第16話 鞭の音を覚えている荷役獣
預かり屋に、初めて馬車で客が来ました。
荷馬車ではありません。幌のついた客用の一台です。降りてきたのは仕立てのいい上着の男の方で、柵を見て、積んだ藁を見て、それから屋根の上を見上げたところで動かなくなりました。
屋根の上には、黒いものが伏せています。
「……あれは」
「ノクスです。うちの子ですので、お気になさらず」
「うちの、子」
男の方は帽子を取って額を拭き、それから名乗られました。ヘルツ商会の番頭で、オットーと仰るそうです。街の荷を半分ほど動かしている商会だと、あとでティムが教えてくれました。
「実は、うちの荷役獣が動かんのです」
「動かない、といいますと」
「門から出ません。一歩も」
厩から引き出すところまではいつもどおりで、飼い葉も食べるし、水も飲む。ところが荷を積んで門まで来ると、そこで脚が止まる。押しても、引いても動かない。
「六歳の雄で、ヴィムといいます。去年までうちで一番働いた仔です」
「いつからですか」
「三週間ほど前から」
「そのあいだに、変わったことは」
オットー様は少し考えて、首を振られました。
「なにも。……ああ、御者が替わりましたが、それだけで」
「替わられた」
「先月、前の男が辞めましてね。今は若いのが乗っております。腕は落ちますが真面目です」
「その方は、鞭をお使いになりますか」
「うちは鞭を使わせません」オットー様の声が硬くなりました。「商会の決まりです。獣は商売道具ですから、傷めては元も子もない」
道具、というところで少しだけ息を止めました。この街では、普通の言い方です。わたくしは帳面を取って立ち上がりました。
「参ります。見るだけなら五分ですので」
ヘルツ商会の厩舎は、預かり屋の三倍ほどありました。
石畳が掃いてあって、飼い葉桶も、水桶も新しい。悪い場所ではありません。奥の仕切りの中に、その仔がいました。
肩の高さがわたくしの背丈ほど。額から後ろへ、太い角が二本。荷役獣としては上等な体つきで、毛艶も落ちていません。近づくと、耳だけがこちらへ倒れました。
目を閉じて、息を吸います。
いちばん上は石畳と、乾いた飼い葉。その下に人。若い男の方が一人と、壁に染みついた古い汗。さらに下に獣。
膿の匂いはしません。熱もない。関節の奥から滲む、あの鈍く重い匂いもない。
脚ではありません。
「餌でも寝床でもありませんね」
「では、なんです」
「まだ分かりません。動くところを見せてくださいますか」
若い御者の方が手綱を取りました。ヴィムは素直に厩を出て、荷を積まれて、石畳を歩いて、門の五歩手前まで来ました。
そこで匂いが変わりました。
汗に、酸っぱいものが混じります。怖がっているときの匂いです。人の鼻には届かない濃さですけれど、層としてははっきり出ます。
ヴィムの前脚が止まりました。首が下がって、角の先が地面を向きます。御者の方が舌を鳴らして、手綱を軽く振りました。
革が鳴りました。パン、と。
その瞬間、ヴィムの背中の毛が波のように逆立ちました。
「……もう一度、鳴らしてくださいますか」
「え?」
「その音です。手綱を打ち合わせる音」
御者の方が困った顔で、もう一度鳴らします。ヴィムが半歩下がって、荷台が軋みました。
「結構です。ありがとうございました」
わたくしは柱に手をついて、それからオットー様を振り返りました。
「前の御者の方は、門を出るときに何をなさっていましたか」
「……鞭を」
返事が遅れました。
「鞭を鳴らしておりました。当ててはおりません。合図です。音を鳴らすだけで決して当てるなと、私も何度も言いつけて」
「腹の下を見せていただけますか」
膝をついて、ヴィムの前脚のあいだへ手を入れました。毛は厚く、外からは何も見えません。指の腹で撫でていくと、毛の流れの乱れている場所がありました。指三本ぶんほどの筋が、二本。皮膚の下で治りきった古い痕です。
オットー様は何も仰いませんでした。
「痛みは残っておりません」
「では、なぜ」
