第9話 使者の方、少し下がっていただけますか
「王都からの使者? 門の外で待たせてます。雨ですけど」
マルタ様が戸口でそう仰いました。
辺境の雨は粒が大きくて、屋根を叩く音が拍子になります。その拍子の向こうに、馬車の輪の軋みが混じっていました。
「お入りいただかなくてよろしいのですか」
「よかないさ。でもね、あの人が敷地に入ると獣が騒ぐよ。……あんたも嗅いだだろ」
嗅ぎました。門の外から、白薔薇と沈丁花です。雨に濡れて、いっそう立ち上がっています。三度重ねた香油の匂いを、わたくしは一度だけ嗅いだことがあります。
「リゼット様の香油です」
「侯爵令嬢が直々に来たのかい」
「いいえ。あの方は雨の日に外へ出られません」
傘の下から現れたのは、侍女の方でした。
王都の広間で、リゼット様の三歩後ろに立っていらした方です。喪服のような濃紺の外套で、裾に泥が一滴もついていません。歩き方でそうしているのだと思います。
「エルナ様。お久しゅうございます」
「ご無沙汰しております」
「まあ。……相変わらず、獣くさくていらっしゃること」
「ええ。むしろ濃くなったと思います」
侍女の方が半歩下がりました。リゼット様と同じ下がり方でした。あの家では、そう習うのかもしれません。
「本日は、リゼット様のお言葉をお伝えに参りました」
「どうぞ」
「リゼット様は現在、王家騎獣厩舎の管理者を務めておいでです」
「そうですか」
「エルナ様がお戻りになりましたら、以前と同じお仕事をしていただきます。藁を替えるお仕事を」
雨が屋根を叩いています。
「以前と同じお給金で、というわけには参りませんが、そこはご容赦を。管理者はリゼット様ですので」
「かしこまりました」
「――お受けになるのですね」
「いいえ。かしこまりました、と申し上げただけです」
侍女の方が眉を寄せました。マルタ様が井戸端で、水を汲む手を止めています。汲む気がないのに桶を上げ下げしているだけなのは、たぶんわたくししか気づいていません。
「エルナ様。あなた様には、ほかに行き場がございますの」
「ここが行き場です」
「小屋ですわ、これは」
「はい。屋根も葺き替えました」
そのとき、雨音に別の音が混ざりました。
地面が鳴るような、低い音です。
侍女の方が顔を上げました。わたくしは上げませんでした。どこから鳴っているかは分かっておりましたので。
小屋の屋根の上に、黒いものが伏せています。
夜を吸って返さない毛並みが、雨で貼りついて、余計に大きく見えました。ノクスは牙を見せていません。口も開けていません。ただ喉の奥だけを鳴らして、その音を、まっすぐ門のほうへ向けています。
「な……なんですの、あれは」
「うちの子です」
「うちの、って……狼ではありませんの、あれ」
「黒狼種です。名はノクスと申します」
侍女の方の手が、胸元へ動きました。首から下げた小袋を、握りしめるように。
わたくしは一歩前に出ました。
「使者の方。少し下がっていただけますか」
「な、無礼な――」
「三歩で結構です。あなたのためです」
「わたくしは王家の――」
「その胸元の袋を、馬車へ置いてきていただけますか。魔除けの香でしょう」
侍女の方が小袋を見下ろしました。
「……これがなんですの」
「よく効きます。獣にはっきり伝わりますから」
「魔獣を寄せつけないための香ですわ」
「寄せつけないのではありません。あれは敵意の匂いです。あなたは今、この仔に向かって、ずっと同じことを言い続けておいでです」
唸りが一段低くなりました。
侍女の方は、三歩下がりました。それから紐を外して、傘を差したまま馬車のほうへ小走りに行って、御者に小袋を押しつけて戻ってこられました。裾に、はじめて泥が跳ねていました。
屋根が鳴りました。
ノクスが、跳んだのです。
荷車ほどの体が、ほとんど音も立てずに地面に降りました。侍女の方が短い悲鳴を上げます。けれどその仔はそちらへは行きませんでした。わたくしと侍女の方のあいだに来て、雨の中に座ったのです。
背中がわたくしの胸の高さにあります。
その仔は侍女の方を見ていません。門を見ていました。座った位置から動かないまま、耳だけをこちらへ倒しています。
「――ちょっと、あんた」
マルタ様が桶を置いて歩いてきました。
「悲鳴はやめときな。走るのもだめだ。走るものは追う、それが獣だよ」
「あなたは」
「ガルド辺境伯領副官、マルタ・レンツ。あんたを門の外で待たせた張本人だ」
「無礼な! わたくしは王都から遣わされた――」
「知ってるさ。だから門の外なんだよ。うちは魔獣預かり屋でね、外のほうが安全なんだ」
「これは王家の意向です!」
「王家の使者様がうちの狼に食われたら、閣下の首が飛ぶ。あたしは閣下の首が気に入っててね」
侍女の方が口を開けて、閉じました。
「……返事を、伺いに参りましたの」
「返事? 明日出るよ」
「今、伺いたいのですが」
「うちの閣下は三日に一度しか言葉を発しませんので。今日はもう使い切りました」
「わたくしが伺っているのはエルナ様に――」
「預かり屋さんは今、狼と話してる。順番を守っとくれ」
わたくしは狼と話してはおりません。ただ、訂正すると話が長くなりそうでしたので黙っておりました。
侍女の方は馬車に乗る前に、一度だけ振り返りました。
「エルナ様」
「はい」
「……リゼット様は、毎朝、厩舎へ足をお運びです」
わたくしは顔を上げました。
「中には」
「お入りになれません。馬房の外から、ご覧になっているだけですわ」
「鞍は」
「一頭も受けません。リゼット様が近づかれますと、みな壁のほうを向いてしまいますの」
雨が、傘の上で跳ねています。
「香油を落としてから、お入りになるとよろしいかと」
「そのような」
「花の香りは、あの仔たちにとっては人の匂いを隠す布のようなものです。誰が来たのか分からない相手に、背中は預けません」
侍女の方はしばらく黙っておられました。それから、笑おうとして失敗したような顔をなさいました。
「リゼット様が、香油をお落としになるとお思いですの」
「思いません」
「……ではなぜ、申し上げますの」
「訊かれましたので」
馬車の扉が閉まりました。輪が軋んで、泥を撥ねて、門の向こうへ遠ざかっていきます。
ノクスは座ったまま、その音が聞こえなくなるまで動きませんでした。
わたくしは隣にしゃがみました。手は伸ばしません。伸ばすと、この仔は屋根へ戻ってしまいますので。
それでも、その仔は立ち上がりました。柵の杭を蹴って、一度で屋根の上へ跳び上がります。いつもの場所です。
いつもより、軒の端ではありませんでした。ちょうど、わたくしが立っているあたりの真上でした。
「姉さん」
傘を差したティムが、小屋の陰から出てきます。
「明日、なんてお返事するんですか」
「本当のことを」
お読みいただきありがとうございます。
マルタが門の外で使者を待たせたのは意地悪ではなく、いちばん誰も怪我をしない配置です。この人は口が悪いだけで、判断はいつも正しい。ちなみに屋根に上がる高さを一度で跳ぶ狼を、この領の人々はもう誰も驚かなくなりました。
次回、エルナは正式に返答します。王都へは、戻りません。




