りない。
そのせいで、一度だけ返済日を過ぎた。
「何日くらいですか?」
「十二日だ」
お爺さんが答える。
「でもね」
お婆さんが続けた。
「返済日から三十日までは猶予があるって話だったんだよ」
「猶予?」
「少し余計に利息は払う。でも、一月以内なら契約違反にはしないって」
だから、二人は遅れたこと自体は心配していても、契約が駄目になったとは思っていなかった。
荷車が到着して薬草を売れるようになると、遅れていた分と追加の利息をまとめて支払った。
「じゃあ、払ったんですよね?」
「ああ」
「なのに?」
お爺さんの顔が険しくなった。
「契約違反だと言われた」
「え?」
「返済日を一日でも過ぎた時点で、残っている借金を全部その場で返さなきゃならない契約だってな」
意味を考える。
何回かに分けて払う約束だったのに、一度遅れただけで、残りを全部すぐに払えと言われた。
「それ、払えたんですか?」
「払えるなら困ってないよ」
お婆さんが苦笑した。
当然、残った借金を全部その場で払うことはできなかった。
すると今度は、契約違反に対する保証金まで加えられたという。
「どれくらい?」
「残っていた借金と同じだけだ」
「……倍?」
「そういうことになる」
一度、返済が十二日遅れた。
遅れた分と利息は、その後ちゃんと払った。
なのに、その一度を理由に残りの借金を一括で請求され、払えなければさらに同じ額を上乗せされた。
「そんなの……」
おかしい。
そう言いかけて、止まる。
契約書に、本当にそう書いてあるなら?
昨日のカイルと同じだ。
「それで、店がなくなるっていうのは?」
ミナが答えた。
「払えなかったら、この店も、商品も、商売する権利も、全部バルガのものになるんだって」
「全部?」
「明日、取りに来る」
ミナの声が小さくなる。
お婆さんがその肩を抱いた。
「仕方ないよ」
「でも」
「契約書には、そう書いてあるらしいからね」
その言葉。
昨日も聞いた。
――今の契約書には、点検維持費を取るって書いてあるらしい。
カイル。
そして今度は。
――契約書には、そう書いてあるらしい。
「最初から、そういう契約だったんですか?」
僕が聞くと、老夫婦は同時に首を振った。
「違う」
お爺さんがはっきり答える。
「何度も同じ制度を使ってきたんだ」
「前も三十日の猶予はあった?」
「あった」
「店を取られるなんて話は?」
「聞いたこともない」
お婆さんも続ける。
「今回だって、契約する時に確認したよ。前と同じ条件ですって」
「誰に?」
「バルガの担当者に」
「契約書は?」
お爺さんが棚の下から薄い帳面を取り出した。
中には数字らしいものと、いくつもの印が並んでいる。
「こっちは返済の記録だけだ」
「契約書そのものは?」
「正式なものはバルガが保管してる。俺たちは、借りた額と返した額がわかる証票をもらうんだ」
僕にはその文字すら読めない。
でも、返済したことを示しているらしい印はわかった。
何度も借りて。
そのたびに返している。
今回も、途中まではきちんと払っている。
「商業組合には言ったんですか?」
「言ったさ」
お爺さんが苦い顔をする。
「でも、バルガが出した契約書にはそう書いてある。俺たちの印も入ってる」
「じゃあ……」
「明日、組合の執行官が来る」
正式な契約書を確認して、内容に問題がなければ店舗の引き渡しを執行する。
「そんな……」
ミナが俯いた。
「私、この店好きなのに」
誰も何も言わなかった。
ユラは店の中を見回している。
干した薬草。
瓶。
使い込まれた木の机。
この家族は、ずっとここで商売してきたんだと思う。
「ユウト」
ユラが小さな声で呼んだ。
「なに?」
「このお店、なくなるの?」
「…………」
答えられなかった。
その時、店の扉が開いた。
「おはようございます」
きれいな服を着た男が二人入ってくる。
薬を買いに来た客には見えない。
その二人の後ろから、もう一人の男がゆっくりと店へ入ってきた。
四十歳くらいだろうか。
整えられた髪。
上等な服。
そして、穏やかな笑顔。
「ご主人」
お爺さんの表情が固くなる。
「……ホープスさん」
「昨日お伝えした件ですが、変更はございませんか?」
「払えない」
「そうですか」
ホープスと呼ばれた男は、残念そうに息を吐いた。
怒鳴りもしない。
脅しもしない。
「でしたら明朝、商業組合の執行官立ち会いのもと、契約に従って店舗の引き渡しをお願いいたします」
「ホープスさん」
お婆さんが言う。
「本当に、あの契約は――」
「奥様」
優しい声だった。
「お気持ちはわかります。ですが、契約は契約です」
笑顔のまま言う。
「バルガ商会は、通常なら融資を受けることが難しい小規模な商店の皆様にも資金を提供しています。それが成り立つのは、皆様に契約を守っていただけるからです」
確かに。
それで、この店も今まで助かってきた。
「でも、三十日の猶予があるって――」
「契約書をご確認いただければ、すべて明記されております」
また。
契約書。
「我々が勝手に条件を変更することなど、できるはずがありません」
その言葉に、僕はホープスを見る。
男は僕のことなど気にもしていなかった。
「明日までに全額をご用意いただければ、もちろん店舗を譲渡いただく必要はありません」
老夫婦は何も言わない。
用意できないことを。
ホープスも知っているんだと思う。
「では、失礼いたします」
男たちは店を出ていった。
最後まで。
普通の商人にしか見えなかった。
扉が閉じてからも、しばらく誰も喋らなかった。
僕は昨日のカイルの言葉を思い出す。
――普通に使って傷む分は商会持ちで、壊した時だけ実費だって聞いた。
そして今日。
――三十日までは大丈夫だって聞いた。
二人とも、自分が聞いた条件と、今ある契約書の内容が違うと言っている。
「…………」
偶然?
カイルが説明を聞き間違えた。
この人たちも、契約内容を勘違いした。
そんなことが二つ続く?
「おじいさん」
「なんだい?」
「バルガ商会って、どこにあります?」
お爺さんが僕を見る。
「中央通りの大きな建物だが……」
「契約書って、そこにあるんですよね?」
「ああ」
「カイルさんの契約書も?」
「専属狩人なら、たぶんな」
二つとも。
同じ場所にある。
僕には文字が読めない。
見たところで、何がわかるのかもわからない。
それでも。
本当に二人とも勘違いしているのか。
それとも。
「ユウト?」
ミナが僕を見る。
「何するの?」
「……まだ何も」
本当に。
まだ何かするつもりなんてなかった。
ただ。
「契約書、一回見てみたいなって」
「見せてくれないと思うよ」
「ですよね」
当然だ。
他人の契約書なんだから。
しかも、バルガ商会が保管している。
お願いして見せてもらえるわけがない。
だったら。
どうする?
そんなことを考えた瞬間。
頭の中に、自分が持っている技能が浮かんだ。
【解錠 Lv2】
「…………」
嫌な予感がした。
この世界へ来てから。
こういう予感だけは、だいたい当たる。
榊 優 Lv.2
天職:【罪人】
【解錠 Lv.2】
【窃盗 Lv.1】
【密猟 Lv.2】
【詐欺 Lv.1】
ユラ Lv.1
【芽吹き Lv.1】




