第13話 匂いは、嘘をつけません
ウォクスの吠え声が止まったのは、三日目の昼でした。
やったことは三つだけです。水を一日に四度替えたこと。囲いの板を外して風を抜いたこと。それから、藁を毎朝入れ替えたこと。
どれも、劇的ではありません。
「ほんとにそれだけで治るの」
柵の外から、ティムが不服そうに言います。日当をもらっている手前、もっと大変な仕事を期待していたようでした。
「治してはおりません。薄めているだけです」
「同じじゃない?」
「薬は抜けます。時間が経てば、この仔の匂いはこの仔のものに戻ります。わたくしがしているのは、戻るまでのあいだ、この仔を怖がらせないことだけです」
ウォクスは囲いの隅で、鼻先を藁に埋めて寝ていました。喉が潰れかけているので、いまは吠えたくても声が出ません。
わたくしは膝をついて、そっと息を吸いました。
甘い層は、まだあります。けれど薄い。三日前は毛のいちばん上まで甘さが染みていたのに、いまは地肌の近くに沈んでいます。
その上に、この仔本来の匂いが戻りはじめていました。乾いた麦わらと、日向と、少しだけ埃っぽい獣の匂い。門の前で日がな一日座っている番犬の匂いです。
「戻ってきましたね」
声をかけると、灰色の耳が半分だけ持ち上がりました。
午後は、帳面の日でした。
十年分の記録帳です。革表紙はもう角が丸くなっていて、頁の縁は指の脂で黒くなっています。父には「そんな汚いものを持ち歩くな」と言われ続けたものでした。
わたくしは厩の前に台を出して、いちばん古い頁から順に繰りはじめました。
「なにしてるの」
「探しものです」
「なにを」
「甘い匂い、と書いた頁を」
ティムが台の向こうから覗き込んで、それから顔をしかめました。
「姉さん、これ字が細かすぎ。虫が這ったみたいだよ」
「急いで書いておりましたので」
「読める?」
「わたくしは読めます」
「……手伝おうか。俺、数は数えられるよ」
思わず顔を上げました。ティムは柵の外に立ったまま、耳の後ろを掻いています。
「では、日付だけ読んでいただけますか。頁の上に必ず書いてありますので」
「それならできる」
ティムは台のこちら側へ回ってきて、椅子に座りました。囲いのほうへは背を向けたままです。ウォクスは十歩も離れていないところで寝ているのですが、この子は決してそちらを見ません。
三日一緒に働いて、一度も柵の内側へは入っていませんでした。
「ティム」
「なに」
「囲いの中は、まだ怖いですか」
ティムの指が止まりました。
「……怖くはないよ。別に」
「そうですか」
「怖くはないんだけどさ」
ティムは頁を一枚めくって、それから小さな声で言いました。
「音がだめなんだ」
わたくしは待ちました。けれど続きは来ませんでした。ティムは日付を読み上げはじめて、それきり自分の話をやめてしまいました。
訊きませんでした。訊かれたくない話は、匂いと同じで、その人が薄めていい時にだけ薄まります。
屋根の上で、板が一度だけ軋みました。ノクスが場所を変えたのだと思います。台を出すと必ず真上まで来るのに、下りてはきません。
二人でやると早いものでした。
「四の月の九日」
「違います」
「六の月の二十一日」
「違います」
「秋の……これ、なんて書いてあるの」
「九の月です」
わたくしは頁を引き寄せました。
七年前の、九の月。王家の騎獣厩舎に、わたくしが入って三年目の秋でした。
その頁に、走り書きがありました。
――十四番の柵。新しい仔。甘い匂い。焦がした蜜のような。底に金気。噛まない。ただ、ずっと歩いている。
指が止まりました。
同じ字面です。三日前にウォクスの頁へ書いたものと、一字も違いません。
「あった?」
「……ありました」
「なんて書いてあるの」
「わたくしが十一のときに、王都の厩舎へ運び込まれた仔のことです」
わたくしは頁を繰りました。その仔の記述は、三日分しかありません。
三日目の欄に、こうあります。
――十四番、朝に引き取られる。どこへ行ったか厩番も知らず。
それきりでした。
