第011話_一週間で二百種類のワイン。ただし、飲み込まない
クラスは自由に選べるし、クラスの中で勝手に自然淘汰される。わざと自分のクラスより易しいクラスを選び、遊び半分、勉強半分で参加するものもいるがそれは個人の勝手である。
林間学校のカリキュラムは、午前中授業で、午後はフリートークないしは各種クラブの活動である。クラブは自由参加で、コーラス、ダンス、料理、シネマクラブなどあってそれらには全て参加した。
Lac de Kirと呼ばれる湖に行ったところ、そこでは小学生の子供達20人ほどを集めてヨット教室をやっていた。むろんディジョン大学の林間学校とは関係ない。話を横で聞いていると親がPTT(電話、電報、郵便局)に勤めていて、その子弟であるらしい。大学生らしきインストラクターがヨットの説明をしている。
私も参加して良いかと聞いたら快く迎え入れてくれた。
そうしてわずか3メートルから5メートル程度の1人から3人乗りヨットの操縦方法を教えてくれるのだが、ヨットがこんな簡単な乗り物とは思わなかった。
コーラスではフランスの民謡や地方の知られた歌をおぼえ、ダンスクラブではロックを中心にディスコでもやってる雰囲気であった。
良かったのは、料理クラブで安い料金で料理を教えてもらい、前菜、メイン、デザートを計3品おぼえて、当然試食、それがお昼ご飯でもあった。
ここで、その後長きに渡って家庭のメニューともなるプレ・ア・ラ・バスケーズ(鶏のトマトソース煮)やポーク・ア・ライユ(豚肉のニンニク焼き)、ドファン風グラタン(ジャガイモとミルク、チーズのグラタン)などをおぼえたのが収穫である。
この林間学校で唯一の日本人教師がいた。頭に風呂敷を巻き髭は伸ばし放題とはいっても濃い方ではないので聖徳太子的な髭といったら想像が付くだろうか。私は翻訳者やフランス語の教師になるつもりはないので、1度だけ顔を出しただけであった。その後彼とはコーラスのクラスで一緒になる。
ところで私のクラスにはドイツ人の若い女の子2人と男の子1人がいて、いつも一緒に行動していた。3人は高校を終え大学前の夏休みにこの林間学校に来た感じでとても初々しい好感の持てる子達だった。
その内の1人、Dagmarという女の子が私に声を掛けてきた。
「えー、あのー、あなたの、となりにー」とかもどかしく喋るので、「ああ、とにかくすわったら」とうながし、授業は始まる。ぽっちゃりとした丸顔で、なんでこんな可愛い子が、なんて思いながらも始まった授業に積極的に参加する。どうせ同じ金払うのなら積極的に発言し、間違いをドンドン直してもらう方が良いに決まっているし、その方が上達も早いに違いない。
旅の恥はかき捨てと言う諺もある。同じドイツ人で同じくらいの年ということだろうか、ダグマーの友達にこれまたお人形さんみたいに可愛いベティーナという名の女の子がいて彼女は少し上級のクラスにいた。もう1人ひょろっとしたドイツ人の男の子と3人組の仲良しといったところか。
よく学食で一緒に食事をして喋り合ったし、一緒にコーラスグループに入り、コーラスの先生ジョゼフの家に招かれたりもした。
ジョゼフの家では奥さんとまだ2歳にならないくらいの可愛い男の子がいて、その子をあやすダグマーのしぐさから、ああ、良いお母さんになれそうだなと思ったものだ。
さて、その林間学校にいた日本人グループはというと正直言ってよく知らない。日本人や日本語には全く無関心で、どんなグループがあって誰がいるのかさえわからない。同じフランス語のクラスに1人だけ日本人の女の子がいて、1度だけキール湖に私の車で行った事がある。そのときこの林間学校が終わったら9月からポーに行きたいと言っていたのでポーの大家に手紙を書いた憶えがある。
しかし結局その話は立ち消えとなった。なんでも、後からやってきた日本人と米国人のハーフの兄弟がいたが、その兄弟と出来てしまったらしい。
それからポーに行く話もその後私が彼女に興味を示さないからか、まさかそれが目的で私に近寄ってきたとは思えないが煩わしさが1つ消えた。
