第11話 魔獣管理局長は、獣を見ませんでした
三日目の昼に、その馬車は来ました。
黒く塗った箱馬車で、車輪の泥まで拭ってあります。辺境の街道を三日走ってきて泥が拭ってあるということは、途中で誰かに拭かせたということです。
降りてきたのは三人でした。
先頭の方は五十に手が届くくらいでしょうか。丈の合った上着を着ています。指が細く長く、爪が短く切り揃えられていました。手の甲に傷がひとつもありません。獣を扱う人の手ではありませんでした。
「魔獣管理局長、ボルグ・ハイデンです」
その方は名乗って、それから帳面を開きました。
柵のほうも、屋根のほうも、一度もご覧にならないままで。
「当地に、無登録の魔獣が置かれているとの報告を受けております」
「預かっております」
「同じことです」
「違うと思います。うちの仔は、いつでも帰れます」
ボルグ様は帳面から目を上げませんでした。書記官の方が二人、後ろで筆を構えています。
「魔獣預かり屋。この業種は、王国の許可制度に存在しません」
「はい」
「存在しない業は、営むことができません」
「あの」
ティムが小さく手を挙げました。えらいと思います。わたくしはまだ手を挙げる勇気がありませんでした。
「じゃあ、どうすればいいんですか」
「廃業なさるのがよろしい」
「ここの仔たちは、どこへ行くんですか」
「管理局が引き取り、判定いたします」
「判定って」
「危険か、危険でないかです」
ティムが黙りました。わたくしは一歩前に出ました。
「では、ご覧になってください」
「何をです」
「うちの仔たちをです。柵はそちらです。歩いて二十歩ほどですので」
ボルグ様は、はじめて顔を上げられました。
わたくしを見ました。柵は見ませんでした。
「その必要はありません」
「二十歩です」
「見ても書類は変わりませんので」
その方は帳面の頁をめくって、指を一行の上に置きました。
「屋根の上の個体。黒狼種。危険個体です」
「あの仔は」
「書類にそう書いてあります」
「牙が折れております。上顎の左です。折れた根が歯茎に入って、噛むと痛みますので、この仔はもう三年ほど、まともに噛んでおりません」
「牙の状態は、分類に影響しません」
「三人を突き飛ばして、誰も噛まなかった仔です」
「突き飛ばした事実が、記録されております」
わたくしは口を閉じました。閉じたほうがよいと思ったからではなく、続けたら何を言うか分からなかったからです。
レオンハルト様が柵の内側から出てこられました。
「辺境伯閣下でいらっしゃいますか」
「そうだ」
「当領における魔獣の管理は、法令上、管理局の所管でございます。辺境伯といえど、王国法の外ではありません」
「下がれ」
「は」
「この人は、俺が呼んだ」
ボルグ様は、レオンハルト様の顔をしばらく見ておいででした。それから帳面へ目を戻して、書記官に何か短く言いました。書記官の筆が走ります。今のやり取りが記録されたのだと思います。
その書記官が抱えている帳面が、もう一冊ありました。
厚さが手のひらほどあります。表紙に何も書かれておらず、角が擦り切れて、紐で二重に縛ってあります。
「そちらは」
「管理局の帳簿です」
「何が書かれておりますの」
「判定と、処分の記録です」
書記官の方が、わずかに帳面を脇へ寄せました。寄せたぶんだけ開いた頁が見えます。
番号でした。
上から下まで、番号と、日付と、短い記号だけが並んでいます。行の数は数えきれません。名前は、ひとつもありませんでした。
「……名前は、書かないのですか」
「番号で足ります」
「その仔たちには、名前があります」
わたくしは、たぶん声が大きくなりました。マルタ様がこちらを見たので、そうだと思います。
ボルグ様は驚きませんでした。困った顔もなさいません。ただ、はじめて少しだけ、興味というものを目に出されました。
「獣に情を移す者は、管理者に向きません」
「わたくしは管理者ではありません。預かり屋です」
「同じことです」
「違います。管理する者は返さなくてよいのです。預かる者は、返さなくてはなりませんので」
その方は答えませんでした。帳面を閉じる音だけがしました。
「では、こういたしましょう」
馬車へ戻る前に、ボルグ様は振り返って仰いました。
「近日中に、一頭こちらへ回します」
「うちへ、ですか」
「管理局が手を焼いている個体です。三度、鎮静に失敗しております。担当の者が二人、腕を折りました」
ティムが息を呑みました。
「あなたが手に負えるのでしたら、許可の書式を新設することも検討いたしましょう。前例を作るのは、私の裁量です」
「手に負えなければ」
「書類どおりにいたします。ここで」
わたくしは、その言葉の意味を確かめませんでした。確かめるまでもありませんでしたので。
「……なぜ、そこまでなさるのです」
「制度の話です。感情の話ではありません」
その方は上着の裾を直しました。三日走った馬車から降りて、裾に皺ひとつありません。
「エルナ・ウィスタリア殿。私は十九年、管理局におります。危険な個体を危険だと判定してきたおかげで、王国の死者は年々減っております。数字で申し上げられます」
「その数字に、その仔たちの名前は入っておりますか」
「入りません」
「では、半分の話をなさっているのだと思います」
ボルグ様は、そこではじめて屋根のほうを見られました。
一瞬でした。すぐに目を戻して、扉を閉めて、行ってしまわれました。見た、というより、音のしたほうを向いただけかもしれません。
馬車の土埃が街道の先で細くなっていきます。
「……あの人さ」
マルタ様が腕を組みました。
「うちの領で、いちばん質の悪い型だよ。悪党なら殴れるけど、書類は殴れない」
「殴らないでください」
「殴らないよ。殴ったら記録されるからね」
レオンハルト様は柵の杭のところに戻って、また何かを見ておられます。今日は槌を持ってきませんでした。
「姉さん」
ティムがそばへ来ました。
「手に負えない個体って、どんなのが来るんでしょう」
「分かりません」
「分からないんですか」
「ええ。ですから、藁を余分に干しておきましょう。寝床は、多いぶんには困りませんので」
ティムが干し場へ走っていきました。
屋根の上で、ノクスは立ったままでした。
街道の土埃がすっかり消えて、鳶が二度鳴いて、日が傾きはじめても、その仔は座りませんでした。
お読みいただきありがとうございます。
この回のボルグは、悪意で獣を殺す男ではありません。数字を減らすために働いてきた人です。ただ、その数字に名前の欄がないだけで。厄介さの質がそこにあります。
なお、エルナが人に向かって声を大きくしたのは、北の谷で香を外させたとき以来、二度目です。この人の地雷はひとつしかありません。
次回、管理局から一頭が運ばれてきます。三度の鎮静に失敗した個体だそうです。エルナは、その仔の檻の前で息を吸います。




