第15話 この暴走は、誰かが起こしました
朝、囲いの中には二頭いました。
ウォクスは柵ぎわで日を浴びていて、フルグは奥で寝ています。角の先が藁に埋まって、腹がゆっくり上下していました。二頭とも、匂いはまだ甘いままです。
水を替えて、藁を足して、台に帳面を広げました。
「はい、これ」
マルタ様が紙を一枚、台の上に放ります。街の掲示を写してきたものだそうです。
――昨夜、村を襲いし危険個体は、魔獣管理局の指揮により速やかに鎮圧されたり。
「鎮圧」
「そう書いてある」
「昨夜、管理局の方はいらっしゃいましたか」
「一人もいないよ」
マルタ様は台の縁に腰かけて、実に楽しそうな顔をなさいました。
「でね。村の連中がもう怒っててさ。三十人が松明持って立ってたんだ、誰が何をしたかなんて全員が見てる。今朝から井戸端で『鎮圧されたのは俺たちの目か』ってのが流行ってる」
「そうですか」
「あんた、悔しくないのかい」
「掲示は掲示ですので」
わたくしは帳面のほうへ向き直りました。マルタ様が「つまんないねえ」と仰います。
昼前に、レオンハルト様がいらっしゃいました。
その方は台の横に立たれました。わたくしは帳面を開いて、頁を三つ並べました。
「ご覧いただけますか」
「なんだ」
「日付です」
いちばん左が七年前の秋。王都の厩舎に運び込まれ、三日で連れ出された十四番の仔。
真ん中が、ウォクス。
右が、フルグ。
「この三つに、同じ匂いが書いてあります」
「甘い花か」
「はい。焦がした蜜のような甘さに、底の金気。同じ書き方をしているのは、同じ匂いだからです」
レオンハルト様は頁を追われました。
「ウォクスは、管理局が捕らえてから三日吠え続けました。フルグは、管理局の検分の翌日に駅から逃げています」
「検分の翌日」
「マルタ様に伺いました。駅には三頭おりました。検分を受けたのも三頭です。逃げたのは一頭だけです」
「三頭のうち一頭」
「はい」
わたくしは炭を置きました。
「獣は、薬を自分では飲みません。甘くしてあるということは、飲ませるために甘くしたということです。煮詰めてあるということは、工房で作ったということです。……そして三頭のうち一頭だけが選ばれたということは」
言いながら、少し息を吸いました。
この先を言葉にするのは、初めてです。
「――この暴走は、誰かが起こしました」
ティムが手を止めました。
「え。じゃあ、村の柵が壊れたのも」
「起こした人がいます」
「誰が」
「存じません」
「なんで分かんないのに言えるの」
「分かることだけを言っております」
わたくしは頁の端を指でなぞりました。
「わたくしに分かるのは、この三頭が同じ匂いをさせていたことと、その日付がどこに寄っているかだけです。誰がやったかは、匂いには書いてありません」
マルタ様が低く口笛を吹きました。
「……七年前は、あの局長はまだ下っ端だよ」
「はい」
「じゃあ七年前に薬を煮てたのは、別のやつだ」
「そうなります」
レオンハルト様が、短く仰いました。
「蜜か」
「いいえ。蜜でしたら、蝋の匂いが残ります。これは花を乾かして、煮詰めたものです」
「花の名は」
「まだ分かりません。ただ、甘さの奥に樹脂がありません。この辺りの花は、乾かすと必ず樹脂の匂いが出ます」
「――この領の花ではないな」
その方は、頁から目を上げられました。
「乾かして甘くなる花は、南だ。冬が来ない土地でしか咲かん」
「南」マルタ様の声が、少し低くなりました。「……南で、工房を持てる家といったら、そう多くないですよ、閣下」
「言うな」
「言いませんけどね」
マルタ様は肩をすくめて、それきり名前を口にしませんでした。
午後、わたくしは立ち上がりました。
「フルグが逃げてきた道を、見てきます」
「いまからかい」
「日が暮れると匂いが落ちますので」
駅と村のあいだには、水場がひとつあります。荷を引く騎獣は必ずそこで飲みます。三頭のうち一頭だけを選ぶのなら、水ではなく、その仔の桶に入れたはずです。桶なら、いまも残っています。
台に手をついて足を踏み出したところで、地面が横に傾きました。
「おっと」
マルタ様が肘を掴んでくださいます。
「昨夜の今日でしょうが。耳、まだ鳴ってるんじゃないのかい」
「少しだけです」
「歩いて一刻半だよ、あそこは」
「では、急ぎます」
「聞きなさいって」
そのときティムが、空を見上げて言いました。
「ねえ姉さん。ノクスってさ、なんでいつも屋根の上なの」
わたくしは顔を上げました。
黒い影が、屋根の東の端に伏せています。朝からずっとそこです。荷車ほどの大きさの獣が、屋根板の上で身を縮めて、いちばん端に寄っている。
「近づきたくないのかな」
「……いいえ」
わたくしは、風を確かめました。
今日は西風です。あの仔は東の端にいます。
