第6話 寝床を替えただけです
二人目のお客様は、村の爺様でした。
連れてこられたのは荷役獣でした。灰色の、荷車二台分はある大きな仔です。名はダンというそうです。
「もう二十二だ」
爺様は綱を握ったままそう仰いました。
「わしの親父の代から働いとる。畑も材木も、この背中で運んだ。……それがここひと月、気が立って誰にも触らせん」
「どなたにも、ですか」
「わしにもだ」
ダンは厩の入口で立ち止まって、動きませんでした。目は落ち着いています。牙も角もない仔ですし、耳も伏せていません。ただ、脚だけがずっと小刻みに揺れておりました。
「爺様。この仔に触らずに、少しだけ近くへ寄ってもよろしいですか」
「気をつけろ。押されるぞ」
「押されないようにいたします」
まず、腰のあたりから匂いを取りました。
灰色の毛には埃と、日向と、荷縄の匂いが染みています。健康な荷役獣の匂いです。それから膝へ下りました。
熱があります。両方の前膝と、後ろの飛節にも。炎症の匂いです。膿んではおりません。使いすぎた関節が、休めずに熱を持ったときの匂い。
わたくしは脇腹に鼻を寄せました。
そこで、手が止まりました。
――藁の匂いが、しない。
横になる獣は、必ず脇腹に寝床の匂いをつけます。藁でも土でも、寝た側にはその匂いが移る。ダンの脇腹には、どちらにも何も付いておりませんでした。付いているのは、立ったまま乾いた汗の匂いだけです。
「爺様。この仔、いつから横になっておりませんか」
爺様の口が、半分開いたまま止まりました。
「……なんで、それを」
「匂いです」
「三月前だ」
爺様は綱を握りなおしました。
「雨の日に、ぬかるみで転んでな。年寄りだから、自分じゃ起き上がれん。村の衆に来てもらって、縄をかけて、みんなで引っぱり上げた。……そのときは、助かったと思ったんだが」
「その日から、横にならなくなったのですね」
「そうだ。立ったまま寝とる。三月だ。獣ってのは、そんなことができるのか」
「できます。できますが、続きません」
わたくしは膝の熱をもう一度確かめてから帳面を出しました。
十年分の頁を後ろから繰ります。
冬。荷役。老齢。似た匂いの記述を探して六年前の頁で指が止まりました。
『十二歳荷役。膝に熱。脇腹に寝床の匂い無し。夜通し立っている。藁を三倍。壁際に土を盛り、傾ける。四日目、横になった』
我ながら、ひどい字です。当時は誰にも見せる気がありませんでしたので。
「爺様。この仔は、痛くて気が立っているのでも、あなたを嫌っているのでもありません」
「じゃあ、なんだ」
「眠っていないだけです」
爺様は、綱を持った手を下ろしました。
「三月、眠っておりません。横になれば眠れますが、横になると起き上がれない。起き上がれないと、また縄をかけられる。この仔にとって怖いのは転ぶことではなくて、そのあとなのです」
「……縄は、助けるためだ」
「はい。助かりました。ですから今も生きております」
わたくしは頭を下げました。
「ただ、この仔にはそう説明できませんので。寝床のほうを直します」
その日は、ずっと厩にかかりきりでした。
まず床の藁を全部出して、新しいものを三倍の厚さに敷きます。膝が沈むくらいまで。ティムに水を運ばせ、土をこねて壁際に細長く盛り上げました。ゆるい傾斜をつけて、背中を預けられるようにします。
それから蹄です。縁が伸びて丸くなっていましたので、鑢で削って地面を掴めるようにしました。ダンは削るあいだじっと立っておりました。この作業のときだけは触らせてくれるのです。たぶん、蹄には神経が通っていないからだと思います。
最後に、風の向きを見ました。
厩の南の壁を空けて、北を塞ぎます。夜の風はこちらから来ますので、匂いが抜ける側に頭を置かせる。
「爺様。ひとつ、お約束をいただけますか」
「なんだ」
