第8話 戻ってこいと書いてありました
封書は、開ける前から王都のものだと分かりました。
蜜蝋に龍涎香を混ぜてあるのです。王家の印璽に使う蝋で、十年のあいだ厩舎に回ってきた書類はどれもこの匂いをさせていました。
「預かり屋さん。朝っぱらから突っ立って、何してんだい」
マルタ様が井戸端から声を投げてきます。辺境伯の副官で、閣下の代わりに全部喋る係の方です。
「匂いを嗅いでおりました」
「封も切らずにかい」
「切らなくても分かりますので」
「……あんた、そのうち手紙を読まずに返事を書くようになるよ」
昨日、村の方に責められたばかりです。今朝は誰も来ないだろうと思っておりました。マルタ様は来ました。桶を二つ提げて、何も言わずに水を汲んでいかれます。この方はそういう来かたをなさいます。
小屋の裏からティムが顔を出しました。十四歳の助手で、獣が怖いという一点を除けば申し分なく働きます。
「姉さん、それ、王都からですか」
「ええ。読んでいただけますか」
「え、僕がですか」
「わたくしが読むと、たぶん途中で藁を替えに行ってしまいますので」
ティムは封を切って、それから声に出して読みました。
「……エルナ・ウィスタリアへ。王家騎獣厩舎の管理に関し、至急、王都へ帰還されたし。三日以内に発つこと。宿および手当は当方にて用意する。ジェラルド」
「以上かい」
マルタ様が首を伸ばします。
「以上です」
「詫びが一行もないね」
「ありませんね」
「あんた、公衆の面前で獣臭いって言われて追い出されたんだろ。詫びの一行も添えずに戻れって書くのは、あれだ。度胸だね」
ティムが紙を裏返しました。裏には何も書かれていません。ただ、表のいちばん下に一行だけ、筆跡の違うものがありました。
「あの、下に小さく……『シグルが飼い葉を食べない』って」
わたくしは藁束を持ち上げる手を、止めました。
シグルというのは、殿下の騎獣です。栗毛の、大きな仔でした。
「知り合いかい」
「十年、見ておりました」
「その一行だけ字が違うって、ティムは言ったね」
「殿下のご自筆です」
マルタ様が口の端を上げました。笑ったわけではないと思います。
「書記に書かせられなかったんだ」
「そういうことになりますね」
わたくしは封書を畳んで、作業台の隅に置きました。それから藁を運びました。運ばないと今日の分の寝床が仕上がりませんので。
「姉さん、三日以内って、急ぎすぎじゃないですか」
「急いでいらっしゃるのだと思います」
「王都で何が起きてるんですか」
「たぶん、鞍が載らないのです」
ティムが手を止めました。マルタ様も止まりました。二人とも同じ顔をしていたので、順を追ってご説明することにしました。
「厩舎の匂いは、一晩で全部つながります。夕方に一頭が興奮すると、その匂いが十四頭に回るのです。回った翌朝は、どの仔も鞍を嫌がります」
「はあ」
「二日目は、前の日より悪くなります。三日目はもっと悪くなります」
「……四日目は」
「四日目には、誰も乗れません」
ティムが喉を鳴らしました。
「じゃあ、いま王都は」
「わたくしが出てから、十日ほど経っております」
マルタ様が声を上げて笑いました。井戸の縁を叩きながら、しばらく笑っておいででした。
「あんた、それ、いままで聞いた中でいちばん品のいい悪口だよ」
「悪口ではありません。順番の話です」
「順番の話で王都が止まるんだから、あんたのほうがよっぽど恐ろしいさ」
昼を過ぎて、レオンハルト様が馬でいらっしゃいました。
レオンハルト・ガルド辺境伯。討伐から戻られた足のようで、外套の裾が乾いた泥で重くなっています。その方は柵の前で馬を降りて、作業台の封書を見ました。見ただけで、手には取りませんでした。
「戻るのか」
「手当が出るそうです」
「金なら払っている」
それだけ仰って、桶の水を飲んで、また馬に乗って帰っていかれました。
残されたわたくしは、藁を三束、余計に運びました。
「……マルタ様」
「言わないでおくれ。あたしも聞かなかったことにするから」
「はい」
「うちの閣下はね、言いたいことを四語目に置かない人なんだ。……今日の分は、いまので終いだよ」
屋根の上で、黒いものが身じろぎしました。
ノクスです。牙の処置をしてから、この仔は毎日そこにいます。柵の中にも小屋の中にも入りません。呼んでも降りてきません。ただ、わたくしが動くと、屋根の上でその分だけ位置を変えます。
「姉さん。ノクスって、なんでいつも屋根なんでしょう」
「そこが好きなのだと思います」
本当は少し違います。あの位置は風上なのです。屋根の上から、この仔の匂いはわたくしのほうへ流れてきません。けれど、それを口に出すのはやめておきました。
封書の返事は、夕方まで書きませんでした。
書かなかったのではなく、書きかけて置いたのです。硯を出して、紙を広げて、一行目でつかえました。
わたくしが厩舎に戻れば、シグルは飼い葉を食べます。それは確かです。
けれど、戻ったところで、次にわたくしが出ていく日にまた同じことが起きます。十年やって分かったことがひとつあります。わたくしがいないと回らない厩舎は、良い厩舎ではないのです。
それに、ここには預かっている仔がおります。
柵の中の一頭は寝床を替えて三日目です。替えた寝床に慣れるまでには十日かかります。屋根の上の一頭は、まだ小屋に入りません。わたくしが三日いなくなれば、どちらも一からやり直しになります。
王都には十四頭おります。ここにはその何分の一もおりません。数で決めるのなら王都です。
わたくしは数で決めたことが、一度もありません。
「姉さん、返事、書けました?」
「いいえ」
「なんて書くか、決めてないんですか」
「決めております。書き方を決めていないだけです」
その言い訳をしているところへ、街道のほうから蹄の音がしました。
早馬です。門の外でマルタ様が誰かとやり取りして、それから戻ってきました。顔つきが少しだけ変わっています。
「預かり屋さん。使者だ」
「明日、お着きになりますか」
「いいや。もう領境を越えてる。今夜には門の前だよ」
わたくしは筆を置きました。
「……封書と同じ日に、王都を出たのですね」
「同じ日どころか、先に出てるね」
マルタ様は井戸の縁に腰を下ろして、脚を組みました。
「返事を待つ気がないんだよ、あちらさんは」
わたくしは書きかけの紙を裏返して、硯に蓋をしました。
今夜のうちに藁を干し直さなければなりません。門の前で夜を明かす方が出るのなら、馬を繋ぐ場所も要ります。
筆を置いたのは、書けなかったからではありません。会って申し上げればよい話になったからです。
お読みいただきありがとうございます。
召還状の最後の一行だけ筆跡が違う、というのはこの話の仕掛けです。書記に書かせられない一行というものが、人にはあるのだと思います。もっとも、書かれた側は藁を運びながら聞いておりますが。
次回、王都からの使者が門の外に立ちます。雨です。そして屋根の上には、荷車ほどの大きさの黒いものがおります。




