第12話 この子、薬の匂いがします
管理局の荷車が来たのは、朝のうちでした。
馬を四頭立てた大きなもので、荷台に鉄の檻が載っています。檻には帆布が被せてあって、中は見えません。御者のほかに役人が二人。ボルグ・ハイデン局長のお姿はありませんでした。
「預かり屋はどれだ」
「わたくしです」
「署名を」
差し出された書類には、細かい字がびっしり並んでいました。いちばん上に大きく『危険個体 第八号』とあります。
「判定は要処分だ。だが局長が、預かり屋とやらの手並みを見たいと仰った」
「ありがとうございます」
「……礼を言われるとは思わなかったな」
「獣を回していただけるのですから」
役人の方が黙りました。
わたくしは、書類をもう一度読みました。判定の欄、所見の欄、それから最後の欄まで。
「ひとつ、よろしいでしょうか」
「なんだ」
「この仔を診た方のお名前は、どちらに」
「……は?」
「診た方の署名です。どこにもございませんので」
役人の方は紙を覗き込んで、それから少し早口になりました。
「判定は局長がなさる。局長は現物をご覧にならん。それが管理局のやり方だ」
「そうですか。よく分かりました」
荷台から檻が下ろされます。地面に着いた拍子に、中で何かが動いて、鉄が鳴りました。
帆布の下から声がします。
吠え声でした。ただ、犬の吠え方ではありません。喉のいちばん奥を削るような、途切れない音です。
「……ずっとこれかい」
マルタ様が耳を塞ぐ真似をなさいます。
「三日だ」役人の方が答えました。「捕らえてから三日、止まらん」
荷車は、置くだけ置いて帰っていきました。
帆布を取ると、灰色の毛並みが見えました。
番犬種の雌です。肩の高さはわたくしの腰ほど。牙は太く、耳は立っていて、本来なら街の門番として重宝される仔でしょう。
その仔が、檻の隅で吠えています。
こちらを見てはいません。どこも見ていないのです。鉄の格子に肩をぶつけて、跳ね返って、また吠える。口の端が少し切れて、そこだけ毛が固まっていました。
「姉さん」
ティムが柵の外から呼びます。二歩、下がった位置から。
「これ、無理じゃない?」
「そうかもしれませんね」
「そうかもって」
「まだ嗅いでおりませんので」
わたくしは、檻の前に膝をつきました。
匂いは、層になっています。
いちばん上は、荷車の車軸の油でした。焦げた獣脂の匂い。その下に、役人の方が二人分。紙と、蝋と、鉄気の墨。書き物ばかりしている人の匂いです。
さらに下へ潜ると、檻そのものが出てきます。錆と、雨に濡れた鉄。
わたくしは、そこまでを剥がしました。
その下が、この仔です。
汗。乾いた砂。肉球の焦げた匂い――走りすぎたのだと思います。それから、恐れの匂い。恐れは酸っぱくて、少し薄い。
ここまでは、道理に合っています。捕らえられて三日、吠え続けた獣の匂いとして、なにも矛盾がありません。
けれど、まだ一枚ありました。
いちばん底です。
甘い。
焦がした蜜のような甘さです。その底に、細い金気が沈んでいます。
わたくしは目を開けました。
「……マルタ様。この仔、餌は何を」
「管理局の記録じゃ乾し肉だね。水は毎日替えたと書いてある」
「寝床は」
「藁だとさ」
「そうですか」
餌でも寝床でもありませんでした。
わたくしはもう一度、いちばん底の層だけを取り出しました。この甘さは獣からは出ません。餌からも出ません。人の側から入ったものです。
「――この子、薬の匂いがします」
マルタ様の眉が上がりました。
「薬? 治すやつかい」
「治すものは苦いか、青いか、樹脂の匂いがします。これは甘いのです」
「甘いと何がまずいのさ」
「この仔の匂いが、変わってしまっています」
わたくしは格子越しに、灰色の背を見ました。
「魔獣は匂いで敵と味方を決めます。自分の匂いも嗅いでいます。……いま、この仔の匂いは、この仔にとって敵の匂いなのです」
ティムが柵の向こうで口を開けました。
「え。それって」
「はい。逃げ場がありません」
