第5話 王都の騎獣が、一頭残らず言うことを聞かなくなったそうです
記念すべき最初のお客様は、ヨナスと名乗られました。十九歳。ガルド辺境隊の一番若い騎士様だそうです。
騎獣のほうはラウという名でした。栗毛の若い雄です。脚は太く、毛艶もよく、目が澄んでいます。
「三週間、乗せてくれないんだ」
「一度も、ですか」
「近づくと横を向く。鞍を置こうとすると下がる。餌はおれの手から食う。食うくせに、乗せない」
「なるほど」
「隊のみんなには、なめられてるって言われた」
ヨナス様の声が少しだけ小さくなりました。
「そうかもしれない。おれ、まだ何もできないし」
「ちょっと失礼します」
わたくしはラウの首元へ手を添えて目を閉じました。
匂いの層は、いつも上から順にほどきます。
いちばん上は街道の埃です。その下に鉄。隊服に染みた金気と、砥石の粉の匂い。さらに下に人の汗と、革。
ラウ自身の匂いは、その全部の下にありました。
健やかです。腹も背も熱を持っていませんし、蹄からも湿った藁の匂いはしません。痛みの匂いはどこにもありませんでした。
わたくしはラウの首から手を離し、今度は鞍のほうへ寄りました。
革に鼻を近づけます。
――ああ。
「ヨナス様。この鞍は、ご自分でお求めになったものですか」
「え? いや、隊の備品だ。おれの前は、隊長補佐の人が使ってた。南に移ったから、譲り受けて」
「その方は、何年ほどお使いでしたか」
「三年か、四年」
「では、そのくらい染みておりますね」
わたくしは鞍から離れて、ヨナス様の手をお借りしました。掌を返して匂いを取ります。剣の油です。それと砥石の粉。手綱に移った鉄気が、革の上でうっすら層になっている。
「ラウは、あなたを嫌ってはおりません」
「でも」
「鞍の上に、まだ別の方が乗っているのです」
ヨナス様が、間の抜けた顔でわたくしを見ました。
「この仔にとって、その鞍は三年間ずっと隊長補佐様のものでした。匂いが染みておりますので。そこへ鉄の匂いをさせた別の方が上がってこようとする。獣にしてみれば、順番がめちゃくちゃなのです」
「じゃあ……どうすれば」
「洗います」
「洗う」
「鞍と腹帯を外して洗って、日に干してください。それから、あなたの手も。灰を使って、油と鉄気を落とします」
ヨナス様はしばらく黙ってから小さく言いました。
「それだけ?」
「もうひとつ。干しているあいだ、この仔に何もしないでください」
「何も?」
「触らない。呼ばない。柵の内側に入って、背を向けて座っていてください。半日です」
半日というのは、こちらにも都合のいい長さでした。
わたくしは水桶と細い鉗子と亜麻布を用意して、柵の北の切れ目のところへ行きました。街道を挟んだ石積みの上から、黒いものが下りてきます。
ノクスの牙は、抜き時になっておりました。腫れの匂いが引いて、鈍く重いものが薄い金気に変わっている。今日を逃すと、また熱を持ちます。
「口を開けていただけますか」
ノクスは柵の外に立ったままでした。わたくしは内側にいます。境目に頭だけを預けるようにして、それから顎の力が抜けました。
折れた牙の根は、思ったより浅く倒れていました。歯茎の縁を布で押さえ、断面を挟んで、まっすぐ引きます。
こつん、と外れました。
血はほとんど出ませんでした。わたくしは水で口をすすがせてから、抜いたものを掌に載せて見せました。
「これが、ずっと刺さっておりました。もう痛くありません」
ノクスは一歩下がりました。それだけです。首を伸ばしもせず、身を寄せもせず、街道を渡って石積みの上へ戻っていきます。
柵の隅で、ティムが息を止めたまま立っていました。
「……姉さん、いま、噛まれてもおかしくなかった」
「噛まれませんでした」
「噛まれてから言っても遅いんだよ」
この子は、たまに大人より正しいことを言います。
昼を過ぎた頃、マルタ様が街から上がってきました。
「預かり屋さん。王都の話、聞いたかい」
「いいえ」
「商隊が持ってきたんだけどね。おもしろいよ」
マルタ様は柵に腰かけて指を折りはじめました。
「まず、春の行進が中止。理由が、騎獣が動かないから」
