第001話_二段ベッドの実験少年、「空気の分子量は?」と面接で訊かれる
前作『スイスの会社に雇われて、アルジェリアで先生になった件について』は、今作の期間の真ん中にある一年(アルジェリアで講師をしていた頃)を切り出したものです。本作は、その前と後の話になります。
全16話、最後までよろしくお願いします。毎日12:00更新です。
辞表を出したとき、上司はしばらく私の顔を眺めてから訊いた。
「給料に不満か。」
「いえ、もらいすぎです。」
上司は黙り、それから「三井では働けなくなるぞ」と言った。脅しではなく、事実を告げる口調だった。
その頃の私はといえば、アルジェリアの宿舎で、ご飯茶碗に浮いたコクゾウムシを数えていた男である。一椀に三十匹はいる。怒るでもなく、ただ黙って数えた。数えたところで一匹も減りはしないのだが、数えていないと、なぜ自分がこんなところにいるのか分からなくなりそうだった。
辞表を出すたび、私はなぜか遠くの国へ飛ばされた。北京、アルジェリア、フランス、そして西アフリカ。気がつけば十年である。
なぜそんなことになったのかを、最初から話したい。話は、二段ベッドの上段から始まる。
1968年(昭和43年)、当時7倍の競争率から選ばれ工業化学科に入学した私は、実は第2志望の学科であった。
とは言うものの化学は大好きである。小学校5年生の頃より試験管、ビーカー、フラスコ、薬品瓶を買い求め2段ベッドの上段に実験室を作って遊んでいた。そんな私が入学したとき1学年で出会ったのが雄爾先生である。以下先生の惜別の言葉を記したい。
昭和49年3月 工業化学科卒業文集 惜別(故雄爾先生)
今年度の化学科卒業生は、1年生の時担任したので強く印象に残っている。入学式の日、入寮状況を見るために、建ったばかりの新棟の各室を廻って歩いたことを思い出す。
その当時、工業化学に関しては、ズブの素人であった諸君が、5年経って、相応の知識と技術とを身につけて(それは実験着の板につき工合から解る)就職して行くのだからえらいものだと思う。私が、中学・高校時代を通じて全く理解できず、その存在意義を深く疑った「化学」でめしを食う人間というのは、並の人間とは思えないのである。
しかしこの「めしを食う」という言葉は、わびしく、かなしい。
学校というところも結構わびしいが、職場は更にわびしいのではあるまいか。せめて、仕事を、食うための手段と割り切らず、ある程度これを楽しみ、これに遊ぶ術を身につけた方が、得であろう。
諸君は、縁あって高専に集ったのであるが、ここで学んだことのプラスの1つは、5年間同じクラスで過ごした友人を三十数名持っているということであろう。念の入ったことに、初めの2年間はみな同じ釜のめしを食っている。気が合うとか合わぬとかいうことを越えた、この「同期の桜」という連帯感は、貴重品のごとく大事にしなければならない。
私も、卒業式で、もと1年C組のメンバーが1人1人名前を呼ばれるのを、心して聞こうと思っている。
この言葉は、その後の十年、私についてまわることになる。
東洋エンジニアリングの入社試験では学士(大卒)、修士(大学院)、博士課程の学生たちにどんな試験があったかは知らないが高専の応募学生およそ50名には入社試験があった。
たしか最終学年である5年生になってまもなくの頃、多分5月連休前である。
この会社をどうして知ったかといえば1学年上の先輩が入社したことと担任の化学工学を教える助教授良介先生に勧められたことである。化学工学は英語でEngineeringという。
まさにエンジニアリング会社であった。
何をしているところかも分からず、ましてやエンジニアリング会社のなんたるかも知らず受けた。とにかく面白い会社らしい。
試験は筆記と1次2次面接である。筆記はそこそこ難しい数学を解いた記憶はあるがあとは忘れてしまった。これを執筆している時から40年以上が経つのである。憶えている方が酷というものだ。筆記試験はその日のうちに採点され、合否の判定が降りる。
落ちた学生たちには慰労会が催され、受かったものは翌日の面接の準備をする。
面接は、はじめ本部長クラスが行い、そこで受かれば午後から社長、役員面接が行われる。健一郎本部長は(あとで本部長と分かったのであるが)エンジニアリングの本流を行く人で、頭が切れる。面接での初めの質問はこうだ。
「空気の分子量はいくらかね。」
即座に「28.8です。」と答えた。健一郎氏は「ほう」と感心したようだった。その計算の仕方も知っているのだが訊きもされない余計なことを言うのはかえってマイナスと思い黙っていた。
「では工場で酸性の廃液を中和するためには何を使う。」
と訊いてきた。
「それなら、炭酸水素ナトリウムが良いかと……」と言ったところでまずいと思った。健一郎氏の顔が曇る。即座に言い直した。
「消石灰でしょうかね。」彼は満足そうである。
※実験室では排水管の詰まりのことを考え消石灰は使わない。コストを度外視しても排水管の詰まりを優先するのだ。
「ところで君、うちは海外での仕事をいくつか抱えているのだが、海外出張はどうかね。」
私は喜んで答えた。「海外は大歓迎です。」それがほとんど決め手となった。
午後の社長、役員面接ではまずスピーチがあるのだが題は「私の家族」である。
役員が7、8人いて健一郎本部長もいる。即興で作って喋らなければならない。しかし論点はそう難しくないと思った。
1.長男であるが(父は飴・おこしの製造職人で)家を継ぐ気はないしその必要がないこと。
2.長女が我が家の子供部屋を取り壊し建て増しして引っ越してきたおかげで私が親の老後の面倒を見なくて良いこと等、会社勤めをするに当たっての懸念材料をなくす作戦に出た。
その返答が模範的過ぎたと見えて今度は社長が意地悪な質問をしてきた。
「君は資格を2つ取っているが入社試験のために易しいものを選んだのかね。」
私はちょっとむっとしたが「試験は半年から1年の準備を経てとったものでどちらも簡単ではない」と控えめに伝えた。
資格は「公害防止管理者水質1種」「放射線取扱主任2種」であった。
ここで健一郎本部長からの助け船が出る。「君は海外志望だったね」
「はい。」
それで入社は決まった。結局50人が受け、役員面接が終わり20人が残った。最後に残ったのは10名であった。
このとき工業化学の学生は1人しか採らないと言っていたが悠介君と私がその枠を越えて射止めた。
S高専担任の助教授良介先生はそれを聞いて小躍りして叫んだ。
「おまえまさに金星をあげたな。よくやった。」
私の合格を本当に喜んでくれたのが当時我々5年生の担任の良介先生だった。1度目の試験で受かったのがクラス34名のうちの3分の2くらいだったろうか。残る3分の1は2度3度と受け一応全員就職が決まったのは初夏の頃であった。
担任の先生はほっとしたようだった。