「この仔が横になったあと、起き上がるのに手間取っても、絶対に手を出さないでください」
「転んだままだったら、どうする」
「見ています。夜通し」
爺様は何か言いかけて、やめました。
ダンは、なかなか横になりませんでした。
日が落ちても立ったままです。厚い藁の上で脚だけを何度も踏み替えている。ティムは柵の外にしゃがんで、あくびをしながら付き合ってくれました。爺様は入口の柱にもたれて動きません。
二度、膝を曲げかけてやめました。
三度目のとき、風向きが変わりました。
ダンの鼻がゆっくり動いて新しい藁の匂いを取ります。それから前膝が折れて、胸が藁に沈んで、そのまま体がゆっくりと壁の傾斜へ傾いて、灰色の大きな背中が、土の盛り上がりにぴたりと収まりました。
しばらく、そのままでした。
それから、後ろ脚が伸びました。
前脚も伸びました。荷車を二台分引いてきた四本の脚が、そのぜんぶを、藁の上に投げ出したのです。
深い息が、一度だけ厩の中を渡っていきました。
爺様が柱から離れて二歩来て、そこで座り込みました。
「……こいつ、こんなに大きかったか」
「立っているときは、縮んでおりましたから」
爺様は返事をしませんでした。袖で顔を拭いていらっしゃったので、こちらも見ないふりをいたしました。
ティムが、柵の内側へ一歩だけ入ってきました。
「姉さん。これ、何したの」
「寝床を替えただけです」
「それだけ?」
「それだけです」
外に出ると、もう夜でした。
わたくしは井戸端に座って指についた土を洗いました。腰が痛みますし、耳の奥ではいつもの細い音が鳴っています。今日は少し嗅ぎすぎました。
草を踏む音がしました。
振り向く前に、鼻先が、わたくしの手の甲を押しました。
一度だけです。ぐいと押して、それだけ。ノクスは柵の内側まで来ておりました。この三日、街道の向こうから動かなかった仔が。
「……牙、痛くありませんか」
黒い鼻がもう一度だけ手の甲に触れて、それから離れました。
厩を閉めて戻ろうとしたら、ティムが上を指しました。
「姉さん」
「はい」
「上」
小屋の屋根の、いちばん高いところ。直したばかりの梁の上に、黒いものが伏せていました。星を背にしているので、輪郭だけが見えます。
「……なんであんなとこにいるの」
「さあ」
「落ちない?」
「落ちないと思います」
ティムが帰ったあと、街道のほうから馬の足音がしました。
レオンハルト様が、馬を降りずに柵の前で止まられました。手綱を握ったまま、厩の中を見ています。ダンが横になって眠っているのが、ここからでも見えました。
「……寝ているのか」
「はい。三月ぶりだそうです」
その方は、しばらく黙っておられました。
「あれは、俺なら斬っていた」
「はい」
「動かない個体は、いずれ暴れる。そう教わった」
「動かないのではなく、動けなかったのです。痛くて」
レオンハルト様は何も仰いませんでした。ただ、手綱を握り直して、それから、屋根の上へ目を向けられました。黒いものが乗っているのが見えたのだと思います。
「増えたな」
「勝手に来ました」
「……そうか」
馬首を返して、去っていかれました。
わたくしは屋根を見上げたまま、しばらく立っておりました。
修理したばかりの屋根です。あの重さで毎晩あそこに乗られると、たぶん、そう長くはもちません。
修理代を請求すべきかどうかは、まだ決めかねております。
お読みいただきありがとうございます。
今回は世界観の豆知識をひとつ。馬も牛も、実は立ったまま浅く眠れます。ただし本当に深く眠るには横にならなければならず、老いて起き上がれない子は「眠らない」という選択をしてしまうことがあります。ダンの三月は、そういう三月でした。魔獣もこの点は同じ、という設定でこの作品は動いております。
次回、預かり屋にとって初めての失敗が起きます。夜のうちに、厩から一頭いなくなります。