「音が残っております」
ティムが柵の外から覗き込みました。
「音って、そんなに」
「傷は塞がりますけれど、音は塞がりません」わたくしは立ち上がりました。「この仔は、鞭が当たる前に必ず鳴る音を、覚えています。今の御者の方は鞭をお持ちでない。けれど手綱を打ち合わせる音は、ほとんど同じなのです」
「じゃあ、あの音を聞くたびに」
「これから当たると思っています。三週間、毎日」
ティムが黙りました。それから柵を握ったまま、小さな声で言いました。
「……おれ、蹄の音が怖いんだ」
「存じております」
「知ってたの」
「はい。鐘が鳴った夜、あなたは走れましたので」わたくしはティムの隣へ立ちました。「怖いのは獣ではなくて、音でしょう」
ティムは返事をしませんでした。かわりに柵から一歩だけ内側へ入って、そこで止まりました。それ以上は来ませんでしたけれど、一歩は一歩です。
お願いした処置は三つです。
ひとつ。革の手綱を麻に替えること。麻は、打ち合わせても鳴りません。
ふたつ。合図を音から手に替えること。門の手前で御者の方が降りて、首の付け根に手のひらを置いて、そのまま並んで歩く。
みっつ。今日の一回だけ、荷を空にすること。
「空で門を出しても商売になりませんが」
「なりません。ですので今日は商売をお休みしてください」
「……はあ」
「門の外で何も起こらない日を、一度だけ作ります。覚えているものは消せませんので、上から新しく書くしかないのです」
麻の手綱に替えるのに半日かかりました。
夕方、若い御者の方がヴィムを引いて、また門の五歩手前まで来ました。今度は誰も舌を鳴らしません。御者の方は手綱を肩にかけて、ヴィムの首の付け根に手のひらを置きました。
脚は止まったままです。
わたくしは反対側に立って、同じ高さに手を置きました。
「大丈夫です。今日は何も鳴りません」
角の先が、ゆっくり持ち上がりました。
前脚が一歩。石畳を叩く音がして、後ろ脚が続いて、門の柱がヴィムの肩を過ぎていきました。
外は街道です。荷は積んでいません。誰も鳴らしません。
ヴィムは三歩ほど進んだところで立ち止まって、首をぐるりと回してこちらを見ました。それから額をわたくしの肩へ押しつけて、長い息をひとつ吐きました。
肩が濡れましたけれど、たいしたことではありません。
門の外に、馬が二頭止まっていました。
マルタ様が鞍の上から手を振ります。その隣に黒い外套。
「見てたよ、預かり屋さん。商会の門が開いた」
「お騒がせしました」
「騒いでない。静かすぎて、うちの閣下が眠るかと思った」
「……眠っていない」
レオンハルト様はそれだけ仰って、ヴィムを見ました。
「番頭が正式に依頼料を置いていったよ」マルタ様が鞍から身を乗り出します。「街の商会が獣に金を払ったんだ。あたしが知るかぎり、この領で初めてだね」
「相場が分からず、言い値のままいただいてしまいました」
「あんた、そこは強気でいきな」
帰り道、広場に人だかりがありました。
掲示板の前です。何人もが背伸びをして、真新しい紙を覗き込んでいます。紙の下には、赤い印が押してありました。魔獣管理局の印です。
ティムが背伸びをして、それから諦めてわたくしを見上げました。
「姉さん、なんて書いてあるの」
わたくしは人の肩ごしに、いちばん上の一行だけを読みました。
『危険個体登録制のお知らせ』
隣で、マルタ様が鞍の上から低く言いました。
「……あの野郎、字で来たか」
お読みいただきありがとうございます。
この話でいちばん書きたかったのは「傷は塞がるが、音は塞がらない」というところでした。ヴィムの腹の痕はもう痛みません。痛まないのに動けない。獣にかぎった話でもない気がして、書きながら少し手が止まりました。
なお、麻の手綱は本当に鳴りません。革は鳴ります。エルナがこういう細かいことばかり知っているのは、十年ぶんの理由があります。
次回、街に貼り出された紙の全文が出ます。四条ありまして、悪いのは四条目です。