日本人の中に大阪人の夫婦がいた。年の頃は20代後半くらいか。はじめ旦那と知り合って、今度の日曜日にカレーの会食をするから来てくれというので、何か手伝うことはないかと申し出、とりあえずは手持ちのキャンプ用品である、携帯ガスコンロを貸した。
日曜日お昼前に行くと奥さんがカレーの支度をしていて忙しそうである。何か手伝うことはないかと声を掛けたら、あんた誰とけんもほろろである。どうも話が通じてないようである。これも面倒になってそそくさと立ち去った。
夜に携帯ガスコンロを返してもらいに行ったら、奥さんがすみませんでしたと言ったがどうでもよかった。それから数日経って私の車で近くの有名な街に観光に行こうという話になって行った憶えがある。
帰りにカーブと呼ばれるワインの酒蔵に寄ったら、その夫婦は料金を取られたという。私とあと2人は払ってはいない。払えと言う人がいなかったからである。
観光から帰って精算の段になると自分たちが払った入場料はみんなの入場料みたいなものだから皆で均等割とか言い出して、これも払って縁を切った。
その数日後に車だけ貸せと言ってきたので丁寧に断った。
イタリア人のグループがクラスの中に出来ていた。何せ数が多いのと良く喋るので目立ってうるさい。良く喋るがめちゃくちゃな文法でおまけにイタリア語混じりである。
スペイン人も似たようなものである。スペイン語をそのままフランス読みしたようなしゃべり方で結構通じている。
その点日本人は圧倒的に不利である。日本人でめちゃくちゃながら良く喋る人に会った事はない。アメリカ人は語彙で似た単語、あるいは全く同じ単語があるが、イントネーションが全く違うからこれも不利であると思う。
それ以上に、外国語となると恥ずかしいというのが先に立ち、なかなか単語が口をついて出ない。この辺はどうやら中学の時の英語教育あたりから尾を引いているような気がしてならない。
あまりにアクセント、イントネーションの違う英語、というより米語を習うに当たってアメリカ人のような発音をすると人にからかわれるとでも思っているのか、いやそれより外国語は考えながら喋って当然で、母国語のようにリンゴを見て「りんご」と口から出るように「apple」と出るような訓練をしているかどうかの違いだと思う。
結局そこで数々の国の学生達と知り合い、別れていった。
多くはフランス語やフランスの文化に興味を持ち、あこがれ、あるいは9月からフランスに滞在するための準備としてこの林間学校に来ていた。
なにも10代20代の若者だけではない。50代60代のドイツ人やその他の国々から来ていた。あれはフランス語の教師だろうか。とにかく老若男女入り乱れてのお祭りであった。
さすが2ヶ月はちと長い。大半はひと月のバカンスを利用してきているため2ヶ月目はほとんどが総入れ替えと言った形である。そうすると人間関係もいちから出直しである。それも少しおっくうになった。
それより東ヨーロッパ大旅行の準備である。車で行くだけであるが、よくよく聞くと、国によりビザのみならず1日滞在あたり10米ドルの支払いが義務づけられている。
今いるのはディジョンであるが、ここには東ヨーロッパの領事館はない。結局は隣国の首都に行くのが1番良い事になった。
行く先々は隣のスイスを皮切りに、オーストリア、チェコスロバキア、ポーランド、東ドイツである。車で何日かかるか何キロ走るか分からないものの今から楽しみである。
実はその前にドイツでワインアカデミーにも参加する事になっている。ポーの同じ長屋に住んでいた日本人に聞いたところでは、日本からは超有名な議員やワイン業者、その他日本では会う事の出来ない人も数多く訪れているという。
こちらは隣国からの申し込みだから、参加費用がたしか10万円そこそこしかかからない。対する日本からの参加者はそれに旅費がかかるし第1、9月に1週間も時間が取れる人は限られている。
