第14話 剣を下ろしてください。三十秒でいいので
鐘が鳴りはじめたのは、それから間もなくでした。
わたくしは帳面を懐に押し込んで、外套を引っかけて走りました。街道へ出ると、遠くで松明が動いています。村の柵の前です。
背後で、屋根から何かが下りる音がしました。
振り返らなくても分かります。ノクスです。並んでは走りません。いつも、五歩ほど後ろの、風の当たらないほうの側にいます。
村へ着いたときには、松明が半円に並んでいました。
柵が一枚、内側へ倒れています。太い丸太を組んだ柵です。それを押し倒したものが、その向こうにいました。
騎獣種でした。
肩の高さが人の背丈ほど、額から後ろへ二本の角。栗色の胴に、汗が筋になって光っています。前脚で地面を掻いて、掻いて、掻き続けていました。
「――フルグだ」
マルタ様の声でした。
「ご存じなのですか」
「街道の駅の騎獣だよ。荷を引かせるでかいのを三頭飼ってて、そのうちの一頭。あたしも去年、こいつの背で峠を越えた」
マルタ様が、槍を構え直します。
「三日前に駅から逃げたって聞いてたんだけどね」
「三日前」
「そう。……で、いま村の柵をやってる」
半円の中央に、黒い外套がありました。
レオンハルト様です。今日は、抜いた剣を構えていらっしゃいました。切っ先が下を向いていません。上がっています。
その意味は、わたくしにも分かりました。
「エルナ殿」
振り返らずに、その方が仰いました。
「下がっていろ」
「五分いただけますか」
「今日は駄目だ」
「なぜ」
「後ろに村がある」
それはそのとおりでした。半円の背後、松明の届かないところに家々が並んでいます。窓は閉まっていますが、閉まっているだけです。丸太の柵を一枚倒せるものの前では、板戸は板戸でしかありません。
わたくしは半円の内側へ入って、目を閉じました。
匂いの層を剥がします。
いちばん上は、松明の油。その下に人が三十人ほど。今日は魔除けの香がありません。あれから、討伐に香を持ち出す方はいなくなったそうです。
その下に、村。竈の煙、家畜、干した豆。
さらに下へ。夜の畑の、掘り返した土。
いちばん底に、フルグがいました。
汗。熱。荒れた息。角の付け根から出る、樹皮に似た匂い。ここまでは、走り疲れた騎獣の匂いです。
その底に、甘さがありました。
焦がした蜜のような。底に、細い金気。
「――閣下」
わたくしは、目を開けました。
「この仔も、盛られています」
半円がざわつきました。マルタ様が、息を呑みます。
レオンハルト様の切っ先は、上がったままです。
「鎮まるのか」
「時間があれば」
「無い」
「はい」
地面を掻く音が速くなりました。フルグの首が振られて、角が空を切ります。誰かに向かっているのではありません。この仔は、誰も見ていないのです。
三日、自分の匂いに追われている。
ウォクスは吠えました。この仔は、走っています。走って、走って、どこまで行っても背中から敵の匂いがして、それでとうとう、目の前にあった柵を壊したのです。
わたくしは一歩、前に出ました。
「エルナ殿」
「あの仔は、距離を測っておりません」
「なんの話だ」
「以前わたくしは、獣に手を伸ばしてはいけないと申し上げました。伸ばした手を獣は測って、届くと分かれば噛むしかなくなるからです。だから待つのだと」
「そう聞いた」
「あれは、獣がこちらを見ているときの話です」
わたくしは、フルグの目を見ました。松明の光が瞳に映っているのに、その光を追っていません。
「見ていない仔は、待っても選べません。こちらから匂いを届けるしかないのです」
「届けるとは」
「触れます」
半円のどこかで、槍の柄が鳴りました。
「わたくしの匂いは薄いのです」わたくしは続けました。「薄いから、獣は敵と判定しません。あの仔の鼻先に手を置ければ、いま嗅いでいる匂いの上に、敵でない匂いが一枚乗ります。……層を、一枚だけ替えます」
「失敗したら」
「その場合は、閣下の剣が早いと思います」
レオンハルト様は、答えませんでした。
わたくしはもう一歩、前に出ました。
「剣を下ろしてください」
半円の全員が、こちらを見ました。
「三十秒でいいので」
風が、松明の炎を横へ倒しました。
レオンハルト様は動きません。剣も、目も。この方の判断がどこにあるのか、わたくしには読めませんでした。読めるのは匂いだけで、この方はいつも鉄と革の匂いしかさせないのです。
