第57話 香を焚いても、誰も来ない
香焚きの検めは、同じ日の昼過ぎ、王家の厩舎の前の馬場で行われることになりました。
支度のあいだ、わたくしはハンスにひとつだけお願いをしました。
「厩の仔たちは、いつもどおりに」
「へえ。いつもどおりに、でございますな」
「水も、藁も、いつもどおりに。特別なことは何ひとつしないでください」
「心得ましたぞ」
「何かしておかなくていいのかい」
マルタ様が小声で仰いました。
「向こうは王国でいちばんの香を持ち出すんだよ」
「はい。うちは、いつもどおりで参ります」
「……それが預かり屋の返し技かい」
「技ではありません。いつもどおりが、あの仔たちの返事になりますから」
谷から連れ帰った十六頭は、馬場の北側の仮の囲いに。王家の十四頭は、厩の戸を開け放したまま。立会の席は南の端に組まれました。
囲いの支度は、朝のうちにハンスと二人で済ませてありました。水桶は風下の隅に三つ。藁は谷の仔たちが寝ていた場所から運んだ、自分たちの匂いのついたもの。新しい藁は、匂いが無いので、知らない土地ではかえって落ち着きません。
囲いの杭は、わたくしが一本ずつ手で触って、ぐらつくものを打ち直しました。獣は、ぐらつく柵に背を向けて眠らないからです。
「預かり屋は、風下に立て」
大公殿下が仰いました。
「手を出すな。声も出すな。囲いには近づくな。おまえの鼻と獣のあいだに疑いを残さぬためだ」
「はい。承知いたしました」
ノクスはわたくしの足元に伏せております。綱の銀の紐が昼の光を拾っておりました。
「もし、動いたら」
ティムが囁きました。
「動かん」
レオンハルト様でした。ティムはそれきり囁くのをやめました。
文官の方が口上を読み上げます。
「王宮調香室の香、最高等級。封はこの場で検めた。香を焚き、獣が応じるか否かを検める。立会の獣、谷の十六頭、王家の十四頭、大公家の騎獣ウンブラ。合わせて三十一頭。異のある者は申し出よ」
「ございません」
「ない」
「始める前に、言っておく」
殿下が立会の席へ向き直られました。
「私は今日まで、獣に嘘をつかれたことがない。人には幾度もある。だから香で治める道を選んだ。香は賄賂を取らん。香は裏切らん」
「弁明か」
陛下が問われました。
「事実でございます。……谷の獣に名はございません。ですが私は、十六頭の毛色と傷をすべて諳んじております。管理とは、そういうことでございます」
殿下は囲いの柵に手を掛けられました。
「囲いを、開けよ」
「殿下。暴れた場合は」
文官の方が青くなりました。
「俺が出る」
レオンハルト様でした。殿下は頷きもせず、柵だけをご覧になっています。
「開けよ。繋がれた獣が来ぬのは、綱のせいにできる。応えるものは、自分の脚で来る」
柵が開かれました。殿下ご自身が、香炉の蓋を開けられます。
風が香を運んでまいりました。
良い香りでした。それは認めなければなりません。上の層は花です。その下に樹脂の温かさがあります。底まで澄んで、焦げも混ぜ物もありません。まっさらな最高等級です。
「香は、届いている」
殿下が囲いに向かって仰いました。平らな、いつもの声で、です。
「これが秩序の香だ。三代の王に焚かれた香だ。……応えよ」
馬場はそのままでした。
わたくしは風下から、十六頭の耳だけを見ておりました。耳は、嘘をつきません。香が届けば、まず耳が香炉のほうを向きます。それから鼻が上がり、首が上がります。応えるのなら、その順番です。
耳は、いくつか動きました。動いて、それぞれ、別の方角を向きました。飼葉の音のほうへ。隣の仔のほうへ。厩の戸口のほうへ。香炉のほうを向いた耳は、ひとつもありませんでした。
開かれた柵の中で、一頭が飼葉を噛んでおります。乾いた、規則正しい音です。別の一頭は囲いの隅の藁へ歩いて行って、脚を折って横になりました。
「……あの栗毛は、寝る前に藁を三度掻く仔でしてな」
