第005話_持ち物は着替えとウイスキー大量、行き先は北京
私が初恵と出会ったのは会社2年目の夏であった。小柄で丸顔、笑顔が明るく、と言っても自分から冗談を飛ばせる娘ではなかった。同じ夏見寮の後輩で達也君がいたが、その同期である。
今は退職されたヤマギシリフォームの光男氏の運転で九十九里浜海岸に魚の活作りを食べに行った。
助手席に達也君が座り1人喋っている。よく喋る。後ろには初恵、賢一さん、私と座って空相づちをしていた。
手持ち無沙汰だった私は初恵の写真を撮った。彼女は恥ずかしそうで少し嬉しそうな戸惑いの表情を見せながらもファインダーにうまく収まってくれた。このことが後の運命を変える。
いやそれ以前に決まっていたのかもしれない。その時はお互い、かわいい娘、面白い人と思ったかも知れない。
その後いろんな場面で出くわす。茶道部の練習で、ダンス部で、バドミントン部の練習で、ちょくちょく話すようになっていった。
初恵は真面目である。くそまじめと言っても良いかもしれない。だから出納係に雇われたのかも知れない。その頃は電卓が一般的になったとは言えお金の計算はまだ算盤でやっていた時代である。
社内の連絡事はカートを持って歩き回り集配をする外部委託の業者に任せていた。
たまに初恵からメールが来る。メールと言っても便せんを二つ折りにした手書きのメモである。そんなものを受け取った日にはどきっとする。
そんなある日中国への出張が具体化してきた。
先にプロジェクトマネージャーとプロセスエンジニアの誠さん、それに、先に立ち上げるボイラを監督する丹ちゃんが先行隊として現地入りする。
その後インビテーション(招待状)を貰った我々が中国に入る。
中国に何を持って行ったら良いのか誠さんに聞いた。すると着替えとウヰスキーを大量にと言う。何も知らない私はオールドを6瓶買っていったがよくよく考えれば酒はほとんど飲まない。1本を残し残る5本は全て上げた。
成田空港がまだなかったとき、我々は羽田から中国に行った。降り立った空港は北京である。
マイクロバスのお迎えが来ていた。挨拶の仕方も知らない私はおとなしく乗り込んで前に席に座る。
年配の中国人通訳が声を掛けてくれた。日本語が達者である。中国人特有のアクセントはあまり感じられない……これが初めての通訳との出会いであった。
「お名前はなんと言いますか。」
「リョウイチです。」
「リャンイーセンションですね。」
「へぇ〜中国ではそういうのですか。」それを発音してみた。
「発音と言い、アクセントと言い、お上手ですよ。」
私は嬉しくなった。
マイクロバスは天安門広場にさしかかる。何という広場の大きさなんだろう。広大な広場は石畳であった。
そこからおよそ一時間かけて招待所と呼ばれる宿舎に着いた。多分4階建てくらいの、各階10部屋ぐらいがある宿舎と、1階には別棟で食堂がある。
荷を解き整理して一段落すると事務兼通訳の宏さんがやって来て今月分の滞在費、300元をくれた。ちなみに1回の夕食が5〜7元で出来た。
食堂には宴会も出来るくらいのテーブルと椅子が有り、約8卓、50人分ほどの椅子があった。
メニューは一応日本語で書かれてある。「豚の人肉炒めとは」大蒜のことか。餃子、焼売はメニューを見ただけで本場物と思わせた。
2、3日経つと日曜日になる。バスを仕立てて北京に買い物に行くという、北京飯店で食事をして国際倶楽部で土産を買う。といっても来たばかりなので絵葉書を20〜30枚買って社内の同僚、姉妹、親に送った。
この現場の契約はFOB+スーパーバイザーなので日本人職人は一人も来ない。
その代わり監督、アドバイザーを15人ほど送るというものである。
我ら3人もその中に入っている。だから彼らは我々に対しても「先生」という敬称を使う。
初めはそう呼ばれると面はゆかったのだが3箇月もするとなれてきて「さん」付けされるとむっとくる。
一番の不自由は囲われた宿舎の外には出られないことだった。我々を気遣ってか、週末には日本食のメニューが出る。
楽しみにしてそれを注文するとこれは太巻きのつもりだろうかといった具合である。しかしここまで気を遣ってくれる事に感謝したい。
現場に入るとまずはラインチェックと言って配管の1本1本を確認していく。次に機器、主にポンプであるが、を調整していく。過負荷になる前にポンプの動力が落ちてモーターが焼けることがないようにする。
その装置を安全側に設定すると中国人担当者はなぜそんなことをする、設計値ではこれこれだという。
いやこの方が安全だと説得するのに時間がかかる。彼らは経験がなく、唯一の数字は機器の取扱説明書である。その通りにしようとする気持ちは私には分かる。ただ百戦錬磨のポンプ職人の言うことがより説得力がある。
時に全く声がかからないときは工場の中を歩き回り、塔槽類をスケッチした。
北京に行って数日後から初恵の手紙が届くようになった。
高校生の延長にいるといった感じの手紙であったが、海外出張では夕方5時から寝るまでは何もやることがない宿舎では返事を出す暇が十分あった。
返事はいつもすぐに出す。こちらのことを書いて倍くらいの分量にして返事を出す。それが効いたのかだんだん親密になっていった。
中国の話は別の機会にするとして、結局北京には5ヶ月と3ヶ月間出張した。
2回に分かれたのは原料が来ないと分かったから皆一旦引き揚げようとなったものである。




