第7話 あなたが謝ることでは、ありません
目が覚めたとき、井戸端に座ったままでした。
空が白んでいます。膝の上に亜麻布が置かれていて、それをかけてくれたのがティムなのかノクスなのか――前者だと思いますけれど――とにかく、わたくしは眠っておりました。
夜通し見ていると、爺様にお約束したのに。
厩を覗くと、藁の上にダンの寝あとだけが残っておりました。
南の壁板は、風を通すために外したままです。大きな仔が一頭、そこから出ていくには十分な幅でした。
村に着いたときには、もう人が集まっておりました。
東の畑の垣根が二十歩ぶんほど倒れています。麦は踏まれて、太い蹄の跡が畝を横切っていました。
その真ん中で、若い男の方が腕を押さえて座っています。
「怪我は」
「骨はいってない」
隣にいた年配の女の方が答えました。この村で薬を扱っている方だそうです。
「打ったのと、擦り剥いたのだけ。三日もすりゃ動く」
「よかった」
「よくないよ」
別の声が飛んできました。
「うちの麦だ。半分だ」
「はい」
「あんた、預かり屋だろう。あの灰色を預かってたのは、あんただろう」
「はい。わたくしです」
わたくしは頭を下げました。
「厩の南の壁を、風を通すために外しました。夜のうちに戻すつもりでした。それから、夜通し見ていると申し上げておきながら、眠りました。両方ともわたくしの落ち度です」
言い訳が出てこないというのは、こういうときのことなのだと思いました。
人が増えます。麦の持ち主だけではありません。街のほうから来た方もいて、その中の一人が言いました。
「だから言ったんだ。魔獣を街のそばに集めるなって」
「あれは魔獣じゃない、ただの荷役だ」
「同じだよ。斬らずに置いとくってのが同じだ」
ティムがわたくしの前に出ようとしました。口を開けて、けれど声が出ていません。わたくしはその肩に手を置いて、下がらせました。
「弁償はいたします。麦も垣根も」
「金の話じゃない」
声が一段低くなりました。
「次に踏まれるのが人だったら、あんた、どうやって弁償する」
答えられませんでした。
そのとき、街道のほうから馬の足音が来ました。
二頭です。マルタ様と、それから黒い外套。
レオンハルト様は馬を下りて、まっすぐ人の輪へ入ってこられました。それから、わたくしの半歩前に立ちました。
「下がれ。この人は、俺が呼んだ」
輪がざわつきます。
「閣下、しかし――」
「マルタ」
「はい。読みます」
マルタ様が懐から紙を出して、広げました。
「四行目。『甲は、乙の預かる獣の生じた損害について、その責を負う』。甲というのは辺境伯本人のことね。閣下の直筆です。私が書かされました」
「垣根と麦は領が持つ」レオンハルト様が仰いました。「ゲルト。腕は医者に見せろ。銭は俺に回せ。ハンナ、あんたの畝も見た。二枚ぶんだな」
名前を呼ばれた方が、それぞれ帽子を握りなおしました。
この方は、領民の名前を全部ご存じなのだそうです。マルタ様がいつだったか、そう仰っていました。三語しか喋らない人が、なぜ全員の名前を覚えているのか。
輪の後ろのほうから、声がしました。
「……閣下は、昔もそうだった」
マルタ様が、声のしたほうへ首を回しました。
「一頭、見逃したことがあったでしょう。囲んでおいて、剣を下ろした。その次の月に、二人死んだ」
誰も、その方を止めませんでした。
「忘れたわけじゃないでしょうね」
わたくしは前に出ようとしました。
黒い外套の腕が、それを止めました。上げた手のひらだけで、わたくしを後ろへ戻します。
「忘れていない」
レオンハルト様は、そう仰いました。
「一日も」
それきりでした。三語でも四語でもない、ただの三文字の返事です。輪の後ろの方は、それ以上は何も仰いませんでした。
輪が割れたのは、爺様が走ってきたからです。
あの年で、あんなに速く走れるものなのですね。
「おった! うちの畑だ、ダンはうちの畑におる!」
東の斜面を上がった先に、使われていない畑がありました。石を積んだだけの畦と、崩れかけた小屋。爺様が去年まで麦を作っていた場所だそうです。
灰色の大きな仔が、その真ん中に立っていました。
夜のあいだに歩いてきたのでしょう。膝は震えていますし、脇腹は上下しています。それでも、耳は前を向いていました。
「爺様。三日ほど、小屋へいらっしゃいませんでしたね」
「……熱を出して寝込んどった」
「そうですか」
わたくしは、ダンの鼻先の匂いを取りました。
土と、朝露と、古い荷縄。畑の匂いと、それから人の匂い。爺様の匂いです。この畑の石と土に、何十年も染みついたもの。
「この仔は、逃げたのではありません。迎えが来ないので、探しに出たのだと思います」
「わしをか」
「たぶん、この場所であなたを待っていたのだと思います」
爺様が畦を上がっていきました。ダンが首を下げて、その胸のあたりに鼻を押し当てます。爺様はよろけて、それから両手で灰色の顔を抱えました。
村の方々は、まだ何も仰いませんでした。ただ、麦の話をする方は誰もいなくなりました。
人が散ったあと、垣根の前に二人だけ残りました。
わたくしと、レオンハルト様です。マルタ様は「石でも数えてます」と言って離れていかれました。
「あなたが謝ることでは、ありません」
わたくしは申し上げました。
「壁を外したのはわたくしです。眠ったのもわたくしです。四行目は、わたくしが書かせたようなものですし」
「領で起きたことは、領主の責だ」
「それは、少し便利すぎる考え方ではありませんか」
その方が、こちらを見ました。
「……便利」
「そうやって全部ご自分に付け替えていたら、いつか帳面が合わなくなります。わたくしの落ち度は、わたくしの側に付けてください」
レオンハルト様は倒れた垣根の杭を一本拾って、土に挿し直されました。それから、こちらを見ずに仰いました。
「昔、一頭逃がした」
「伺いました」
「……あれは、情ではない」
「では、何だったのですか」
その方は答えませんでした。杭をもう一本拾って、また挿します。
わたくしも、それ以上は伺いませんでした。匂いと同じで、無理に取ろうとすると層が崩れます。
斜面の上で草が揺れました。黒いものが、垣根からずいぶん離れた岩の上に伏せています。近づいてはきません。今日は人が多すぎるのです。
街道のほうから、マルタ様が戻ってきました。
石を数えていたにしては、ずいぶん急いだ足取りです。手には何か白いものを持っていました。
「閣下。預かり屋さん」
「どうしました」
「王都から早馬だ。封書」
マルタ様がそれを裏返して、蝋の封を見せました。赤い蝋に、紋が押してあります。
王家の紋でした。
「宛名がね」
マルタ様は、めずらしく笑っていませんでした。
「――エルナ・ウィスタリア様、だよ」
お読みいただきありがとうございます。
これで第1章「獣臭い令嬢、辺境へ」は終わりです。ここまでの七話でエルナがやったことは、香を外させ、鞍を洗わせ、藁を三倍にしただけでした。それだけで獣は変わる、というのがこの物語の言い分です。人間のほうは、もう少し時間がかかります。
第2章「戻れと言われても」は、あの封書の中身から始まります。預かり屋には空きがございますので、柵の外からで構いません。ブックマークという名の柵に、よろしければ肘をついていってください。ノクスは今夜も屋根の上です。




