第60話 居場所ということ
レクスに鞍が載る朝、厩舎の前には人垣ができていました。
鐙を持つのはハンスです。二十年ぶんの手つきで革を確かめました。それからレクスの首すじに、ひとこと何か言いました。何と言ったのかは聞こえませんでした。ああいうひとことは、聞こえないのが正しいのです。
陛下が鞍に上がられて、レクスは中庭をひと回りしました。
蹄の音が石畳に規則正しく響きます。よい音でした。歩幅が揃っているときの音です。人垣から歓声が上がりました。レクスの耳がそちらへ半分回りました。それでも歩幅は乱れませんでした。
「見事」
降りた陛下は、そう仰いました。それから、わたくしのほうへ歩いてこられました。
「預かり屋。王都に残れ。厩舎の隣に店を出せ。王家が建てる」
人垣が、しんとしました。
「ありがたいお話です。ですが、わたくしの店は辺境にございます」
「王都の獣は、誰が診る」
「ハンスがおります。帳面の読み方は、もうお渡ししました。それから、餌の順を覚えた方が、もうひとり」
陛下は人垣の端のほうを一度ご覧になって、何も仰いませんでした。壁の釘の紙のことは、ご存じのようでした。
「足りぬときは」
「いつでもお呼びください。荷車で六日ですので」
「六日は遠い」
「六日で来る店だと思っていただければ、近うございます」
陛下は笑われました。それから、供の方が持ってきた小さな箱を、ご自分の手でお開けになりました。
中に、焼き印がひとつ入っていました。
「王家の紋だ。看板の隅にでも押しておけ」
「……よろしいのですか」
「あれの正しい使い道を、ずっと考えていた。瓶の底に隠れているよりは、看板の上で日に当たっているほうがいい」
「では、遠慮なく。ただし隅です。真ん中は、屋号の場所ですので」
「隅でよい。紋というものは、本来そういうものだ」
わたくしは、両手でお受けしました。帳面の『紋の、正しい使い道。未定』の行に、今夜、線を引くことになります。
出発は、その二日後になりました。
荷車は来たときと同じ二台です。マルタ様の予言どおり、荷は増えました。
「桶が四つ。薬草の箱がふたつ。王都の菓子がひと包み。……ティム、菓子はあんたの膝の上じゃなくていいんだよ」
「割れたら大変です」
「割れる前に減るほうが心配だね」
「減りません。数えてますから」
「あたしも数えてるからね」
出発の朝、門の前にハンスが立っていました。
「お見送りに、と思いまして」
「ハンス。厩舎は」
「朝の順は済ませました。ちゃんと東の端からです」
「レクスの窓は」
「二枚、風の向きに。……エルナ様。わしはもう、伺いません。伺わなくても回るように、教わりましたので」
「はい。そのとおりです」
「そのかわり、帳面に困ったことが書き溜まったら、六日かけて送ります。読んでいただけますか」
「読みます。往復で十二日ですが、帳面は待てるのが取り柄です」
「レクスは今朝、機嫌よく水を飲みました。毛づやも、すっかり戻ってまいりました」
「では、大丈夫です。ハンス、厩舎をお願いします」
「はい。……はい。お任せください」
ハンスは深く頭を下げました。それから、荷車の上の看板にも同じだけ頭を下げました。
門を出る間際、屋敷に手紙が一通届きました。
見たことのない色の封蝋でした。差出しは東の隣国の、獣の医術を司る方だそうです。開けると、丁寧な字でこう書いてありました。
『貴国の預かり屋の評判を聞きました。獣の診かたを、教えていただくことはできませんか』
「姉さん、行くんですか。隣の国」
「行きません。帰るのです」
「じゃあ、断るんですか」
「断りもしません」
「どっちなんですか、それ」
「預かるのです。手紙も、預かれます」
わたくしは手紙を、帳面のいちばん後ろに挟みました。
「冬を越したら、考えましょう」
「姉さんの帳面、そういうのばっかり増えていきますね」
「はい。それが商売ですので」
帰り道の丘に着いたのは、夕方でした。
来たときにノクスが立ち止まった、あの丘です。振り返ると、王都が夕日で銅色になっていました。来たときと同じ色です。違って見えるのは、街のほうではなく、こちらの側なのでしょう。
「エルナ」
レオンハルト様が、隣にいらっしゃいました。
「はい」
「……隣にいろ」
三語でした。
わたくしは、その三語を、たぶん一生ぶん受け取りました。この方の言葉は数が少ないぶん、一語がとても重いのです。八年ぶんとか、十年ぶんとか、そういう重さです。
「はい。預かり屋つきですが」
「知ってる」
「桶と藁も、ついてまいりますが」
「積んである」
「それから、屋根の上に一頭」
「詰めてもらう」
「話が早くて、助かります」
「……そうか」
振り向くと、荷車の上でマルタ様とティムが揃ってそっぽを向きました。そっぽの向き方が、お二人ともたいへん下手でした。
「マルタ様。いま、数えていらっしゃいましたか」
「数えてないよ」
「数えていらしたでしょう」
「聞こえなかったね。風で」
「風は、止んでおりますが」
「……三語だったね、確かに。あの人の一世一代が三語なの、あたし、ちょっと感動してるんだよ。笑ってるんじゃないよ。感動」
「肩が揺れております」
「感動だってば」
ノクスが、荷車の陰から歩いてきました。夕日で、黒い毛の縁だけが銅色になっています。
わたくしの前に座って、鼻先で、わたくしの手の甲を一度だけ押します。
それから、あの仔は隣へ動いて、レオンハルト様の手の甲も、一度だけ押しました。
「……よし、だそうです」
「ああ」
「二人まとめて『よし』だそうです。まとめて出すのは初めてです」
ノクスは先に立って、丘を下りはじめました。尾がゆっくり揺れています。街道の先は辺境で、辺境の先には、傾いた看板の店があります。看板は打ち直せば済みます。杭を打つ方が、いらっしゃいますので。
わたくしは荷車の上の看板を見上げました。隅に、小さな焼き印が光っています。
居場所というものは、地図の上にあるのだと、ずっと思っておりました。王都とか、辺境とか、屋敷とか、店とか。
違いました。
居てもいいと言ってくれる声と、手の甲を押してくれる鼻先のあるところ。荷車に積んで、どこへでも運べるもの。それが居場所でした。十年、誰にも訊けなかったことの答えが、荷車二台に、ちゃんと全部積んであります。
「参りましょう」
預かり屋は、店へ帰ります。
お読みいただきありがとうございます。
第二部、これにてひと区切りです。「獣臭い」と言われた令嬢は、王都に呼ばれ、王都に残れと言われ、それでも自分の看板のところへ帰りました。看板には王家の紋がつきましたが、あの店のいちばんの看板は、屋根の上の黒いのだと思います。
ここまでお付き合いくださって、ありがとうございました。ブックマークと評価は、店の前にそっと桶を置いていってくださるようなものです。帰った仔が、まっさきに匂いを確かめにまいります。
帳面のいちばん後ろには、手紙が一通挟まっております。冬を越したら、また何か始まるかもしれません。それまで預かり屋は、辺境で通常営業でございます。




