第10話 わたくし、もう厩舎番ではありませんので
朝には雨が上がっていました。
辺境の晴れは雨より派手です。谷から霧が抜けて、山の稜線が近づいてきたように見えます。濡れた藁を全部干し直さなければならないので、わたくしは夜明け前から働いておりました。
門を開けたのはティムです。
「姉さん、来ました。馬車です」
「傘は」
「今日は要らないと思います」
「では、二本出しておいてください。日除けになりますので」
昨日の侍女の方は、今日は外套を替えていらっしゃいました。裾に泥がつかない歩き方も同じです。ただ、門をくぐる前に一度、屋根を見上げていかれました。
「本日は、あの獣を下ろしていただけますの」
「下ろせません。あの仔の家ですので」
「……家」
「はい。屋根です」
柵の内側には、レオンハルト様とマルタ様が立っておいででした。正式な返答をするのだから領主が立ち会うものだ、とマルタ様に言われましたので、そういうことになったようです。その方は何も仰いません。腕を組んで、杭の一本を見ていらっしゃいます。
「では、伺いますわ。エルナ・ウィスタリア様。王家のご召還に、いかがご返答なさいますの」
「王都へは戻りません」
侍女の方の睫毛が一度、動きました。
「……ご自分のお立場を、お分かりですの」
「はい。わたくし、もう厩舎番ではありませんので」
「開き直られるのですね」
「いいえ。お困りなのだと分かっておりますから、申し上げているのです」
わたくしは手についた藁くずを払って、それから続けました。
「王都の厩舎に足りないのは、わたくしではありません。順番です」
「順番、ですって」
「餌を入れる順番です。東の端から順に十四頭。十年そうしてまいりました。東端の二頭は気が短いので、先に食べさせないと隣の柵を蹴ります。蹴られた仔が興奮すると、その匂いが厩舎じゅうに回って、夜のあいだ誰も眠れません」
「そのような細かいことを、いま申し上げられても」
「王都を出る日に、紙へ書いて厩番のハンスへ預けました。十四頭の名前と、順番だけを」
侍女の方が黙りました。
「そのような紙は、伺っておりませんわ」
「読まれていないのですね」
「侍従長様が引き継がれましたのよ。あの方は帳面をきちんとつけておいでです」
「存じております。帳面はご覧になります。厩舎はご覧になりません」
マルタ様が下を向きました。肩が揺れています。
わたくしは、なるべく平らな声で申し上げました。
「あの紙が読まれるのでしたら、わたくしが戻る必要はありません。読まれないのでしたら、わたくしが戻っても同じことです。半年後にまた同じことが起きます」
「……ずいぶんな言いようですこと」
「事実です。悪口ではありません」
「同じに聞こえますわ」
「はい。よく言われます」
わたくしは小屋へ入って、紙を一枚、書きました。
書き終えて出てくると、侍女の方が身構えました。受け取るまいという顔です。それでもわたくしは差し出しました。
「これを、ハンスへお渡しください」
「……なんですの、これは」
「シグルのことです」
その名を出したとき、侍女の方の表情がわずかに動きました。あの仔の名は、王都でも知られるようになったのだと思います。飼い葉を食べない騎獣として。
「桶の高さが合っていないのだと思います。あの仔は肩が大きくなりましたので、いまの位置ですと首を伸ばして食べることになります。首を伸ばして食べる姿勢は、三日目から嫌がるようになります」
「……それだけ、ですの」
「桶を拳ひとつぶん下げてください、と書いてあります。あとは、東から数えて四番目に入れること」
「わたくしは、あなた様を連れ戻しに参りましたのよ」
「連れ戻せない代わりに、それをお持ちください。手当も宿も要りません」
侍女の方は、しばらく紙を見ていらっしゃいました。
それから受け取って、外套の内側へ入れました。泥をつけない歩き方をする方が、紙を胸に入れるところは、少しだけ人らしく見えました。
「申し上げておきますけれど」
馬車へ向かう途中で、その方は足を止めました。
「王都は困っておりませんわ」
「そうですか」
「行進が延期になっただけです。二度ほど」
「そうですか」
「殿下は今、馬車でご移動なさっています。騎獣に乗れないのではなく、お忙しいのです」
「そうですか」
「……あなた、それしか仰らないの」
「ほかに申し上げることがありませんので」
マルタ様が井戸の縁に手をついて、とうとう声を出して笑いました。侍女の方が睨みつけましたが、この方の笑いは睨まれると長引きます。
「リゼット様は、来月にご婚儀ですわ」
「おめでとうございます」
「あなたが座るはずだった席ですのよ」
「では、香油は控えめになさるようお伝えください。婚儀の行進には騎獣が出ますので」
侍女の方は、それには何も仰いませんでした。
馬車の扉に手をかけてから、その方はもう一度こちらを向きました。
「エルナ様。王家のご意向に従われないのでしたら、次は別の方が参りますわ」
「どなたでしょう」
「魔獣管理局の、ボルグ・ハイデン様」
レオンハルト様が、はじめて杭から目を上げられました。
「王国じゅうの魔獣を把握しておられる方です。危険な個体をお決めになるのも、あの方ですの」
「決める、といいますと」
「書類で、ですわ」
その方は、少しだけ言いにくそうになさいました。
「……あの方は、獣をご覧になりません。エルナ様。それだけ申し上げておきます」
扉が閉まって、馬車は街道へ出ていきました。
「あの名前、この前あんたに話しただろ。王都がとうとう呼んだって男だよ」
マルタ様が桶を提げ直しながら仰いました。
「魔獣管理局ってのは王都の役所でね。危険個体だと判定されると、討伐令が出る。辺境じゃ誰も見たことがないけどね。うちは判定を待つ前に出るからさ」
「その方は、なぜこちらへ」
「さあ。王都のお偉方が辺境に用があるときは、たいてい辺境に用があるんじゃなくて、辺境に何かを置きたいときだよ」
わたくしは干した藁を裏返しました。半分乾いています。夕方までには入るでしょう。
「……閣下。いかがいたしましょう」
レオンハルト様は答えずに、厩の裏へ歩いていかれました。しばらくして戻ってこられたときには、槌を持っておいでです。
「看板を直す」
「え」
「昨日の雨で、傾いた」
その方は本当に看板の杭を打ち直しはじめました。「魔獣預かり屋」と書いた板です。わたくしが自分で塗りました。二度目の槌の音で杭が沈み、三度目で真っ直ぐになりました。
直すということは、しばらく立てておくということです。
わたくしは藁を裏返す手を止めて、その音を数えておりました。ティムが横に来て同じように数えていました。
「預かり屋さん」
マルタ様が街道のほうを見ています。
「管理局の馬車は、王都からだと三日だよ」
「三日ですか」
「三日だね」
屋根の上のノクスが、槌の音に一度だけ耳を動かしました。
わたくしはその三日で何を片づけておくべきかを、順番に数えはじめました。
お読みいただきありがとうございます。
この話でエルナが王都へ返したのは、恨みでも啖呵でもなく、桶の高さを書いた紙一枚です。断りながら獣は見捨てない。この人の強さはたぶん全部その形をしています。
そして閣下は、こういうときに言葉ではなく槌を持ってくる方です。
ブックマークは、この預かり屋の屋根の上に一頭ぶん場所を空けておくようなものだと思っております。ノクスは詰めてくれますので、どうぞ遠慮なくお乗りください。
次回、魔獣管理局長ボルグ・ハイデンが辺境へ参ります。獣を、一度も見ない方です。




