第002話_一日で億が燃える炎と、士農工商・犬・下請という身分制度
1973年4月に上京し、当時の本社は今も霞ヶ関であるが実動部隊であるエンジニアリング本体は人事、経理、設計、調達ともに船橋にあるその事務所に向かった。簡単な説明会が有り、千葉の小倉寮と船橋にある夏見寮に振り分けられた。
入社した男子は結局博士課程1名、修士20名、学士10名、高専卒10名である。そのほとんどが理工系であり、1人文化系として東大法学部がいた。
女子も10数名いたようだが全て事務系で補助的な役割ないしは総務、会計、出納の職場に配置された。
男子新入社員は会議室に集められ、オリエンテーションを行った後、近郊の施設や工場を巡り、その後多分大阪まで行って工場見学をしたと思う。
今から思うとTECを得意先として取引のある部品メーカーの工場見学であった。部品メーカーとは言っても国内最大級の大型圧縮機やポンプ、塔槽類、制御機器の製造会社である。しかもどの会社をとってもTECの会社規模を遙かに上回っている。こちらをお客様扱いしてくれた。ひと月足らずの研修はあっという間に終わり、船橋に戻ると作業着が私を含む8名に配られた。工業化学ないしは化学工学を修了したエンジニアの卵である。
工業化学も化学工学も似たようなものとお思いでしょうが英語にすると違いが分かる。
工業化学:Industrial Chemistry
化学工学:Engineering
1975年当時は堺泉北工業地帯の中核をなすエチレンセンターとして、飛ぶ鳥を落とす勢いであった工場である。工場の運転を直に携わる従業員は、4直3交代からなる運転員とそれを補佐する工務、計装、分析員、管理部門からなっていた。エチレンセンターと呼ばれるコンビナートの中核である工場は原料のナフサを熱分解して各種プラスチックの原料を作っていたからである。
そのおおもととなるエチレンはポリエチレンを初めとし、プロピレンもブタジエンも全てその後のプラスチックの原料であった。ここが機能しなければ周辺の工場が立ちゆかないのである。ちなみにこの会社は三井化学の100%子会社である。
東洋エンジニアリングも三井化学の子会社である。聞いたところによると社長は2期毎にプロセス部門、プロジェクト部門から交互に選ばれる。だからこれらの部は言わば本流であってプライドも高い。
我らTECの新入社員は会社の全体的な男子向け新入社員教育をひと月終えると各々の部署に配属されたが、工業化学ないしは化学工学系の8人は大阪のエチレンセンターで3ヶ月間研修することとなった。私の記憶では以下のようなメンバーであった。
大阪大学修士2名
九州大学修士1名
京都大学修士1名
上智大学学士1名
山形大学学士1名
新居浜高専1名
S高専1名(筆者)
座学がひと月間あり、エチレンセンターと呼ばれる工場の基礎から学ぶ。
ここで各自の知識、能力が試されるのであるが、修士の者達はあまりに専門に走りすぎて基礎的なことを忘れたように思われた。
それは例えば空気の分子量を知らないこととか、或いはエチレンの用途であったりとかこちらが唖然とする質問を平気でしていた。総じて座学の、いや現場の動きも含めて成績が良かったのは悠介君と私の高専組であった。
座学がひと通り済んだところで、工場運転部門で3交代勤務がある。監視盤がずらりと並び各セクションの監視盤がそれぞれ3、4面あり、全部で12、3面あったような記憶がある。そんな監視室にいて、勤務中に2度3度と現場を見回る。
現場以外の時は監視室で計器の動きを見ているのであるが、およそ2、3百の計器があったとしても大事なのはその中の10個である。異変が起こるとブザーが鳴るが大抵はその前に対策をとる。最終的に1番大事なのはエチレンの品質である。
確かエチレンの中に含まれるアセチレンの量が規定値を超すと製品にならなくなり、フレアスタックという地上高120㍍の、高い鉄塔で全部燃やしてしまう。その時の炎の高さはすごいものであるが、それよりもなぜそうなったかの始末書を書かされるほど重大な過失である。何せ1日で億の単位の損失となる。
見廻りはいつものルートで現場を見て、音を聞いていくとだんだん慣れてきて運転状況が分かるようになる。こういった現場では滞りなく運転を続けることが最大の課題である。監視室は静かで記録計の針はぴくりとも動かず真っ直ぐな線を引いていく。
3ヶ月目になると現場は慌ただしくなった。定修と言って年に1度の定期的な修理を行う。期間は30日間である。
この頃には我々も運転部門から工務部門へ移され、現場監督を行う。現場監督と言ってもまだ社会人になって数ヶ月の若者が出来るわけはなく、溶接工、斫り工、その他いろいろの職人さんたちの側にいて仕事ぶりを見たり、溶接のあとにはカラーチェックと言って溶接が旨く出来たかを色でチェックする等を行った。
ところで土、日は休みであるから全く自由である。お小遣いは豊富にあるので近くの観光に出かけた。高野山や大阪城と言った具合である。暇にまかせ本もたくさん読んだ。小遣いがたくさんあったのは給料と出張手当、宿泊費が支給され、当時毎月10万円ほどの貯金が出来た。初任給が6万7千円の若造がである。
私と九州大学修士の直人さんとは馬が合った。ホテルにしろ、2人相部屋が数百円安いとなると一緒の部屋をとった。