「まあ」
「それから、厩番が三人替わった。ひと月で三人。侍従長も責を負って引いたそうだ」
「そうですか」
「極めつけがね。王太子殿下の騎獣が、行進のど真ん中で足を止めたんだと。無理に歩かせようとしたけど、まわりが止めた。それで蹄鉄を外してみたら――中から石が出てきたって」
わたくしは手を止めました。
「……よかった」
「よかった?」
「石が出たのなら、あの仔はまた歩けます」
マルタ様が、なんとも言えない顔でわたくしを見ました。
「あんた、そっち?」
「はい」
「王都じゃ大騒ぎだよ。王家の騎獣が一頭残らず言うことを聞かなくなったって。とうとう人を呼んだそうだ。魔獣管理局長。ボルグ・ハイデンとかいう男」
「あら、そうですか」
「反応が薄いね」
「王都は遠うございますので」
わたくしは水桶を洗いました。マルタ様は柵の上で足を揺らしています。
「妙なのはさ。崩れ出したのがちょうどひと月前からで、誰が辞めたわけでもないって王都の連中は言ってるらしい」
藁を運んでいたティムが、顔を上げました。
「姉さん、ひと月前まで王都にいたんじゃないの?」
「おりました」
「なんかしてた?」
「厩の掃除を」
ティムは「ふうん」と言って、藁の続きを運びに行きました。マルタ様だけが、少し長くこちらを見ておられました。
日が傾く頃、鞍が乾きました。
ヨナス様は言われたとおり、半日ずっと柵の内側で背を向けて座っていらっしゃいました。手は灰で二度洗い、剣は柵の外へ置いて。
立ち上がったとき、その方は少しふらついていました。
「……あの、これ、もう乗っていいのか」
「乗ろうとなさらないでください。まず、立っていてください」
ラウが、こちらを見ました。それから首を下げ、匂いを取りながら三歩近づきます。
ヨナス様は動きませんでした。よく我慢なさったと思います。
鼻先が、その方の肩に触れました。
それから首の横を、ぐいと押します。押された勢いでヨナス様がよろけて、慌てて踏ん張って、それでも押されて尻もちをつきました。
「うわっ、おい、待て、待てって」
ラウは待ちませんでした。倒れたヨナス様の頭のあたりを、鼻でしつこく確かめています。
ティムが笑い出しました。マルタ様はもっと大きな声で笑っていました。
わたくしは帳面を開いて、その日の頁に書きました。
『栗毛・雄・四歳。ラウ。誤解の元は鞍。処置=洗って半日。人の側、鉄気の落とし方を要伝達』
書き終えて顔を上げると、柵の外に人が立っていました。
レオンハルト様です。いつからそこにおられたのか分かりません。この方は足音がしないのです。
「王都の話は」
「伺いました」
「そうか」
それだけ言って、帰られるのかと思いました。けれど、その方は柵に手をかけたまま動きません。
「気にならんのか」
「なりません」
「十年いた場所だろう」
わたくしは少し考えて、それから、正直に申し上げました。
「気になっているのは、シグルの脚だけです。人のほうは、ひとつも」
レオンハルト様が、こちらを見ました。表情は動きません。ただ、いつもより長く見ておられました。
「……そうか」
二語でした。
その方が去ってから気づいたのですが、柵の掛け金が直っておりました。昨日から立て付けが悪かったところです。何も仰らずに直して、何も仰らずに帰られたようでした。
書き足しておきます。『掛け金、修理済み。誰かは不明』
ノクスは伏せたまま、街道の北のほうへ耳を向けています。
北は、王都の方角です。
「……あちらの音が、聞こえるのですか」
黒い耳が、一度だけ動きました。
お読みいただきありがとうございます。
この作品でいちばん地味な小道具、匂いの記録帳がついに使われはじめました。作者としては、この帳面が後々どういう働きをするかを知っているので、書きながらにやにやしております。
ちなみにエルナは、王都の凶報を聞いても人の心配は一切しません。石が出てよかった、で終わりです。この人の優先順位は最初から最後まで変わりません。
次回、預かり屋に老いた荷役獣が来ます。誰にも触らせず、三月ものあいだ横になっていないという仔です。




