第3話 その子、怒っていません。痛いんです
北の谷は、松明の輪でした。
討伐隊が二十人ほど、円を描いて槍を構えています。その円の中心に、黒いものがいました。
狼です。ただし、荷車ほどの大きさの。
肩の高さがわたくしの背丈を越えています。毛並みは夜そのもので、松明の光を吸って返さない。低く身を沈めて、喉の奥で唸り続けていました。唸りというより、地面が鳴っている音に近いのです。
「近づくな!」
誰かが叫びました。わたくしにです。
「馬鹿、下がれ! そいつは三人やられてる!」
「怪我をなさった方は」
「え?」
「怪我をなさった方は、どちらに」
問い返すと、若い騎士の方が一瞬言葉に詰まりました。
「……三人とも、突き飛ばされただけだ。骨は折れてない」
「そうですか」
わたくしは足を止めませんでした。
三人を突き飛ばして、誰も噛んでいない。あれだけの顎で。
円の内側に、黒い外套が見えました。レオンハルト辺境伯です。剣を抜いています。抜いてはいるのですが、構えていませんでした。切っ先が、下を向いたままなのです。
その方が、こちらに気づきました。
「――何をしている」
「見に来ました」
「戻れ」
「五分です」
わたくしは、円のいちばん内側で足を止めました。黒狼まで、十歩ほど。
唸りが大きくなります。前脚が地面を掻いて、松明の光が牙を舐めました。上顎の左、太い牙が一本、途中で折れています。
わたくしは目を閉じて、息を吸いました。
匂いは、層になっています。
いちばん上は松明の油です。その下に人間。二十人分の汗と、革と、金属。さらに下に谷の匂い――濡れた岩、苔、夜露。
そのもっと下に、獣の匂いがあります。
わたくしはそこだけを取り出します。
湿った毛。乾いた血――古いものです。今日の傷ではありません。それから、骨の内側から滲むような、鈍く重い匂い。
これは、痛みの匂いです。
膿の匂いはしません。熱もない。つまり新しい傷ではなく、ずっと前に受けて、そのまま治りきらなかったもの。
そして、もうひとつ。
鼻の奥を刺す、青くて鋭い匂いがありました。獣のものではありません。人のほうから流れています。
「――皆様」
わたくしは目を開けました。
「その香、どなたが焚いていらっしゃいますか」
「は?」
「胸元です。青い、草を潰したような匂いの」
数人が顔を見合わせました。それから、一人が首から下げた小袋を持ち上げます。
「これのことか? 魔除けの香だ。討伐のときは全員が着ける」
「全員が」
「決まりだからな」
なるほど、と思いました。
「その香、外していただけますか。全員です」
「はあ?」
「今すぐ、できるだけ遠くへ」
「おい、正気か。これは魔獣を寄せつけないための――」
「寄せつけないのではありません」
わたくしは、たぶん少し声が大きくなりました。
「その匂いは、獣にとっては敵意です。二十人分の敵意が、この子をずっと囲んでいるのです。逃げ道のない場所で、痛みを抱えたまま」
誰も動きませんでした。
当然だと思います。どこの誰とも知れない女が、三人が突き飛ばされた現場に来て、規則を外せと言っているのですから。
「――外せ」
声がしました。
レオンハルト様でした。
「閣下!」
「外して、下がれ。全員だ」
その方は、それ以上は何も仰いませんでした。ただ、ご自分の分の小袋を紐ごと引きちぎって、後ろへ放りました。
香が遠ざかると、匂いの層が変わりました。
黒狼の唸りが、少しだけ低くなります。まだ止まってはいません。当たり前です。囲みが消えたわけではないのですから。
わたくしは一歩前に出ました。
「怒っていませんね、あなた」
黒狼の耳が動きます。
「痛いんですね。ずっと」
もう一歩。
牙です。上顎の左の、折れたもの。折れた断面が歯茎に食い込んで、その周りがずっと膿まずに、けれど治りもせずにいる。噛めば痛い。だから噛まない。三人を突き飛ばしたのは、噛みたくなかったからです。
「見せていただけますか」
わたくしは膝をつきました。
視線を下げて、両手を開いて、それから、動かずに待ちました。
こういうときにしてはいけないのは、手を伸ばすことです。獣は伸ばされた手を測ります。測って、届く距離だと分かると、選択肢が"噛む"しかなくなる。だから待つのです。あちらに選ばせるために。
どれくらいそうしていたでしょう。
背後で誰かが息を止めているのが分かりました。松明の油が爆ぜる音がして、それから――
黒狼が、前脚を折りました。
肩が下がり、胸が地面につき、それから、ゆっくりと横に倒れて。
腹を、見せたのです。
誰かの槍が、地面に落ちました。
わたくしは膝でにじり寄って、手を伸ばしました。今度は伸ばしていい距離です。指先が顎の下に触れて、黒狼は目を閉じました。
「……いい子ですね」
口の中を覗きます。思ったとおりでした。折れた牙の根が、内側へ倒れています。
「これは抜きます。今日は無理です。腫れが引いてからでないと、余計に痛い」
言いながら、頭がくらりとしました。
嗅ぎすぎたときの、いつものやつです。耳の奥で細い音が鳴って、しばらく治まりません。わたくしは片手で耳を押さえて、息を整えました。
「……大丈夫です。少し、匂いを取りすぎただけで」
誰も何も言いませんでした。
黒狼は、そのまま眠ってしまいました。
二十人の討伐隊が槍を提げたまま、荷車ほどの大きさの獣が腹を見せて寝ているのを、遠巻きに見ています。誰も動きません。動き方が分からないのだと思います。
「……名前は」
声がしました。
振り向くと、レオンハルト様が立っていました。剣は鞘に戻っています。その方は黒狼を見ていて、なぜか、顔が少し白いようでした。
「名前は」もう一度。
「ございません。まだ」
「つけろ」
「よろしいのですか」
「名のあるものは、斬りにくい」
初めて、この方が三語より多く喋られました。
わたくしは黒狼を見ました。夜を吸って返さない毛並みを。
「――では、ノクス」
その名を呼ぶと、眠っていた耳が、ぴくりと一度だけ動きました。
レオンハルト様は、しばらく黙っておられました。それから、こちらを見ずに仰いました。
「……金は払う」
「え」
「うちで雇う。預かり屋とやらを、この領でやれ」
「あの、条件を伺っても」
「言ってみろ」
わたくしは立ち上がって、埃を払って、それから申し上げました。
「獣の言い分を、先に聞いていただけますか」
お読みいただきありがとうございます。
エルナが膝をついて「待つ」場面は、この話でいちばん書きたかったところです。手を伸ばすと、獣のほうに噛むしか選べなくなる。だから待って、あちらに選ばせる。この人の有能さは、たぶん全部そこにあります。
ちなみに黒狼の名「ノクス」は夜という意味です。安直で結構、と本人(本狼)も言っております。
次回、預かり屋は正式に開業いたします。記念すべき最初のお客様は、騎獣にまるきり嫌われている若い騎士様です。