そんなわけでディジョンを少し早めに切り上げ、ドイツワインアカデミーの会場に行った。
1週間の間百五十から二百種類のワインを試飲する。
といっても飲み下さない。のどの奥にワインが行ったかと思うとそこで吐き出す。そうしないと酔ってしまうからだ。
講義と共にワインの試飲をそれほど行うのであるが、私がその開会式のセレモニーに着いたのは始まってから皆が思い思いに自己紹介をやっていたときだった。
そこにはなんとディジョンで同じクラスだったベスがいた。アメリカ人女性である。ちょっと可愛い。ベスの愛称はたしかエリザベスだと思う。
彼女を見つけスタスタと行って頬にキスをした。
そこにいた50人からの男達が一斉にこちらを見る。好奇の眼差しである。
私は何ごともなかったかのような顔をしてネームプレートのある自分の席に着いた。
自己紹介の順番が回ってきた。自分が日本人エンジニアでフランス語を勉強していて、フランス語を勉強すると当然ワインにも興味を持つようになる……と言う意味のことを英語で言ったら皆の笑いを買った。そこでつまづいたが和やかな雰囲気となったのでまあいい。まずは好調な滑り出しであった。
デギュスタシオンと言われるワインの試飲会は続く。これほどいろんな種類のドイツワインを飲めるのに、肝心の食事の時のワインはどれも安物でさして旨くなかった。紺屋の白袴(こうやのしろばかま=染物屋の人達は染めてない白い服を着ているという諺)といったところか。
どの地域もライン川流域にあり、それはもう美しい。コブレンツからライン川に沿ってあちこちのカーブ(酒蔵)を回る。ベスとは翌日バスで同席したが私の英語は十分でなく、彼女のフランス語もそうレベルが高くはなかったので話が続かず関係もぎくしゃくしたものとなった。
セミナーの最後には終了式があり修了証書がもらえる。その修了証は長い間大切に持っていたがアルジェリアでなくしてしまった。残念なことだ。そこが終わるといよいよ5千キロの旅が始まる。
ワインアカデミーが終わると意を決してハンドルを取った私は一路スイスへと向かう。スイスの首都ベルンまではおよそ半日の行程である。通常の道路では60km/hと決めている。決して無理をしないし先を急ぐ旅でもない。
スイスの町はどこもそうであるが、美しい。それとアルプスの山々が連なる様は何とも言えない。日本人はそういったものに憧れる。しかしフランス人はスイス人が嫌いである。
極端な個人主義とプライベートバンクに象徴される金融システムである。一見聞こえは良いが世界中の大金持ちがクーデターや暗殺で失脚するとそこに蓄積された数千億から数兆円が全て銀行のものになってしまう。何の苦労もなく莫大な金が蓄えられていくのである。
フランス語でfaire la Suisseと言えば一人で食事をすることを意味する。そんな人々がどうやって出会い、結婚するのか知らないがスイス人にはそういった一面がある。
彼らのフランス語アクセントは独特である。数字の数え方もフランスとはちょっと違い、70,80,90はそれぞれseptante, huitante, nonanteとこちらの方が憶えやすい。
スイスと言えば有名な料理にチーズフォンデュがある。思うに冬の寒いときたいしたおかずがなくて残り物のチーズ数種を白ワインで煮込みパンで掬って食べることがそもそもの始まりだと言う気がする。そんなに言うからどれほど美味しいんだろうと思ったら白ワインに咽せてあまり食べられなかった。
スイスはこれで3度目である。リュッツルンにも行った。確かレマン湖畔の美しい町である。
スイスには長居はしない。物価が高いからでもあるし、とてもレストランに入る気はしない。
気取った町にも思える。それでも日は暮れたし今夜の宿はキャンプ場である。いつもそうだがキャンプ場に車を停め、車の中で寝る。寝袋にくるまる。
翌朝は早々にベルンを発ちオーストリアのウィーンを目指す。ここでの目的はチェコスロバキアのビザを取ることである。