名前を書いていないのは、名前がなかったからです。書類には番号しかなくて、わたくしはまだ十一で、勝手に名をつけていい立場ではありませんでした。
「姉さん、なんか顔が変だよ」
「そうですか」
「うん。怒ってる顔してる」
「怒っておりません」
嘘でした。
夕方、レオンハルト様が柵の外にいらっしゃいました。
供はマルタ様だけです。ウォクスは目を覚まして、囲いの真ん中に座って、こちらを見ていました。吠えません。
「静かだな」
「はい。薬が抜けてきましたので」
「三日で」
「あと二日か三日で、匂いは元に戻ると思います」
レオンハルト様は柵に手をかけて、しばらくウォクスを見ておられました。それから、その手をゆっくり内側へ動かしかけて――途中で止めました。
止めて、下ろされました。
「……閣下」マルタ様が横から言います。「あと指三本でしたよ」
「黙れ」
「はいはい」
わたくしは何も申し上げませんでした。この方の手が止まる位置は、いつも同じところです。獣まであと少しというところで、必ず止まる。
代わりに、帳面を差し出しました。
「これをご覧いただけますか」
「なんだ」
「七年前の、王都の厩舎の記録です」
レオンハルト様は頁を受け取って、細かい字を追われました。それから、三日前の頁と見比べます。
「同じ匂いか」
「同じ書き方です。わたくしは同じ匂いにしか、同じ書き方をしません」
「七年前にも、盛られた獣がいたと」
「そうとしか読めません」
マルタ様が口笛を吹きました。
「ちょっと待ちな。七年前ってことは、あのボルグって男が局長になるずっと前だろ。あいつ、まだ王都の下っ端じゃないのかい」
「存じません」
「だよねえ。……あんた、それ管理局に見せるつもりかい」
「いいえ」
「見せないの?」
「見せても、書類にはなりませんので」
わたくしは帳面を閉じました。
「これはわたくしの走り書きです。署名も印もありません。局へ持って行けば、明日には失くなっていると思います」
「うわ、言うねえ」
「そういうものです」
ティムが横から口を挟みました。
「じゃあ、意味なくない?」
「意味はあります」
わたくしは革表紙を撫でました。角の丸くなった、十年分の走り書きです。
「書類は、書いた人の都合で書けます。判定の欄も、所見の欄も。……けれど匂いは、嘘をつけません。この仔から甘い匂いがしたことと、七年前の仔から甘い匂いがしたことは、誰がどう書いても変わりません」
「変わらなくても、証拠になんないだろ」
「なりません。いまは」
わたくしはティムを見ました。
「ですから、数を増やします。次に甘い匂いのする仔が来たら、その日付も書きます。三つ並べば、日付のほうが喋りはじめます」
マルタ様が、ゆっくりと笑いました。
「……あんた、辺境の常識を三日で壊したと思ったら、今度は帳面で人を追い詰める気かい」
「追い詰めるつもりはありません。並べるだけです」
「同じだよ、それ」
レオンハルト様が帳面を返してくださいました。指が革表紙に触れたとき、その方が短く仰いました。
「――増やすな」
「え」
「次が来ないほうがいい」
そう言って、背を向けられました。
わたくしは、その背中に頭を下げました。まったくそのとおりだと思ったのです。次に甘い匂いのする仔が来るということは、どこかでもう一頭、自分の匂いに追われている仔がいるということですから。
その夜のことです。
ウォクスが顔を上げました。囲いの中で、耳がぴんと前を向いています。
わたくしも顔を上げました。屋根の上で、板が大きく軋みます。黒い影が立ち上がって、南のほうを向いていました。
風が変わっています。
村のある方角から、低い音が流れてきました。
地面が鳴るような、途切れない音でした。
お読みいただきありがとうございます。
エルナの帳面は、十年ぶんの走り書きの束です。中身は「東端から餌をやる」「今日の藁は湿っていた」といった、誰の役にも立たない記録ばかりでした。それが今日、初めて武器の形をしました。地味な習慣にしか出せない速度というものがあります。
次回、村の柵の前に松明が並びます。エルナは、自分がいちばんやってはいけないと言ったことをします。




