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【昭和実話】辞表を出すたび遠くの国へ飛ばされるんですが!?  作者: Ryoichi


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第003話_「天才君」と呼ばれた私は、夜の会社で模型と図面を見比べた

 プロセス2部にはいくつかの島があったように記憶している。


 1つは私が所属するポーランド組でそれ以外にもソ連組、チェコスロバキア組、中国組とあったがポーランド組に半年ほどいた後、最終的に私はオペレーション部(その後コミッション部)の中国組に組み入れられ、北京の現場に配属された。


 各島には女の子と言われる雑用係が1人いて、コピーや図面を焼いたり、ファイリングやその他雑用をこなしていた。


 私がプロセス2部所属の頃はほとんど毎朝始発のバスに乗り、朝の7時頃出社し、真っ先に会社に来て昨日の残業分をやっているとヨーコちゃんが8時頃出勤して机を拭いて回っていた。


 彼女は私とは10歳ほどの年上であったが、とても優しくしてくれた。その頃電話機にはある仕掛けがしてあって、03と04で始まる地域にしかかからなかったのを0956の佐世保に電話するやり方を教えてくれた。


 確か1度ゼロを回してゼロが戻る前にチンと途中で切るのである。これで成功して何度か実家に電話を掛けた記憶がある。彼女はその後私がアルジェリアに行くまで、いや行ってからも通帳と印鑑を渡して私の口座を管理したり、私が外国にいれば送金をやってくれ会社を辞めた後もいろいろと面倒見てくれた。一度ヨーコちゃんにお見合いをセッティングされたことがある。


 後で気づいたのであるが、私の次年度の新入社員でなかなか可愛い子であったが私自身結婚して身を固める気がないので付き合う気にはならなかった。


 結局その子は私の後輩と結婚した。


 多分茶道部に入ったのが知り合ったきっかけだろうと思う。


 TEC内では1、2を争う美人で顔がふくよか、ボディラインはそこそこといったところか。何度か泳ぎに行ったのでボディラインはよく知っている。バストは86cmのCカップといったところだろうか。


 プールにも一緒に通い、その後お酒を飲むのがあの頃の楽しみだった。美人を3、4人引き連れてである。今から思えばモテた。当時はさほど感じなかったのだが今思うと確実にモテた。


 茶道部は社内でも人気の部であった。流派は表千家だが裏千家の私も快く迎えてくれた。もっとも千利休は言う。『茶の湯とはただ湯を沸かし茶をたてて飲むばかりなり』


 そこに行くと男が3、4人で後は綺麗な女性が20人はいただろうか。よくよく考えるとそこは女性達が未来の旦那を虎視眈々と伺う場でもあったかも知れない。いずれにしろ私にはそんな気はさらさら無く、美人であろうが優しかろうが結婚するのはずっと後と決めていた。


 鎌倉に茶道部の合宿が有った。二十数名のそして大半が女性のグループでお茶を点て、寺で座禅を組むのである。望むと棒みたいなものでパシッとたたかれる。それがとても良い。2回たたいて貰った。


 それが終わるとみんなで円座となり自己紹介をする。


 それが終わると私はそこにいた女性の顔と名前を全て覚え何々さん何々さんと呼んでいったら皆は大変驚きその時ついた名前が「天才君」であった。それが私のニックネームとなり、たまに先輩からからかわれた。その後いろんな場面で「天才君」が登場する。


 あるとき、コンサートのお誘いが寿美子さんから来た。深く考えず承諾したら、会って欲しい人がいるという。


 何も考えずに会ったのだが、どうやら私の人間性を、お見合いの相手にふさわしいかどうか自分の先輩に診て貰っているに違いなかった。そういったたぐいの面接には慣れっこなので、特に美人の姉を3人も持つ私としては朝飯前である。


 難なくパスしてその夜のコンサートに出かけた。その後食事をしたが何もなかった。


 比紗絵も何度か泳ぎに来た。


 酔った振りして寿美子さんの肩を抱いた。女の甘い香りがしていたのを今でも忘れられない。


 どうゆう訳か1〜5才年上のお姉様達が来るようになった。


 私は生ビールの中ジョッキを一杯とつまみに食事が定番であった。


 そうした中にお局様がいて、的確な助言をする。偉ぶらず良い感じの方であった。一度船橋の沖縄料理店に一緒に二人で行ったことがある。いやにしょっぱい料理だったことを憶えている、私が21歳の時である。


 彼女は私の1年先輩社員であった。おかっぱ頭にえくぼが似合う活発で頭の良いお姉さんであった。


 そのとき私が21歳、彼女は22歳であった。お互い好意は持っていたものの、私の興味は他のことにあった。好意と言っても男女の仲には発展しない。


 最初の半年間は新人教育と現場実習、それが過ぎると本部に戻り各部のプロジェクトに配置される。


 私の部署は、はじめポーランドのエチレンプロジェクトで、プロセス設計をやる部署プロセス2部であった。そこにはポーランド人技術者が何人もいた。


 そのお世話をしていたのが比紗絵である。彼女は当時から愛くるしく歌がうまかった。部署はプロジェクト部で言わば各プロジェクトの総まとめをする部署であるからプロセス2部にも頻繁にやってきたし英文マニュアルの読み合わせをしたこともある。彼女もポーランドのエチレンプロジェクトに関わっていた。


