第58話 王家の紋の、使い道
「なぜだ」
その声は、馬場に長く残りました。
厩舎の壁と石畳が、声を何度も返します。獣たちはもう馬場にいません。それぞれの厩へ帰っていきました。香の煙だけが、誰もいない囲いに薄く流れています。
大公殿下は、香炉の前に立ったままでした。
「ルーペルト」
立会の席の陛下が、弟君の名を呼びました。位ではなく、名前をです。
「話せ。全部だ」
殿下は長いあいだ黙っていらっしゃいました。口を開いたとき、声はもう荒れていませんでした。最初にお会いした日と同じ、名前をひとつも間違えない、あの静かな声に戻っていました。
「調香室の窯です、兄上」
「窯」
「王宮の香を調える窯で、あれを作らせました。瓶に紋が入っていたのは、王宮の備品だからです。それだけのことです」
わたくしの帳面の中で、あの走り書きが答え合わせをされました。王家の紋。要確認。……確認が、終わりました。
「アーレンスに渡したのも、おまえか」
「あの男は買い手にすぎません。兵器などという言葉を使ったのは、あれの品のなさです。私が作らせていたのは、そんなものではない」
「甥のほうは」
「クルトは、叔父の残した樽を売っただけの小物です。先日、そう申し上げました」
「訊き方を変える。おまえが渡し、アーレンスが試し、甥が売った。三年前からは王家の厩舎でも試した。……相違ないか」
「相違ありません」
殿下は、そこだけは即座にお答えになりました。この方は、嘘の要らないところでは嘘をつかない方なのです。それがいちばん、質の悪いところでした。
「では、何だ」
「轡です」
殿下は、そう仰いました。
「王国じゅうの獣に嵌める、匂いの轡です。三年前から厩舎の香に混ぜたのは、効きを確かめるためでした。八年前に辺境の谷で試させたのは、調合がまだ粗かったからです。徐々に、静かに、どの獣も香に逆らえないようにしていく。仕上がれば、王国の獣は二度と暴れません。二度と、誰も傷つけない」
「八年前」
レオンハルト様の声でした。
殿下はゆっくりと振り返って、その方の名前も正しく呼びました。
「ガルド辺境伯レオンハルト卿。あの谷の件なら」
「うちの隊の者が死んだ。俺は、殺した獣を斬れと命じられて、斬れなかった。翌月、別の個体で二人死んだ。……その最初の獣は八年生き延びて、先日、あんたの甥が放した群れを鎮めた。あんたの轡の失敗作が、だ」
わたくしは、この方がこんなに長く話すのを、数えるほどしか聞いたことがありません。
「あんたは息子を傷つけられた。俺は部下を殺された。同じ薬から始まってる。だから分かる。俺も八年、獣は斬るものだと決めて生きてきた。決めたほうが楽だからだ。考えなくて済む」
「……卿は、いつから預かり屋の弁士になられた」
「あんたのソルは、暴れたんじゃない」
殿下の顔から、初めて表情というものが消えました。
「試しの香は、八年前からあったんだろう。谷で試す前に、どこで試した。あんたの厩じゃないのか。……守るために従わせた獣は、あんたを守らない。序列に従っただけの獣は、序列が崩れた日に、隣の者を守らない。俺の部下が守られなかったように、あんたの息子も守られなかった。そういうことだ」
「黙れ」
声は荒れませんでした。荒れないまま、割れていました。
「ソルは、私がこの手で育てた。あの仔が、私の息子を」
「殿下」
わたくしは、一歩前へ出ました。
「殿下は、獣に裏切られたのではありません」
「……預かり屋。おまえに何が分かる」
「分かりません。ソルに会っていませんので。会っていない仔のことは分かりません。それが、わたくしに申し上げられる全部です」
殿下は、わたくしを見ました。目を逸らさない方です。この方はいつでも、まっすぐに人を見て、まっすぐに間違えるのです。
「けれど、殿下も同じです。殿下はあの日から八年、ソルがなぜ走ったのかを一度もお調べにならなかった。轡を作ることには八年お使いになった。なぜ、の側には一日もお使いにならなかった」
「調べて、何になる。あれはもういない」
「はい。ですから殿下、それはもうずっと分からないままです。轡を千本お作りになっても、その分からないままは埋まりません。……殿下は、獣に裏切られたのではありません。獣を、診なかったのです」
殿下は何も仰いませんでした。
香炉の煙が切れました。誰も継ぎ足さなかったからです。あの高い香りが薄れていく下から、馬場の土の匂いと、春の草の匂いがゆっくり戻ってきました。
匂いは、こうやっていつでも帰ってきます。塗り潰されていただけで、消えてはいなかったのです。
「裁定は明朝とする」
陛下が立ち上がられました。
「ルーペルト。今夜は離宮で過ごせ。……全員、下がってよい。預かり屋も休め。長い三日だった」
馬場を出ると、もう夜でした。春の夜の、草と土の匂いがしました。今日はそれが、ずいぶんとありがたい匂いに思えました。
ノクスが綺麗な綱を引いたまま、わたくしたちの先に立って歩きはじめました。
「終わったんですか、姉さん」
「まだです。沙汰は明日の朝ですので」
「勝ったんですか」
「勝ち負けの話では、ないのです。獣たちは今夜から眠れます。それが今日の全部です」
「じゃあ、その、なんて言えばいいんですか。こういうの」
「勝ったよ」
マルタ様が仰いました。
「あんたの雇い主がね、今日は一生ぶん喋った。あたし、隣で数えてたんだ。百十四語。八年で百十四語なら、安いもんだよ」
「数えていらしたのですか」
「癖でね」
「あの、マルタさん。おれ、途中から怖くて数えられませんでした。殿下の顔、全然動かないんですもん」
「動かない顔ってのはね、ティム。動かし方を忘れた顔なんだよ。八年ぶん」
「……忘れるものですか、顔って」
「忘れるよ。だから、うちの閣下は今日、思い出しながら喋ってたのさ。時間がかかっただろ」
レオンハルト様は何も仰いませんでした。もう今日のぶんは、使い切ったのだと思います。歩きながら一度だけ、ノクスの綱の結び目を直しておいででした。
屋敷に戻って、わたくしは帳面を開きました。『王家の紋。要確認』の行に線を引きます。引いてから、その下に新しい行をひとつ書き足しました。
『紋の、正しい使い道。未定』
閣下は八年前の夜のことを、先に獣に向かって、今日は人に向かって、長く話されました。八年は、そうやって二回に分けて終わっていくのだと思います。
殿下の「なぜだ」に、この話はまだ答えを出していません。分からないままは、埋まらないのです。
次回、裁定の朝です。ウンブラの行き先も、決まります。




