第012話_看板のない国を五千キロ、国境で求められたのは車の保険証
ウィーンからチェコスロバキアへ入国する。国境では入国審査の時何かを求められるのだが何を言っているのか分からない。
「誰かフランス語か英語の分かる方いませんか」
と叫ぶも誰も答えてくれなかった。仕方なく持ち物、書類を全部出した。するとこれだといって取り上げたのは車の保険証だった。その後はスムースに行き無事入国できた。
入国すると町はいやに殺風景である。その後街灯がまばらであることと、広告看板が一切ないのに気づいた。
マリーとの再会は劇的であった。スロバキアの小さな田舎町にOlomoucと言う町がある。そこの駅員に何か用事があったわけでも無くフランス語でものを訊ねた。するとマリーは即座にフランス語で「私が伺いますよ」と答えた。実はそれを待っていたのである。
彼女は今年の夏Dijonの同じクラスにいた女の子ではないか。マリーも私のことを憶えていてくれて喜んだ。拙いフランス語ではあったが2時間ほども話したであろうか、食事に誘ったらついてきてくれた。彼女に限らず西側の国の人間には憧れを持っている。
「西と東を分ける国境がなければ私も一緒について行きたい……」ぽつりとマリーは言った。
それから2年ほど経ってプラハを訪ねたことがある。彼女が案内してくれた。同じ宿の同じ部屋を取ったが何も起こらなかった。
その後2年に一度ほど文通をして30年以上経った今も連絡を取り合っている。
チェコスロバキアを発つとポーランドである。Gliwiceとか言う町に着いたのは夜の10時頃であった。町はひっそりとしている。どこでどうして分かったのか知らないが町外れのキャンプ場にたどり着いた。
一夜を明かしポーランドのKasic氏に電報を打つ。翌日彼と会うが、彼とはTEC時代に知り合って以来の付き合いである。奥さんと可愛い娘とが家で待っていた。娘は2,3歳と言ったところか。まだほとんど喋らない。ポーランドはまだチョコレートが配給制ということでその大事なチョコを私に振る舞ってくれた。
彼とも10年以上文通していたがその後どちらともなく立ち消えとなった。
首都のワルシャワに行ったが首都の華やかさはどこにもなかった。改めて書いておくがこの頃はまだ東西冷戦の時代で、西と東にヨーロッパは分かれ、西ベルリンはベルリンの壁で囲われていた。早々にワルシャワを発ち東ドイツに入る。ここでも滞在1日ごとに10ドルの換金が義務づけられるのである。東ドイツマルクではたいした物が買えない。しかるにドルショップに行くと西側の製品がいろいろあるのである。
ここにしろポーランドにしろ英語で話しかけてくるのはろくでもない奴である。もっとも多いのが「Change money」である。
フランスに再び戻ってきたのは北東角の国境であった。南西部にあるPauまで定規で線を引き右上から左下までのルートを走ったらどうなるだろうとやってみることとした。そこからおよそ丸一日掛けて帰ってくるのであるが今から思えばパリ-リヨンの大動脈を通りマルセイユ方面に行く途中でトウールーズに走っていれば苦労しなかったと思う。
Pauで出会った女たち ヴィッキー、テレーズ、イザベル
フランスではとにかくフランス語を習得するのが最大の命題である。そのためにはフランス語を使わなければならない。フランス人の友達を作るのが最も良い方法に思われた。女友達が良いが恋人に発展するのは良くないと考えた。恋人関係になるとあまり言葉は要らない。そしてお互いの温もりを求め合うものだと私は考える。
ヴィッキーは時々大学のキャンパスに顔を出す50代の知的な女性で「うちに今度来ない。」と誘われた。アルゼンチン人でフランス語に微かな訛りがある。旦那さんは高校の教師である。そして南アメリカ史を研究している。スペイン語も達者である。オリビエという名であったが高校の教師だけあってよく喋る。彼らの自宅はよく訪問した。大抵私は聞き役であったがあるときこんなことを彼らに言ったことがある。
「2人ともよく喋るけど、半分は相手の話聞いてみたらいかがですか。」
2人は笑いだし、オリビエは言った「そうだね我々の会話は聾と難聴者の会話だもんな。」
ヴィッキーが私に声を掛けたのには訳がある。裕福なアルゼンチンの家に育ち、日本人の使用人がいたのであろう、その礼儀正しさに日本人に対し一種の敬意を持っていたような口ぶりであった。
私はまだ自分の置かれた立場がよく分からなかったので聞き役に徹した。ヴィッキーとその旦那は聞き役がいれば良かったのである。何せよく喋るが、誰も聞いてくれないのが彼らの悩みだったのだ。
双方ともに良い相手を見つけたといったところか。