 ポーランド人との懇親会に会社はバスを仕立てて彼ら210人ほどと私、比紗絵などが加わって富士山の5合目まで行ったことがある。朝7時に千葉駅に待ち合わせだったため寮から千葉駅までのバスがなく千葉駅までの間10㌖を走った記憶がある。最後はタクシーが通りかかりそれに乗った。


 そのとき彼女が歌ったのがポーランド民謡「森へ行きましょう」である。歌い始めるとポーランド人たちも1緒に歌い始めたが途中で誰かが「シー」(日本語バージョンを聞こうよ)となって彼女の歌をじっと聴きはじめた。


 彼女は頭が良いし、仕事もてきぱきやるのだが、あちこちで無駄話をして回るのが玉に瑕で女性社員たちの評判は芳しくなかった。あるとき本人に訊いてみたことがある。


「比紗絵さんほど頭が良いと他人がバカに見えるだろう。」

「ええ、そうねぇ、言うとおりよ。はっきり言ってバカに見えるわね。」


 彼女自身については役員秘書をしているお姉様たちから彼女の評価を聞いたことがある。あまりいい噂ではなかったことだけは記憶している。


 ただ向上心は旺盛で同時翻訳タイピストを目指しているという。英語もそこそこできていた記憶がある。


 それから程なくしてオペレーション部の中国エチレンプラント試運転プロジェクトに配置換えとなる。そのときの新入社員が孝氏、信夫氏、私である。孝氏は大阪大学の修士課程卒、信夫氏は山形大学の学士卒である。


 中国プラントを運転するに当たって我々は特別教育で四日市に3ヶ月間ほど研修に行った。実は四日市に行く前、ふとしたことから会社の正面玄関に飾られているプラントの模型はそこのエチレンプラントだと判明した。


 それを図面で確かめ模型で確かめるには会社に誰もいなくなった夜10時以降が良いと思い、わざわざ残業してじっくり確め、細部を検討したところ大阪石油化学とはずいぶん違っていた。


 大阪石油化学しか知らないのはそこの運転員と大阪石油化学で研修した我々8人である。すると中国プラントも違うのか。


 そうしてみていくと、明らかに違った箇所がいくつかあった。それらを発見したことに小躍りしたものだ。


 まず原料が違う。一般的な国内のエチレンプラントの原料はナフサである。しかるに中国のプラントは重油(ガスオイル)を使用していた。よって重質分が多く出る。そのための施策もいろいろ見つかった。新たな発見は後々の座学で孝氏、信夫氏と決定的な差を付けるに至った。


 こうしたことが次々と見つかるとさらなる興味や疑問もわいてくる。座学では積極的に発言し、質問した。一方孝氏、信夫氏はよく寝た。まだ学校の授業の延長上にかれらはいたように思う。


 オペレーション部の主査、和彦さんは「孝と信夫はよく寝た!」と嘆いていた。


 あるとき分解炉のヒーターコイルの伸びがいろいろあると質問した。四日市の担当者は「それは熱がかかるので伸びるのは当たり前だ。」という。


 私は食い下がる。「いや、それが一様ではないんですよ。1番目のコイルはこの伸び、しかるに2番目、3番は直線的ではない。」そこで当社のプロセスエンジニアである誠さんはより詳しい説明をしてくれた。


 「実はナフサが分解炉を通って行く過程では温度分布曲線は一様ではなくこうなっている。」として、資料を出し、カーブを描き説明してくれる。そうして一歩踏み込んだ質問をしていると寝る暇はない。一方他の2人は相変わらず寝たり起きたりであった。


 四日市では3交代勤務もあった。大阪石油化学での経験もあり、さほど驚かなかったが大阪では分解・圧縮・精製と3セクションあったのにここ四日市では2セクション方式でやっていた。


 この町には高専同窓生の田邊がいた。彼とは高専4年生の時に一緒に水泳部に入ったことがある。その後東亜紡織という四日市の会社に入社したもののそれに飽き足らず、上を目指しているような男だった。


 滞在中は彼の寮に転がり込んで彼の車を借りて出社していた。


 それから30年も経ったろうか。ちょっとしたきっかけで再会した。私に四日市の出張があった。四日市と田邊が私の頭の中で結びついた。そこには住んでいなかったが、思った通りに以前よりずっと良い会社に入っていたが、いかんせん定年まであと数年間近である。子供たちはまだ大学に通っていた。