昨夜、村では風が村から吹いていて、あの仔は暗がりの風下に座っていました。使者が来た日は東風で、あの仔は西の柵の外にいました。屋根の上にいるときも、必ず、わたくしのいるほうから風が吹く側です。
十日ぶん、思い返しても一度も外れていませんでした。
「姉さん?」
「……この仔は」
声が、うまく出ませんでした。
「わたくしに、自分の匂いを届けないようにしているのです」
ティムが屋根を見上げました。
「なんで」
「わたくしが、匂いで診るからです」
いつからでしょう。わたくしが誰かの匂いを剥がすたび、この仔は自分の一枚を邪魔にならない場所へ運んでいたのです。
屋根の上で、板が軋みました。
黒いものが、下りてきました。
軒を伝って、地面に降りて、四つの足が土を噛みます。ノクスはまっすぐこちらへ歩いてきました。
三歩手前で止まって、それから――前脚を折りました。
肩が下がります。胸が地面につきます。
伏せたまま、動きません。
「……閣下」マルタ様の声がします。「これ、あたしの目がおかしいんですかね」
「黙っていろ」
わたくしは、意味を測りかねていました。
この仔が自分から近づいてきたことは、これまで一度もありません。柵の外か、屋根の上か、暗がりの風下か。届きそうで届かない場所にだけ、この仔はいました。
鼻先が、伸びました。
わたくしの手の甲を、押しました。一度だけです。
「――ノクス」
尾が、一度だけ土を打ちました。
わたくしは膝をついて、それから、黒い背に手を置きました。厚い毛です。日に温められて、内側まで熱がこもっている。
「乗れって言ってるよ、姉さん」ティムが震える声で言いました。「たぶん」
「……そのようですね」
脚をかけました。背の高さはわたくしの胸ほどあります。毛を掴んで、体を引き上げて、肩の後ろにまたがりました。
ノクスが立ち上がります。
視界が、一気に上がりました。
走り出した瞬間に、匂いが変わりました。
風が正面から来ます。ノクスは風上へ向かって走っていて、つまり、わたくしはこの仔の匂いの中にいました。
初めてでした。
雨のあとの岩の匂い。夜の下草。古い血の名残りが、ほんの少し。それから、屋根の上でずっと日に温められていた毛の匂いです。日向の匂いでした。
街道の柵が飛んでいきます。畑が流れます。ティムの叫ぶ声が後ろへ千切れて、聞こえなくなりました。
わたくしは毛に顔を伏せました。
十年、王都の厩舎で十四頭の匂いを覚えて、誰にも訊かれませんでした。「獣臭い」と言われて、そのとおりなので否定しませんでした。
その匂いを、この仔はずっと、届かないところへ避けていたのです。わたくしの邪魔にならないように。
いま、全部が届いています。
風が目に入って、視界が滲みました。風のせいです。たぶん。
丘を登ります。ノクスの背が波打って、四つの足が土を蹴るたび、体ごと押し上げられます。頂上で、この仔は速度を落としませんでした。
水場は、丘の裏の窪地にありました。
桶が三つ並んでいます。左の桶の縁に、指を触れて嗅ぎました。
甘い。
いちばん端の桶だけです。真ん中と右は、水と苔の匂いしかしません。
草むらに、硝子の破片が落ちていました。小さな瓶の首です。拾って嗅ぐと、鼻の奥に貼りつくような甘さが来ました。煮詰めたものが乾いて、瓶の内側に膜になっています。
わたくしは布に包んで、懐に入れました。
匂いは、硝子にも残ります。
顔を上げると、ノクスが窪地の縁に立って、わたくしのほうを見ていました。風上に立ったままです。
「……戻りましょうか」
丘の上まで登り返したところで、この仔が足を止めました。
わたくしも、街道のほうを見ました。
夕日の中を、馬車が一台。
黒塗りの、大きなものです。四頭立て。前後に騎馬が付いていて、その数がおかしい。荷を守る数ではありません。人を守る数です。
扉に、紋章が入っていました。
辺境伯家のものではありません。ガルド領のどの家のものでもない、見たことのない紋です。
ノクスの喉が、低く鳴りました。
お読みいただきありがとうございます。
あの黒い仔がずっと屋根の端にいた理由を、ここまで引っ張らせていただきました。近づかないことが気遣いである、という愛し方をする獣を、一度書いてみたかったのです。乗せるというのは、この仔にとっては匂いを全部渡すことでした。
なお当預かり屋、藁は毎朝入れ替え、干し肉は一頭あたり日に三度が相場でございます。ブックマークや評価をいただけますと、おおむね二頭ぶんの藁代に化けて、次の仔の寝床になります。ノクスの分は、本人(本狼)が「要らん」という顔をしておりますが、いちばん食べます。
南から来たあの馬車が誰を乗せているのか、辺境伯領ではまだ誰も知りません。次回、預かり屋の門を先にくぐるのは街の商会です。ご相談は、門から一歩も出なくなった荷役獣について。




