第1話 その仔、明日には走れなくなりますよ
魔獣は、斬るものだと思われています。
この話に出てくる令嬢は、そう思っていません。
「――獣臭い女を、王妃にはできない」
王太子ジェラルド殿下がそう仰ったとき、広間にいた全員がわたくしを見ました。
けれど、わたくしが見ていたのは殿下ではありません。その後ろ、開け放たれた窓の外に繋がれた殿下の騎獣でした。右の前脚に、体重が乗っていない。
三日前から庇っています。誰も気づいていないようですけれど。
「聞いているのか、エルナ」
「――はい。獣臭い、と」
復唱すると、婚約者だった方は満足そうに頷かれました。反論されるより、繰り返されるほうがお好きなのです。この方はいつもそうでした。
わたくしの魔力は、香りが薄いのです。貴族の証である華やかな匂いが、ほとんどしない。だから幼い頃からずっと、獣の匂いに近いと嗤われてきました。
それはそのとおりなので、否定したことはありません。
「エルナ様、お気の毒ですけれど」
殿下の隣から、鈴を振るような声がしました。リゼット・アーレンス侯爵令嬢。今日この場のために、香油を三度は重ねていらっしゃいます。そこまで嗅ぎ分けられるのは、たぶんわたくしだけですけれど。
「わたくし、殿下のお側に立つ方は、せめて花の香りがすべきだと思うのです」
「ええ。よく分かります」
「……あの、そこは怒るところでは」
「怒っておりませんわ。香油、白薔薇に沈丁花を重ねていらっしゃるでしょう。よくお似合いです」
リゼット様が半歩下がりました。誉めたつもりだったのですけれど。
ジェラルド殿下が咳払いをなさいます。
「とにかくだ、エルナ。お前は今日をもって王太子妃候補ではなくなる。屋敷にも戻らなくていい。辺境へでも行け」
「かしこまりました」
「……即答か」
「はい」
殿下は少しだけ拍子抜けした顔をなさいました。おそらく、泣くか縋るかを想定していらしたのだと思います。申し訳ないのですが、わたくしには先に済ませたい用がありました。
「殿下。ひとつだけ、よろしいでしょうか」
「言ってみろ」
「厩舎の引き継ぎは、どなたに」
広間が、わずかにざわつきました。
「厩舎?」
「はい。王家の騎獣厩舎です。十年ほど、わたくしが見ておりましたので」
「ああ――厩の掃除か」
殿下は笑われました。周りの方々も笑いました。掃除。そうですね、たしかに藁は毎日替えておりましたので、間違ってはおりません。
「そんなものは誰でもできる。侍従長にでも任せる」
「そうですか」
わたくしは頭を下げました。これで用は済みました。
もう一度だけ窓の外を見ます。殿下の騎獣――名をシグルという、栗毛の大きな仔です――が、こちらへ首を伸ばしていました。広間の誰にも近づかなかったその仔が、鼻先をまっすぐわたくしへ向けて、静かに息を吸ったのです。
匂いを、確かめている。
「エルナ」
殿下の声が、少し険しくなりました。
「なんだ、その顔は」
「いえ。……殿下、シグルの右前脚ですが」
「シグル?」
ご自分の騎獣の名でした。
わたくしは一度だけ息を吸って、それからなるべく平らな声で申し上げました。
「蹄の内側に、石が噛んでおります。三日前からです。今は庇って歩いておりますが、明日の行進で無理をさせれば、その仔、走れなくなりますよ」
「……何を根拠に」
「匂いです」
殿下は眉を寄せられました。当然だと思います。この十年、どなたにもご説明したことはありませんでしたから。
「膿む前の傷は、鉄と、湿った藁の匂いがするのです。シグルはもう三日、その匂いをさせています。厩番に伝えても『元気に見えます』と返されましたので、こうして直接申し上げております」
「戯言を」
「はい。戯言でよろしいです」
わたくしは、もう一度だけ頭を下げました。
「ただ、蹄鉄を外して内側を見るだけなら、五分もかかりません。掃除しかできない女の言うことでも、五分ならお安いかと」
リゼット様が「まあ」と口元を押さえます。ジェラルド殿下は何かを仰りかけて、けれど言葉を選びきれずに黙られました。
その沈黙のあいだに、わたくしは踵を返しました。
広間を出たところで、厩番のハンスに呼び止められました。
二十年この仕事をしている男で、わたくしが十年前に初めて厩舎へ入ったときも、この人がいました。
「エルナ様。あの、本当に、行っちまわれるので」
「ええ」
「困ります」
思ったより正直な言葉が出てきたので、少し笑ってしまいました。
「侍従長様がお引き継ぎになるそうですよ」
「侍従長様は帳面しかご覧になりません」ハンスは声を潜めます。「エルナ様、あの、順番はどうすれば。夕方の」
「順番、といいますと」
「餌の順です。いつも、東の端から入れておられたでしょう。あれには何か意味が」
わたくしは口を開いて、それから少し考えました。
意味はあります。東端の二頭は気が短いので、先に食べさせないと隣の柵を蹴る。蹴られた仔が興奮すると、その匂いが厩舎じゅうに回って、夜のあいだ誰も眠れなくなる。だから東から。
十年、毎日そうしていました。
誰にも言ったことはありません。訊かれたこともありませんでしたので。
「……ハンス。紙はありますか」
「へ? あ、ええ、ここに」
わたくしは壁に紙を当てて、餌の順を書きました。東端から順に十四頭、名前と順番だけを。書き終えて渡すと、ハンスはそれを両手で受け取って、しばらく見ていました。
「これ、全部覚えておられたんで」
「毎日ですから」
「……侍従長様は、たぶんこれをお読みになりません」
「そうかもしれませんね」
わたくしは頭を下げて、その場を離れました。
屋敷を出るのに、荷物はほとんど要りませんでした。
服はもともと少ないですし、宝飾の類は身につけると匂いが混ざるので、ずっと箱に仕舞ったままでしたので。持って出たのは着替えと、それから革表紙の帳面が一冊だけです。
十年分の、匂いの記録帳。
どの仔が、どの季節に、どんな匂いをさせたか。何を替えたら匂いが戻ったか。他人が見れば意味のない走り書きの束です。実際、父にも「そんな汚いものを持ち歩くな」と言われ続けました。
その父は、見送りに出てきませんでした。
馬車が動き出す前に、厩舎の前をひと回りだけしていただきました。石を敷いた広い庭に、王家の騎獣が十四頭。どの仔も、こちらへ顔を向けます。
いつもと同じでした。餌の時間でもないのに、どの仔も柵ぎわまで来て、鼻先を伸ばしてくる。
「……いってきます」
声に出すつもりはなかったのですが、勝手に出ました。
シグルが柵の向こうで一度だけ、脚を踏み替えました。庇っているほうの脚を、そっと浮かせて。
わたくしはその音を数えて、それから馬車の扉を閉めました。
窓の外で、王都が遠ざかっていきます。
辺境ガルド領。魔獣が出る土地だと聞いています。魔獣を斬るための領地だとも。
斬るしか、しないのでしょうか。
膝の上の帳面を、指でひとつ撫でました。
――このさき何が待っていても、たぶん王都よりは匂いのはっきりした場所だと思うのです。
お読みいただきありがとうございます。
第1話の裏話をひとつ。エルナが持ち出した「匂いの記録帳」は、この物語でいちばん地味な小道具ですが、いちばん長く効きます。十年分の走り書きが後でどう効いてくるかは、どうか気長にお付き合いください。
次回、エルナは辺境で看板を掲げます。「魔獣預かり屋」。ちなみに初日のお客様は、ゼロです。