自分の背中から敵の匂いがしている。走っても、伏せても、ついてくる。三日吠え続けたのは、そのためです。怒っているのでもなく、痛いのでもなく、追われているのです。
「閣下を呼んでくる」マルタ様が身を翻しました。
レオンハルト様は、半刻もしないうちにいらっしゃいました。
檻を一度ご覧になって、それからわたくしを見ます。
「処置は」
「匂いを薄めます。水と、風と、匂いのない藁と、あとは時間です」
「檻は」
「開けていただきたいのです」
背後で、誰かが息を吸いました。無理もありません。三日吠え続けた個体を、囲いの中とはいえ放せと申し上げているのですから。
レオンハルト様は檻を見て、次に囲いの柵を見て、それから短く仰いました。
「開けろ」
「閣下!」
「柵は俺が見る」
閂が抜かれました。
灰色の仔は、しばらく動きませんでした。それから外へ出て、囲いの端から端まで三度走って、水桶に頭から鼻を突っ込みました。
飲みます。長いこと飲んでいました。
わたくしは古い藁を掻き出して、洗って干した新しいものを敷きました。風の通る側の板を外して、日を入れます。
吠え声は、まだ止まりません。けれど、間が空くようになりました。
「名前は」
レオンハルト様が柵の外から仰います。
「書類には番号しかございません」
「つけろ」
「よろしいのですか」
「番号は、呼びにくい」
わたくしは、灰色の仔を見ました。三日、喉が潰れるまで自分の匂いに向かって吠え続けた仔です。
「――では、ウォクス」
「意味は」
「声です」
「ノクスとウォクスかい」マルタ様が噴き出しました。「並べると呪文みたいだね。あんた、次はドクスとか言い出すんじゃないだろうね」
「その仔が来ましたら考えます」
日が傾く頃、ティムが柵の外に座り込んで訊きました。
「ねえ姉さん。なんで姉さんだけ分かるの。俺、なんにも匂わないよ」
「わたくしの匂いが薄いからです」
「薄いと分かるの?」
「濃いものに囲まれていると、下の層が読めません。自分の匂いも同じです」
言いながら、少しだけ引っかかりました。
薄い、と、わたくしは十八年ずっと言われてきました。薄いから獣に近い、と。
けれど順番は、本当にそちらだったでしょうか。
「姉さん?」
「なんでもありません」
わたくしは帳面を開いて、新しい頁に書きました。
――第八号。改め、ウォクス。番犬種・雌・推定四歳。底の層に甘い匂い。焦がした蜜のような。底に金気。
書いているあいだ、屋根の上で板が軋みました。
見上げると、黒いものが伏せています。ノクスです。朝からずっとそこにいて、一度も降りてきません。風はいま西から吹いていて、あの仔は東側の端に伏せています。降りてこないのはいつものことですので、わたくしはまた頁へ目を戻しました。
夕暮れに、レオンハルト様がもう一度いらっしゃいました。
「その薬は、どこの」
「存じません」
「見当は」
「甘い匂いのする薬草は、そう多くありません。ただ、これは煮詰めてあります。煮詰めるということは、誰かが工房で作ったということです」
「拾って舐めたのではないと」
「はい。この仔は、盛られています」
レオンハルト様は少しのあいだ黙って、それから仰いました。
「……調べる」
その方が去られたあと、わたくしは帳面を膝に載せたまま、囲いの中の呼吸の音を聞いていました。
誰かが工房で煮詰めて、誰かが運んで、誰かがこの仔に与えた。三人いても足りません。
そこまで考えて、指が止まりました。
この字面を、わたくしは前にも書いた気がするのです。
焦がした蜜のような。底に金気。
わたくしは帳面を裏返して、いちばん古い頁から繰りはじめました。
お読みいただきありがとうございます。
この作品の魔獣は、匂いで敵と味方を決めます。ということは、自分の匂いを変えられるのが、この世界でいちばん質の悪い攻撃になります。刃物より静かで、証拠が残らない。エルナが怒るとしたら、たぶんこういうところです。
次回、エルナは十年分の帳面を最初の頁から繰ります。出てくるのは、七年前の秋の一行です。