ハンスが囁くともなく仰いました。
「ほれ。三度、掻きましたじゃろう」
厩の戸口では王家の仔が一頭、敷居に顎を載せて目を閉じております。雀が二羽、香炉の煙をくぐって飛びました。
「ねえ。香って、効くものなの」
ティムがマルタ様に囁きました。
「あたしに訊くんじゃないよ。あたしには革の匂いしか分からないんだ」
「……足せ」
香が足されました。煙が濃くなって、風に流れて、薄くなりました。
一頭が尾で虻を払いました。それがいちばん大きな動きでした。
「殿下。風向きが変わっております」
「香炉を移せ。風上へ」
香炉が移されました。煙は今度こそ、囲いの真ん中を通っていきます。獣たちの鼻がいくつか上がりました。確かに嗅いだのです。嗅いで、それから、それぞれの藁へ戻りました。
「白鼻の仔が、水を飲みに立ちましたぞ」
「……戻りました。ほれ、藁へ」
ハンスの囁きだけが、刻を数えるように続いております。
「なんだい、これは」
マルタ様が囁かれました。
「何も起きないよ。何も起きないってことが、こんなにうるさいとはね」
「香は嘘をつかん」
殿下の声はまだ平らでした。
「獣も嘘をつかん。ならば、応える」
「大公。獣はいつ応える」
陛下が問われました。
「……間もなく」
「まだ続けるか」
「続けます」
殿下は香炉を持ったまま、囲いのほうへ歩いて行かれました。獣たちは殿下を避けもいたしません。通り道にいた仔が二歩ずれて、空いた場所の藁の匂いを嗅いで、そこへ伏せました。
誰も、香のほうを見ないのです。
「ウンブラを」
殿下が仰いました。大公家の厩番の方が、預かり屋の柵から殿下の騎獣を曳いて参ります。この朝まで、わたくしどもの柵で預かっていた、影色の大きな仔です。
「外してよろしいのですか」
「外せ」
綱が外されました。殿下は香炉を高く掲げられます。名は呼ばれませんでした。香が呼ぶはずだったのだと思います。
ウンブラは鼻先を上げました。煙の匂いをひとつ確かめたのが分かりました。
それから、歩き出しました。
殿下の横を、通り過ぎました。
まっすぐに、馬場の門を抜けて、預かり屋の柵へ、です。桶の高さを合わせ、藁を乾いたものに替え、風の通り道をつくった、あの柵へ。ウンブラは開いたままの柵の口を自分で通って、藁のいちばん乾いた場所まで進んで、それきり戻ってまいりませんでした。
馬場の真ん中で、殿下の周りだけが空いておりました。香炉の煙が細くのぼっては、風にほどけていきます。
あの柵のことを、わたくしは思い出しておりました。ウンブラを預かった最初の日、桶の高さを肩に合わせて、藁を替えて、風の通り道をあけて、それから三日、何もしませんでした。何もしないというのは、獣に選ばせるということです。今日、ウンブラはその三日ぶんを、自分の脚で返しに行ったのだと思います。
「なぜだ」
声が割れました。
「なぜだ!」
初めて聞く声でした。名前を間違えたことのない方の、誰の名前でもない叫びでした。香炉の灰がこぼれて風に散りました。
獣たちはそれにも応えませんでした。飼葉を噛む音だけが、変わらずに続いております。
わたくしは何もいたしませんでした。何も申し上げませんでした。約束のとおり、風下に立っていただけです。
陛下が立ち上がられました。
「ルーペルト」
弟君の名を、正確に呼ばれました。
何も起きませんでした。それが今日のすべてです。獣たちは戦いもせず、逃げもせず、抗いもしませんでした。ただ、それぞれの寝床へ帰っただけです。帰る寝床がある、ということがどれほど大きな返事になるのか、わたくしも今日初めて知りました。
殿下は最後まで香炉を離されませんでした。あの方の手の中で、香はきっと、いちばん正しく焚かれていたのです。正しく焚かれた香に、誰も来なかっただけで。
次回、陛下が問われます。王家の紋の使い道を、その紋を使った方がお答えになります。




