表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「獣臭い令嬢」と婚約破棄されましたが、王国の魔獣はぜんぶ私に懐いています 〜辺境で預かり屋を始めたら、討伐一筋の辺境伯まで懐いてしまいました〜  作者: 鈴宮ひなた


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
3/33

第3話 その子、怒っていません。痛いんです

 北の谷は、松明の輪でした。


 討伐隊が二十人ほど、円を描いて槍を構えています。その円の中心に、黒いものがいました。


 狼です。ただし、荷車ほどの大きさの。


 肩の高さがわたくしの背丈を越えています。毛並みは夜そのもので、松明の光を吸って返さない。低く身を沈めて、喉の奥で唸り続けていました。唸りというより、地面が鳴っている音に近いのです。


 「近づくな!」


 誰かが叫びました。わたくしにです。


 「馬鹿、下がれ! そいつは三人やられてる!」


 「怪我をなさった方は」


 「え?」


 「怪我をなさった方は、どちらに」


 問い返すと、若い騎士の方が一瞬言葉に詰まりました。


 「……三人とも、突き飛ばされただけだ。骨は折れてない」


 「そうですか」


 わたくしは足を止めませんでした。


 三人を突き飛ばして、誰も噛んでいない。あれだけの顎で。


 円の内側に、黒い外套が見えました。レオンハルト辺境伯です。剣を抜いています。抜いてはいるのですが、構えていませんでした。切っ先が、下を向いたままなのです。


 その方が、こちらに気づきました。


 「――何をしている」


 「見に来ました」


 「戻れ」


 「五分です」


 わたくしは、円のいちばん内側で足を止めました。黒狼まで、十歩ほど。


 唸りが大きくなります。前脚が地面を掻いて、松明の光が牙を舐めました。上顎の左、太い牙が一本、途中で折れています。


 わたくしは目を閉じて、息を吸いました。


 匂いは、層になっています。


 いちばん上は松明の油です。その下に人間。二十人分の汗と、革と、金属。さらに下に谷の匂い――濡れた岩、苔、夜露。


 そのもっと下に、獣の匂いがあります。


 わたくしはそこだけを取り出します。


 湿った毛。乾いた血――古いものです。今日の傷ではありません。それから、骨の内側から滲むような、鈍く重い匂い。


 これは、痛みの匂いです。


 膿の匂いはしません。熱もない。つまり新しい傷ではなく、ずっと前に受けて、そのまま治りきらなかったもの。


 そして、もうひとつ。


 鼻の奥を刺す、青くて鋭い匂いがありました。獣のものではありません。人のほうから流れています。


 「――皆様」


 わたくしは目を開けました。


 「その香、どなたが焚いていらっしゃいますか」


 「は?」


 「胸元です。青い、草を潰したような匂いの」


 数人が顔を見合わせました。それから、一人が首から下げた小袋を持ち上げます。


 「これのことか? 魔除けの香だ。討伐のときは全員が着ける」


 「全員が」


 「決まりだからな」


 なるほど、と思いました。


 「その香、外していただけますか。全員です」


 「はあ?」


 「今すぐ、できるだけ遠くへ」


 「おい、正気か。これは魔獣を寄せつけないための――」


 「寄せつけないのではありません」


 わたくしは、たぶん少し声が大きくなりました。


 「その匂いは、獣にとっては敵意です。二十人分の敵意が、この子をずっと囲んでいるのです。逃げ道のない場所で、痛みを抱えたまま」


 誰も動きませんでした。


 当然だと思います。どこの誰とも知れない女が、三人が突き飛ばされた現場に来て、規則を外せと言っているのですから。


 「――外せ」


 声がしました。


 レオンハルト様でした。


 「閣下!」


 「外して、下がれ。全員だ」


 その方は、それ以上は何も仰いませんでした。ただ、ご自分の分の小袋を紐ごと引きちぎって、後ろへ放りました。


 香が遠ざかると、匂いの層が変わりました。


 黒狼の唸りが、少しだけ低くなります。まだ止まってはいません。当たり前です。囲みが消えたわけではないのですから。


 わたくしは一歩前に出ました。


 「怒っていませんね、あなた」


 黒狼の耳が動きます。


 「痛いんですね。ずっと」


 もう一歩。


 牙です。上顎の左の、折れたもの。折れた断面が歯茎に食い込んで、その周りがずっと膿まずに、けれど治りもせずにいる。噛めば痛い。だから噛まない。三人を突き飛ばしたのは、噛みたくなかったからです。


 「見せていただけますか」


 わたくしは膝をつきました。


 視線を下げて、両手を開いて、それから、動かずに待ちました。


 こういうときにしてはいけないのは、手を伸ばすことです。獣は伸ばされた手を測ります。測って、届く距離だと分かると、選択肢が"噛む"しかなくなる。だから待つのです。あちらに選ばせるために。


 どれくらいそうしていたでしょう。


 背後で誰かが息を止めているのが分かりました。松明の油が爆ぜる音がして、それから――


 黒狼が、前脚を折りました。


 肩が下がり、胸が地面につき、それから、ゆっくりと横に倒れて。


 腹を、見せたのです。


 誰かの槍が、地面に落ちました。


 わたくしは膝でにじり寄って、手を伸ばしました。今度は伸ばしていい距離です。指先が顎の下に触れて、黒狼は目を閉じました。


 「……いい子ですね」


 口の中を覗きます。思ったとおりでした。折れた牙の根が、内側へ倒れています。


 「これは抜きます。今日は無理です。腫れが引いてからでないと、余計に痛い」


 言いながら、頭がくらりとしました。


 嗅ぎすぎたときの、いつものやつです。耳の奥で細い音が鳴って、しばらく治まりません。わたくしは片手で耳を押さえて、息を整えました。


 「……大丈夫です。少し、匂いを取りすぎただけで」


 誰も何も言いませんでした。


 黒狼は、そのまま眠ってしまいました。


 二十人の討伐隊が槍を提げたまま、荷車ほどの大きさの獣が腹を見せて寝ているのを、遠巻きに見ています。誰も動きません。動き方が分からないのだと思います。


 「……名前は」


 声がしました。


 振り向くと、レオンハルト様が立っていました。剣は鞘に戻っています。その方は黒狼を見ていて、なぜか、顔が少し白いようでした。


 「名前は」もう一度。


 「ございません。まだ」


 「つけろ」


 「よろしいのですか」


 「名のあるものは、斬りにくい」


 初めて、この方が三語より多く喋られました。


 わたくしは黒狼を見ました。夜を吸って返さない毛並みを。


 「――では、ノクス」


 その名を呼ぶと、眠っていた耳が、ぴくりと一度だけ動きました。


 レオンハルト様は、しばらく黙っておられました。それから、こちらを見ずに仰いました。


 「……金は払う」


 「え」


 「うちで雇う。預かり屋とやらを、この領でやれ」


 「あの、条件を伺っても」


 「言ってみろ」


 わたくしは立ち上がって、埃を払って、それから申し上げました。


 「獣の言い分を、先に聞いていただけますか」

お読みいただきありがとうございます。


エルナが膝をついて「待つ」場面は、この話でいちばん書きたかったところです。手を伸ばすと、獣のほうに噛むしか選べなくなる。だから待って、あちらに選ばせる。この人の有能さは、たぶん全部そこにあります。


ちなみに黒狼の名「ノクス」は夜という意味です。安直で結構、と本人(本狼)も言っております。


次回、預かり屋は正式に開業いたします。記念すべき最初のお客様は、騎獣にまるきり嫌われている若い騎士様です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