 彼と再会したとき、彼の第一声は「おまえ年収いくら。」であった。よほど同窓生の年収に興味があったのだろう、千2百万円と答えておいた。


 実は給料としてはその3分の2しかない。だが私の分を妻名義に給料として払っている。その他貰っている家賃を加えるとそれくらいにはなるのであるが、これも正確ではない。


 会社を経営していると諸々の出費が経費として落とせる。


 コーヒー1杯飲んでも会議費として落とせるたぐいの話である。


 さて四日市の出張が終わると船橋の事務所に戻り本格的な準備をする。


 各機器の仕様に目を通し機器の運転仕様書、取扱説明書を読む、しかもほとんどが英語である。ボイラーや圧縮機に至っては複雑怪奇である。


 そうした大型の機械には三菱重工業と言ったメーカーから専門員を呼ぶ。すると専門員はパチンコ玉を鉄棒の先に付けたような音聴棒と言われる棒1本で運転状態を聞き分けるのである。


 その他計測機器メーカーの横河電機からも専門員が北京の現場に派遣されてきたが、年が若いとどうしてもスーパーバイザー(監督)にはなれなくて、自分で手を出してしまう。


 また当時の中国は自力更生とかいって自分たちで早く技術を身につけたくていろんな質問をしてくる。特に多いのが、「その材質は何ですか。」というものであった。それを訊かれる度に、次回はこれを自分たちで作ろうと思っているのではなかろうかと勘ぐりたくもなる。


 その点四日市石油化学の隆司氏は他のメンバーとは違っていた。暇を見つけては中国人相手にアドバイスを与え、積極的に自分の経験とノウハウを伝えようとしていた。実は私はその隆司氏と組んで彼らに伝える手助けをしたことが何度もある、彼らは驚いて「リョウイチ先生は通訳をしている」と言われた。


 まだ22、3歳の若造であるが彼らは私を先生と呼んでいた。


 はじめ先生と呼ばれくすぐったい気がしたが、人間恐ろしいもので3ヶ月もすればリョウイチさんと言われれば腹が立つ。


 隆司氏はその後中国に2度ほど彼だけ招待されて渡航したが大陸的な風土が影響したのか鬱にかかって会社を長期欠勤することになった。


 私にも2度ほど電話がかかってきたがその頃は鬱と言う言葉さえ知らなかったのでたいしたアドバイスはできなかった。


 とまれ最初の5ヶ月ほどは充実した日々であったが最後になって原料が来ないという。全員一度引き揚げることとなった。


 これは都合が良かった。通常は半年経たないと帰国休暇がもらえないが5ヶ月で日本に帰ることが出来る。初恵にも会える。


 中国エチレン工場の試運転プラント建設の契約はフルターンキーではない。(フルターンキーとは、「鍵を回せばすぐに使える」という意味の英語表現で、工場をすぐに稼働できる状態で顧客に納品すること。またシステムの開発委託などで、完全に完成していてすぐに使い始められる状態で発注元に引き渡す契約形態のことを「ターンキー方式」という。)


 これに対し、FOB+スーパーバイズ契約があり、FOBは船渡し(コントラクターの責任が機器の製作と船積みで終了する契約方式のこと。関連語:CIF)。中国とは後者であり、アルジェリアでは前者、中国の工場は後者+スーパーバイズ契約である。これは機器、配管などの資材を港渡しで引き渡し、工事は中国側で行う代わりにその監督、アドバイスを日本側が請け負うのである。


 だから日本の労働者を何百人も連れて行く必要はない。


 私が行ったときもわずか10数人のグループだった。試運転にしても基本は中国側がやるのでこちらはその監督だけで良い、だから建設時は10数名、試運転時にも10名そこそこの人数で足りた。


 試運転グループは当初建設グループのお手伝いの意味があり、配管工事などちゃんとした機器どうしが繋がっているかなどのラインチェックから始まる。


 それが終われば水運転を行うが、ここでも勤務は昼間だけである。ほとんどの機器が動き出した頃にはそれに合わせ、我ら運転員は3交代勤務を行う。朝昼間勤務、夕方夜間勤務、完全夜勤。ちなみに2週間ほどは休みがない。


 それでも文句を言う人間はいなかった。文句を言っている暇がないほどエキサイティングな業務であった。


 それに用役(ユーティリティー)と呼ばれるボイラー、発電機、計装用圧縮機、冷却塔管理などの担当者が1人いた。


 それに忘れてならないのは計装技師である。


 分析員もいた。オンライン分析計というものがあって製品の仕様(スペックといっていた)。私が思いつくのはそれくらいで他にもいろいろいたと思う。


 中国側との打合せや会議では必ず底の深いカップになみなみとジャスミンティーをごちそうしてくれた。中国には花茶といって(ホアチャーと呼んでいたが)ジャスミン茶のことで日本の緑茶、英国の紅茶にあたるごく一般的な飲み物である。


 会議は3日に1度くらい行われていた。通訳は日本側、中国側ともにいたが、日本側は宏さんと言って妻に中国人を持つ2人の娘の父で、通訳としてはベテランの方であった。


 それに比べるとアルジェリアの現場では配管の溶接工からして日本からの出張者である。最盛期には1千人からの日本人がいた。いやそれでは足りないのでイタリア、フィリピン、韓国などからの出稼ぎ労働者で現場は大賑わいであった。その話は後ほどしたい。


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