やがて、その方が息を吐かれました。
「――理由を言え」
「あの仔は、まだ誰も噛んでおりません」
「柵を壊した」
「柵は噛みません」
返事は、すぐには来ませんでした。
それから、切っ先が下がりました。
ゆっくりでした。上がっていたものが、腰の高さまで落ちて、それから地面のほうを向いて。
「――下ろせ」
マルタ様が、声を上げました。
「閣下! 三十人の前で言うことですか、それは!」
「下ろせ。全員だ」
「後ろに村があるって、さっきご自分で」
「俺が前に出る」
レオンハルト様は剣を提げたまま、半円の一歩内側へ出られました。構えずに、ただ立って。
槍が、一本ずつ下がっていきました。
わたくしは歩きました。
十歩。八歩。六歩。
地面を掻く音が止まりました。フルグの頭が持ち上がって、二本の角がこちらを向きます。首を振れば、わたくしの背丈など一撃です。
四歩。
鼻の穴が開いて、閉じました。
三歩。
わたくしは右手を上げました。手の甲を前にして、指を伸ばして。爪を見せないように。ゆっくりと。
二歩。
息がかかりました。熱い息です。甘い匂いが、いちばん濃いところから流れてきます。
一歩。
手の甲が、鼻先に触れました。
濡れていて、震えています。
「……ひとつ」
わたくしは、数えはじめました。
「ふたつ、みっつ」
角の先が、髪をかすめました。動かずにいます。動いてはいけないのです。この仔がいま嗅いでいるのは、三日ぶりの、敵ではない匂いです。
「ななつ、やっつ」
背後で、誰も息をしていませんでした。
「じゅうよっつ、じゅうご」
フルグの首が、下がりはじめました。
「にじゅう」
膝が折れます。前脚から。
「にじゅうご」
胴が地面につきました。角が土に触れて、荒い息が砂を吹きます。喉の奥から、長い音が抜けました。唸りではありません。息の音です。
「――さんじゅう」
わたくしは、手を離しませんでした。
誰かの槍が地面に落ちて、それが合図のように、松明が近づいてきました。
「生きてるかい」マルタ様の声が上ずっています。
「はい。眠ります。三日走っておりますので」
「あんた、いま何やった?」
「匂いを、一枚渡しました」
立ち上がろうとして、視界が斜めになりました。
耳の奥で、細い音が鳴っています。嗅ぎすぎたときのものです。今夜は、層が多すぎました。三十人と、村と、畑と、その底の一頭ぶん。全部を剥がして、いちばん下まで潜ったのです。
わたくしは片手で耳を押さえて、その場に膝をつきました。松明の火が二つに割れて見えます。
「おい、預かり屋!」
「大丈夫です。少し、取りすぎただけで」
肩に、重いものが掛かりました。
外套でした。鉄と革の匂いがします。
レオンハルト様は何も仰いませんでした。ただ、わたくしが立ち上がるまで、横に立っておられました。手は差し出されません。この方は、そういう方です。
少し離れた暗がりに、黒いものが座っていました。
こちらを見ています。近づいてはきません。風はいま村から吹いていて、あの仔は風下にいました。
フルグの寝息を聞きながら、わたくしは帳面を開きました。
新しい頁に、日付と、匂いと、名前を書きます。
二つ目です。
「マルタ様」
「なんだい」
「この仔は、三日前に駅から逃げたと仰いましたね」
「そう聞いてる」
「その前の日に、何かありませんでしたか」
マルタ様がしばらく考えて、それから、顔をゆっくりとこちらへ向けました。
「……検分だ」
「検分」
「管理局が来て、駅の騎獣を三頭とも検分していった。危険個体の登録がどうとかで。ああ、そうだよ、四日前だ」
わたくしは、炭を止めました。
なぜこの仔だったのでしょう。
駅には三頭いたはずです。荷を引く大きな仔が三頭。その中で、この仔だけが選ばれました。誰かが選んだのです。
選ぶには、理由が要ります。
お読みいただきありがとうございます。
第3話でエルナは「手を伸ばしてはいけない」と言いました。今回はその逆をやっています。手順を持っている人の強さは、手順を守れることではなくて、どこで手順が効かなくなるかを知っていることだと思うのです。
そして、剣を下ろす側にも同じことが言えます。あの人が三十人の前で下ろしたものは、たぶん剣だけではありません。
次回、二頭ぶんの日付が並びます。並んだ日付は、そろそろ喋りはじめます。




