第2話 魔獣預かり屋、本日開業(客はゼロ)
ガルド辺境領に着いて最初に分かったのは、ここの空気が鉄の匂いだということでした。
血ではありません。研いだばかりの刃の匂いです。街の中を歩いているだけで、すれ違う人の三人に一人は剣を提げている。鍛冶場の煙が絶えず上がっていて、その煙にも刃の匂いが混ざっています。
つまり、そういう土地なのでした。
「――で? 王都から流れてきた令嬢が、うちの領で何をするって?」
領主館の広間で、女性の騎士がわたくしを上から下まで眺めました。マルタ・レンツ様。この地の副官をなさっている方だそうです。声が大きくて、そして遠慮というものが一切ありません。
「魔獣を、お預かりしようかと」
「預かる」
「はい」
「……斬るんじゃなくて?」
「斬りません」
マルタ様が振り返って、部屋の奥へ声を投げました。
「閣下。斬らないそうです」
窓辺に立っていた男の方が、こちらを向きました。
レオンハルト・ガルド辺境伯。若い方です。想像していたより、ずっと。黒い外套の下に、肩から下げた剣。顔立ちは整っているのですが、表情というものがほとんど動きません。
その方がわたくしを二秒ほど見て、それから言いました。
「……好きにしろ」
それだけでした。
「以上ですか」
「以上だ」
「閣下、三語です」マルタ様が指を三本立てます。「今日はもう三語お使いになりました。日が高いうちに使い切るのはお珍しい」
「マルタ」
「四語」
辺境伯は口を閉じました。どうやら本当に、あまり喋らない方のようです。
「まあ、悪気はないんだよ」マルタ様がこちらへ向き直ります。「うちの閣下、三日に一度しか言葉を発しませんので。今日はもう使い切りました」
「そうなのですか」
「そういうことにしといて。……で、あんた本気かい。魔獣を預かるって」
「本気です」
「あのねえ」
マルタ様は、少し声を落としました。
「この領で魔獣ってのは、出たら鐘が鳴るもんだ。鐘が鳴ったら村の子どもは家に入って、大人は槍を取る。誰かが怪我をして、運が悪けりゃ誰かが帰ってこない。……預かるってのは、その"帰ってこない"のを、柵ひとつ隔てて隣に置くってことになる」
「はい」
「分かってて言ってるのかい」
「分かって言っております」
わたくしは頷きました。
「ただ、鐘が鳴る前に済むことも、いくつかあると思うのです」
マルタ様がわたくしをしばらく眺めました。それから、窓辺のほうへ顎をしゃくります。辺境伯はもう背を向けていて、こちらを見ていませんでした。
「……あんた、閣下に気に入られるかもね」
「そうは見えませんでしたが」
「見えないのが普通なんだよ、あの人は」
マルタ様は声を落としました。
「昔ね。一頭だけ、斬らなかったのがいる」
「魔獣を、ですか」
「うん。あの人が隊を率いはじめて二年目だったかな。追い詰めて、囲んで、あとは踏み込むだけってところで――閣下は剣を下ろした」
「なぜ」
「知らない。誰も知らない。訊いたやつは全員、あの三語で追い払われた」
マルタ様は肩をすくめました。
「その次の月にね。部下が二人、死んだ」
わたくしは口を閉じました。
「別の個体だよ。まったく関係ない。関係ないんだけど――閣下はそう思ってない。以来あの人、獣に情を持つやつを隊に入れない。自分も持たない。持たないようにしてる」
「……それで、三語なのですね」
「察しがいいね、あんた」
マルタ様は笑って、それから真顔になりました。
「だから気をつけな。あんたのやろうとしてることは、あの人がいちばん見たくないものかもしれない」
街のはずれに、使われていない厩がありました。
屋根は半分落ちていて、柵は朽ちかけ。以前は荷役獣を入れていたそうですが、五年ほど前に持ち主が亡くなってからは誰も使っていないとのことでした。
「ここでいいのかい。ずいぶん外れだよ」
「外れがいいのです。獣は、人の匂いが濃い場所では休めませんので」
わたくしは屋根の抜けたところから空を見上げて、それから床の藁を一掴み取りました。
古い。それに、湿っています。
「……これは、全部替えないといけませんね」
三日かかりました。
屋根を直し、柵を打ち直し、床の藁を運び出して新しいものを入れる。途中でティムという名の少年が手伝いに来てくれました。近くの村の子で、十四だそうです。「日当が出るって聞いた」と言って現れて、そのわりに獣の話になると柵から二歩下がる子でした。
「ねえ、姉さん。ほんとに魔獣が来るの?」
「来るといいのですけれど」
「来ないほうがよくない?」
「来ないと商売になりませんので」
「……姉さん、変だね」
よく言われます。
三日目の夕方に、看板を掲げました。板きれに炭で書いただけの、簡単なものです。
『魔獣預かり屋』
その下に小さく、こう書き足しました。
『斬らずに済むかどうか、見るだけなら無料』
ティムが首をかしげます。
「無料でいいの?」
「見るだけなら、五分ですので」
初日、お客様はいらっしゃいませんでした。
二日目も、いらっしゃいませんでした。
三日目、街の方が一人だけ通りかかって、看板を読んで、笑って行かれました。「ここは斬るとこじゃないのかい」と。
四日目の夕暮れ、わたくしは掃除の済んだ厩の前に座って、空を見ておりました。
藁は新しく、水は張ってあり、柵は真っ直ぐです。獣を入れる準備だけが完璧に整った、獣のいない厩。
膝の上には、あの帳面。
開いても、書くことがありません。十年間、毎日何かしら書いていたので、白いままの頁というものを久しぶりに見ました。
「……いってきます、って言ったのですけれど」
誰に言うでもなく、そう言いました。
あの日、柵の向こうで脚を踏み替えたシグルの音を、まだ覚えています。あの仔は今どうしているでしょう。蹄鉄は外していただけたでしょうか。
――たぶん、外していません。
風が吹いて、藁の匂いが立ちました。新しい藁は、日向と、乾いた草の匂いがします。悪くない匂いです。誰も嗅ぎに来ませんけれど。
そのときでした。
街の方角から、鐘が鳴りました。
一度、二度、三度。止まりません。
わたくしは立ち上がりました。帳面を抱えたまま、鐘の鳴るほうへ。街道を駆けてくる人影が見えて、それがティムだと分かるまでに少しかかりました。
「姉さん! 姉さん、大変だ!」
「どうしました」
「北の谷! 討伐隊が出たんだけど、その、」
ティムは息を切らして、それから震える声で言いました。
「――黒いのが出た。誰も、手に負えないって」
お読みいただきありがとうございます。
看板の「見るだけなら無料」は、エルナなりの商売の工夫……というより、たぶん我慢の限界です。三日も獣に触れないと、この人はそわそわします。
次回、北の谷。討伐隊の槍が並ぶ真ん中に、エルナが一歩踏み出します。