こうした大きなコンビナートでは日直、午後、夜勤、と8時間ずつに分かれ、それが済むと休みが2日もらえた。もちろん事前申請すればそれ以外の時に休みも取れる。そうして彼ら運転員は1生を定年まで過ごしていくのである。定修を終えると我々の3ヶ月間の研修が終わり、船橋の事務所に移った。
と同時に上智大学卒の徹さんが海外出張をすることになった。確か南米の国チリだったと思うが、尿素プラントの試運転にかり出された。
三井東圧の工務部門が分離独立したのがTECと聞いていた。そしてその会社はアンモニア、尿素に関しては世界的に競争力が高く当時のソ連に三十数基のアンモニアプラントを納入していた。
※あの冷戦と言われていた時代にソ連相手にプラント輸出である! ちなみにアンモニアは肥料の原料となるが使い方によっては硝酸アンモニアとかいう爆弾の原料ともなるらしい。
大阪の出張から戻ると、私はプロセス2部に配属され、悠介君や孝さん、信夫さん、直人さんらとともにプロセス設計を行うことになった。正明さんはアンモニアグループだったと思う。まずは簡単なフローチャートの図面作成からである。機器と機器を結ぶ配管にはその種類と管径、配管番号が書かれてあり、それを1本1本描き、憶えていくのである。単に憶えるのではない。
どんな材質で、どんな機能があり、中には何がどんな原料がどんな状態で流れているのか、主配管なのか分離なのか合流なのかを憶えるのである。多くは液体か気体でしかないのだが、蒸気に至っては発電タービン用の超高圧から2~3キロの低圧蒸気もあり、それぞれ用途が違う。
ひと月も経った頃にはそれらの配管のどこにどんな計装機器があり、コントロールバルブがあって流量計、温度計、圧力計、液面計があって、それらは何のためにあるのかという意味が理解できるようになる。バイパス弁も2〜3種類ある。
例えば圧力制御バルブには下流側の圧力を制御する機能と上流側の圧力を制御するものとがある。その制御方法にも正確な演算装置が組まれていて、運転員はそのパラメーターを最適に調整していくのである。そうすると運転員は一旦手動で圧力をその値まで持って行き、自動制御に切り替える。
一度自動にするとよほどのことが起こらない限り真っ直ぐな一直線が記録紙に引かれる状態となる。もっともこれらは当時オペレーション部と呼ばれていた人たちの仕事である。
プロセス2部とはなんぞや、当時プロセス1部、2部、3部があり、プロセス1部は通称アンモニアグループと呼んで尿素、アンモニア工場を設計する部署である。設計が終わり調達部門が発注し、検査部が発注機器の検査を行い、プロジェクト部が現場に乗り込み工事を行う。工事完成直前から仕事はプロセス1部に戻り、試運転調整、保証運転を行って帰ってくるのである。
自分が設計した工場を自分で運転できるのは男冥利に尽きると言っても良い。
一方、プロセス3部はリファイナリ(石油の改質工場)を設計していた。いつも何をしているのか分からないが彼らも5年間受注がないと嘆いていた。きっとプロポーザルと呼ばれる入札参加の仕様書を作っていたと思う。
それに対しプロセス2部は別名ペトケミ(ペトロケミカル=石油化学)とも呼ばれ、華やかであった。私の知っているだけでも中国、ソ連、チェコスロバキア、ポーランド、アルジェリアのエチレンプラントが目白押しであった。
仕事の流れは各プロセス部から入っていく。そこで基本設計をやってから各部署に設計の詳細が渡され、各メーカーに発注となるのである。日本の名だたるメーカーや建設会社は全て下請(近頃は協力会社と言うらしい)であった。
鹿島建設も清水建設も下請であり、三菱重工も東芝も下請であった。というと聞こえが悪いが、こちらは何も感じなくても皆さんいやに親切だなとくらいにしか思っていなかった。
その後ゼネコンと言われる鹿島、清水、大成、竹中工務店とはこちらが協力会社の立場で仕事をするようになってはじめて協力会社と呼ばれる下請の立場が分かった。
エンジニアリング会社はその頂点に立つ。全てのそして世界のメーカーがTEC、千代田化工、日揮の下請である。
●※建設業界の身分制度、士農工商犬下請。
プロセス2部はいわば各部署の要となる基本設計部門で、そこでは不思議と社内元請けと社内下請の関係が出来てくる。プロセス部の連中は態度が横柄である。それに対し機械部(タービン、ポンプ、タワー、ベッセル)、電気計装部等は下請的存在で、よくプロセス部に「お伺い」をたてに来ていた。
するとプロセス部の人間は引き出しの中から分厚いファイルを出し、そこにあった数値をまた変換してもったいぶって伝えるというような光景を何度も見た。
そのプロセス2部に配属となった。
面白いことにプロセス2部とオペレーション部は補完関係にある。プロセス部で基本設計した工場がいよいよ引き渡しの時になるとオペレーション部に移って工場の試運転に参加する。試運転と言っても半年から1年はかかる大仕事である。
配管の1本1本からチェックしていくラインチェックを行い、その配管のどこにどんな機器が繋がってコントロールバルブがあるのか。全てを頭にたたき込むのである。
1旦それらが動き始めたとき、システム全体として把握していないと完全な運転は出来ない。
そうして運転の経験を積むとその経験が役に立ちプロセス設計にフィードバックされる。




