第59話 ウンブラは、振り返りました
裁定の朝は、よく晴れていました。
広間には昨日と同じ顔ぶれが並びました。昨日と違って、香炉はひとつもありません。石と人と、開いた窓から入る春の匂いだけです。広間というものは本当はこういう匂いなのだと、わたくしは初めて知りました。
「ルーペルト」
陛下の声は、短いものでした。
「公職のすべてを解く。調香室は閉じ、窯は潰す。谷の獣は王命により、預かり屋の手に移す。……おまえは北の離宮で、沙汰があるまで過ごせ」
「承知いたしました」
「それから、危険個体登録の制は改める。判をひとりで押せる条文は、条文のほうが危険だ」
殿下は最後まで、姿勢のよい方でした。一礼して、衛兵の方たちに挟まれて広間を横切っていきます。
その途中で、一度だけ足が止まりました。
中庭に、ウンブラがいたからです。
預かりの続きで、わたくしが連れてきておりました。裁定が終われば行き先の決まる仔でしたので、決まる場にいたほうがよいと思ったのです。
「ウンブラ」
殿下が、名前を呼びました。
この方は、名前を間違えない方です。人の名前も獣の名前も、一度も。最初にお会いした日から、それだけはずっとそうでした。
ウンブラは、振り返りました。
耳が殿下のほうへ回ります。首が回ります。あの深い灰色の目が、まっすぐに殿下を見ました。誰の声かは分かっているのです。八年、隣にいた方の声です。
それから、ウンブラは向き直って、歩き出しました。
殿下のほうへ、ではありません。中庭の端の風の通る日陰のほうへです。わたくしが三日かけて整えた、藁と水桶のあるほうへ。そこまで歩きました。脚を折りました。伏せました。
それだけでした。
唸りもせず、逃げもせず、ただ自分の寝床へ帰っただけです。獣の答えというものは、いつでもこういう形をしています。人の言葉に訳すことは、わたくしにはできません。訳さないのが、わたくしの仕事です。
殿下は、長いあいだウンブラを見ていらっしゃいました。
「……そうか」
それだけ仰って、歩いていかれました。振り返ったのは獣のほうで、振り返らなかったのは人のほうでした。
昼から、わたくしたちは谷の仔たちの引き移しにかかりました。
レオンハルト様は朝から谷にいらして、柵の壊れたところを直しておいででした。裁定を聞きにいらっしゃらなかった方が、槌だけ持って先に谷にいたのです。
「閣下。沙汰、お聞きにならなくてよかったのですか」
「結果は変わらん」
「三語です」
「……柵が先だ」
「はい。柵が先です」
この方の言葉の使い方が、わたくしはだんだん分かるようになってきました。聞かないのではなく、聞くまでもないことに時間を使わないのです。空いた時間は、手が動くことに使います。今日は柵でした。
「十六頭ぶん、名簿を作りました」
ティムが板を抱えて走ってきます。
「読み上げてください」
「体の戻った仔が七頭。これは厩舎の空き房へ。まだ時間のかかる仔が八頭。ブルーノさんの牧へ。それから……ええと、いちばん年寄りの一頭」
「ウェスペルですね」
「はい。ウェスペルも、牧ですか」
「牧です。あの仔は、もう働かなくてよいのです」
「行き先は、シグルの隣の房だそうです」
「隣って、決めてあるんですか」
「ブルーノさんが決めてくださいました。年寄り同士、話が合うだろうと」
「獣同士って、話すんですか」
「しません。並んで、それぞれ勝手に草を食べます。それを話が合うと言うのだそうです」
「……いいですね、それ」
「はい。とても」
ウェスペルを荷車に乗せるとき、レオンハルト様が手綱を持ちました。老いた獣は嫌がりもせず、荷台で脚を折って、あの方の匂いのするほうへ鼻先を向けていました。八年ぶんの並び方でした。
「牧まで、俺が行く」
「お願いします」
「……見送りたいだけだ」
「はい。存じております」
夕方、厩舎に寄りました。
十四頭が、うるさくなっていました。藁を掻く音。桶を鳴らす音。鼻を鳴らす音。ハンスは通路の真ん中に立って、その騒がしさを目を細めて聞いています。
「よい音です」
「はい。よい音です」
「うるさいのが、こんなに嬉しいものとは思いませんでした」
「エルナ様がいた頃の音に、戻りました」
「いいえ、ハンス。戻ったのではありません」
「と、仰いますと」
「あの頃は、わたくしが毎朝、順番と風向きを直していました。いまは帳面を読んだ方たちが直しています。前より、よい厩舎です」
通路の掃除は、あの痩せた下働きの方の仕事になっていました。餌の順を書いた紙が、壁の釘に掛かっています。ハンスの字ではありません。角の擦れた、書き写した字です。東の端の房の前でその方は桶を置いて、順番を紙で確かめて、それから餌を入れていました。
わたくしは、何も申しませんでした。順番が合っていたからです。
十四頭のいちばん奥で、レクスが首を上げました。
「明後日だそうです」
ハンスが仰いました。
「陛下がレクスに鞍を載せる日です。厩舎の再建成ったことを、お披露目なさると。……エルナ様。あの日、鐙を持つのは、わしの役でようございますか」
「ハンスの役です。二十年、そうでしたので」
「……はい。はい、そうでした」
「緊張なさいますか」
「します。しますとも。この歳で、手が震えたらどうしましょう」
「震えたら、レクスが待ってくれます。あの仔は、いまはもう待てる仔です」
「そうでした。そうでしたね」
帰り道、マルタ様が大きく伸びをなさいました。
「終わったねえ、だいたい」
「はい。だいたい」
「残ってるのは何だい」
「明後日の鞍と、それから、店をどうするかです」
「ああ」
マルタ様は笑って、それきり何も訊きませんでした。
「訊かないのですか」
「訊かないよ。あんたの店の話は、あんたが決めてから聞くほうが面白いんだ」
「面白さの話でしょうか」
「あたしにとってはね」
「マルタ様は、どちらでもよいのですか。王都でも、辺境でも」
「あたしは閣下の副官だからね。閣下の行くほうへ行くよ。で、閣下はあんたの行くほうへ行くだろうから、つまり、決めるのはあんたなのさ」
「……責任の重いお話です」
「いまごろ気づいたのかい」
荷車の上の看板は、王都に着いた日から、まだ一度も掛けられていません。掛ける場所を決めていないからです。
物置の屋根の上で、ノクスが春の夜の匂いを嗅いでいました。
今夜は、辺境の方角でした。
ウンブラは戻りませんでしたが、逃げもしませんでした。自分の寝床へ帰っただけです。八年ぶんの答えとしては、あれがいちばん正確なのだと思います。
厩舎がうるさくなりました。よい厩舎は、うるさいのです。
次回、レクスに鞍が載ります。そして預かり屋は、看板を掛ける場所を決めなければなりません。




