第4話 雇われました。ただし、獣の言い分を聞く条件で
翌朝いちばんに領主館へ呼ばれました。
通されたのは執務室です。机の上に紙が一枚だけ置いてありました。マルタ様がそれを摘まみ上げて、読み上げます。
「契約書。甲、ガルド辺境伯レオンハルト・ガルド。乙、エルナ・ウィスタリア。乙は甲の領内において魔獣の預かりならびに診立てを行う。甲は乙に月ごとの手当を払う。以上」
「以上ですか」
「以上だよ。閣下がお書きになった。昨夜、蝋燭を三本使って」
「三行にですか」
「三行にね」
窓辺のレオンハルト様は、こちらを見もしませんでした。
わたくしは紙を受け取って、もう一度自分で読みました。三行です。たしかに三行しかありません。
「ひとつ伺ってもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
「わたくしが預かった獣が、誰かを傷つけたとき。責めはどちらが負いますか」
マルタ様の眉が上がりました。
「……あんた、そこを先に訊くのかい」
「先に決めておかないと、後で獣が悪者になりますので」
マルタ様がペンを置いて、窓辺のほうを振り返りました。
「閣下。どうします」
「俺だ」
「閣下、それ書いてませんけど」
「書け」
マルタ様は肩をすくめて、机からペンを取りました。ペン先が紙を擦る音がして、四行目が増えます。
「では、こちらからも条件をひとつ、よろしいでしょうか」
「言ってみろ」
「鐘が鳴ったとき、討伐隊より先に、わたくしを呼んでいただきたいのです」
レオンハルト様が、初めてこちらを向かれました。
「先に」
「はい。五分でかまいません。その五分で、斬らずに済むかどうかを見ます。済まないと分かったら、そう申し上げます。そのときは、どうぞ斬ってください」
「……済まないときもあると」
「あります。病んだ個体は、匂いで分かります。そのときはわたくしが下がります」
嘘は言いませんでした。獣に関しては、嘘をつくと後で獣が困ります。
「危険だ」
「はい」
「危険だと言っている」
「四語です、閣下」
マルタ様が指を四本立てました。レオンハルト様は無視なさいました。
「囲んでから五分をいただくのは、無理なのです」わたくしは申し上げました。「囲まれた獣には、もう選択肢がありませんので。あの黒狼のときは、たまたま間に合っただけです」
窓辺の方は、しばらく黙っておられました。それからつかつかと机まで来て、ペンを取って、五行目を書き足されます。
マルタ様が横から覗き込みました。
「えー、『乙の五分を認める。ただし甲が危険と判断した場合、甲はこれを中断させる』……閣下。後半、いります?」
「いる」
「これ、条件じゃなくて心配って言うんですよ」
「マルタ」
「はい、退散します」
わたくしはペンをお借りして、自分の名を書きました。
書類に自分の名を書くのはずいぶん久しぶりでした。厩舎の仕事は、記録に残らない仕事でしたので。
「もうひとつ教えていただけますか」
「どうぞ」
「討伐隊の規則に、獣に情を持つ者は入れないというものがあると伺いました」
マルタ様の顔から、めずらしく笑いが抜けました。
「よく覚えてたね」
「わたくしは隊ではありませんので、そこは構わないのでしょうか」
「構わないよ」
マルタ様は契約書を指の背で叩きました。
「その規則を足したのは閣下でね。足した年のことは誰も訊かない。訊いたやつは全員あの三語で追い払われた」
窓辺の方には聞こえているはずでした。それでも振り向きはなさいません。
乾かすあいだ、レオンハルト様が革の袋を机に置かれました。中身の音で、だいたいの見当がつきます。
「屋根を直せ」
「あの、まだ何もしておりませんが」
「先に払う。獣は待たん」
三語ではありませんでした。今日は、どうやら勘定を間違えていらっしゃるようです。
小屋に戻って、ティムに袋を見せました。
「雇われました」
「え、ほんとに? あの閣下が?」
「屋根も直していいそうです」
ティムは袋を両手で持ってしばらく重さを確かめていました。それから急に真顔になります。
「じゃあ、おれもちゃんと雇われてる?」
「日当を払っておりますでしょう」
「うん。でも、ちゃんとって」
「では、明日から助手ということで」
ティムは口を開けて、それから照れ隠しに柵を蹴りました。子どもの蹴り方です。
その柵の向こうへ、わたくしは目をやりました。新しい藁、水桶、繋ぎ縄。獣を入れる支度だけが整っている、獣のいない厩。
「ティム。ひとつ伺ってもよろしいですか」
「なに」
「あなた、獣はお嫌いですか」
ティムの足が止まりました。
「……嫌いじゃない」
「そうですか」
「嫌いじゃないんだけどさ。近くで鳴るのが、だめなんだ」
「鳴る」
「なんでもない。屋根、直すんでしょ。梯子取ってくる」
背中がもう向いていましたので、それ以上は伺いませんでした。訊かれたくないことは、匂いと同じで、そのうち勝手に出てきます。
夕方、丘の上に黒いものが見えました。
小屋から街道を挟んだ向かいに、崩れた石積みがあります。昔の見張り台の跡だそうです。ノクスは三日前からそこにおりました。
わたくしは肉を柵の外の平たい石に置いて、小屋のほうへ十歩戻ります。振り返らずに、さらに十歩。
背後で草が鳴りました。
振り向くと、もう食べ終わっておりました。あの図体でどうやってあの速さになるのか、いまだに分かりません。ノクスは石から離れ、街道を渡って、また石積みの上へ帰っていきます。
「腫れは、まだですね」
風に乗って届く匂いで分かります。折れた牙の周りが、まだ鈍く重い匂いをさせている。抜くにはもう二日か三日。
ノクスは石積みの上に伏せて、こちらを見ておりました。近づいてはきません。
三日、ずっとこうです。わたくしが柵を出ると距離を取り、小屋に入ると少しだけ寄る。ぎりぎり届かないところに、いつも正確に座っている。
「……そちらは寒くありませんか」
返事はありませんでした。当たり前です。尾の先が一度だけ、石を叩きました。
その日の最後に、街道から蹄の音が聞こえました。
二頭分ではありません。一頭と、人が一人。つまり、乗っていないということです。
現れたのは若い騎士の方でした。ガルド領の隊服を着て、鞍のついた栗毛の騎獣を引いています。引いている、というより、引きずられまいと踏ん張っている、が近いかもしれません。
「――ここが、預かり屋か」
「はい。ただ、そちらの仔は」
「乗せてくれないんだ」
その方は真っ赤な顔で言いました。
「三週間、一度も。……おれ、来週から哨戒に出るんだ。乗れない騎士は、隊にいられない」
騎獣が首を振って、また一歩下がります。若い騎士様も、つられて一歩下がりました。
二人とも、ずいぶん似た顔をしていらっしゃいました。
お読みいただきありがとうございます。
三行の契約書に四行目と五行目を足させた女、エルナ・ウィスタリア。書かせておいて自分は「五分ください」しか言っていないあたり、この人もなかなかの交渉上手です。ちなみに辺境伯閣下の本日の語数は、集計するのをやめました。
次回、記念すべき最初のお客様です。乗せてもらえない騎士様と、乗せたくない騎獣。原因は、たぶんどちらの背中にもありません。




