第56話 証人は、吠えません
三日目の朝、王宮の広間の扉が内側へ開かれました。
黒い狼が王宮の床を歩くのは、この国が始まって以来のことだそうです。ノクスは爪の音をほとんど立てずに、赤い敷物の縁を選んで歩きました。銀の紐が高い窓の光を拾います。
わたくしの左にあの仔。右にレオンハルト様。後ろにマルタ様とハンスが続きます。
広間の匂いは、三日前の管理局のそれとは違いました。いちばん上に、磨かれた床の蝋。その下に、壁ぎわに並ぶ文官の方々の墨と紙。その下に、段の上の香炉から流れる、封を検めた最高等級の香。
わたくしは入り口でその層を一度だけ剥がして、いちばん底に何も無いことを確かめました。今朝の香に、あの行はありません。検めた香は、ただ良い匂いでした。
段の上に陛下。向かいに大公殿下と後任の局長。文官の方々が壁ぎわに帳面を構えておりました。
「査問を始める」
陛下の声で、広間の空気が締まりました。
「危険個体登録第四条による処分の可否、および、その前提となる事実を検める。証を出せ」
「では、樽から参ります」
マルタ様が一束の紙を掲げられました。
「王都の関所の控えです。香料の樽は、定めでは月にひとつ。ですが三年前から、定めを超えた樽が決まって夜に城下を出ております。行き先は北の谷筋。あたしがこの足で確かめました」
「続けよ」
「谷の柵の焼印の写しです。王家の紋が入っております。それから、谷の小屋にあった台帳。三年前に危険個体と判定された十七頭のうち、十六頭が『処分済』と記されて、この谷へ送られておりました。処分済のはずの十六頭は、生きて、痩せて、谷におりました」
文官の方々の筆がいっせいに走りました。
「次。厩番ハンス」
「へえ」
ハンスが角の丸くなった帳面を抱えて前へ出ました。
「王家の厩に二十年おります。帳面は、餌の量と寝た刻限をつけるだけのつまらんものですが――三年前の春に香が替わってから、仔らは立ったまま眠るようになりました。いちばん悪い時分には、十四頭のうち九頭が立ったまま眠っておりました。香が止まったいまは、みな横になって眠ります。それだけは、この爺の目で見てまいりました」
「エルナ・ウィスタリア」
陛下がわたくしの名を呼ばれました。
「そなたの帳面の、匂いの記述を読み上げよ」
わたくしは帳面を開きました。
「――甘い。焦がした蜜のような。底に金気。」
「それは、いつの記述か」
「七年前に一度。三年前からは幾度も。谷の樽からも、王宮の香の底からも、同じ匂いがいたしました。わたくしは、同じ匂いにしか同じ書き方をいたしません」
「その獣は、なぜここにいる」
陛下の目がわたくしの左へ向けられました。
「谷の台帳の、十七頭目でございます」
わたくしはあの仔の横に膝をつきました。
「記載は、黒狼種、雄、上顎左に折れた牙。十七頭のうち、この仔だけが谷に着いておりません。檻の格子に牙を折って、ただ一頭逃げたからです。台帳の上では処分済。けれど、ご覧のとおり生きております。折れた牙は幾月か前にわたくしが抜きました。その日付も帳面にございます」
ノクスは伏せたまま動きませんでした。広間じゅうの目が集まっても、耳の先ひとつ揺れません。
伏せ方で、獣の腹の内は分かります。後ろ脚を体の下に畳んで、いつでも立てる伏せ方。それが、この仔が辺境の屋根の上でしていた伏せ方です。今朝は、後ろ脚を横へ投げ出しておりました。立つつもりのない伏せ方です。わたくしが膝をついたとき、尾の先が敷物を一度だけ払いました。それきりです。
「――よくできている」
大公殿下が初めて口を開かれました。
「ハンス。おまえのその帳面、これまで誰かに見せたことは」
「へえ。ございません。つまらんもんですで」
「つまらんものを、なぜ二十年つけた」
「……仔らの寝顔が、可愛いもんで」
広間のどこかで、笑いを噛み殺す音がしました。殿下は笑われませんでした。
「見せたことのない帳面は、昨夜書いたものと区別がつかん。そういう話をしている」
殿下は段の下をゆっくりと歩かれました。
「マルタ・レンツ。おまえの控えは写しだ。写しは作れる。ハンス。おまえの帳面は爺の私記だ。私記も作れる。エルナ・ウィスタリア。おまえの帳面には、おまえの鼻しか証がない。その鼻は帳面の外にある」
「殿下。関所の控えには関所の印が――」
「印も作れる。作れんと言うなら、それを証してみせよ」
文官の筆が止まりました。広間の空気が殿下のほうへ傾くのが分かりました。順序と書式の正しさは、この方の得物なのです。
わたくしは帳面を閉じずに、膝の上で開いたままにしておりました。殿下の仰ることは、一つも間違っておりません。写しは作れます。私記も作れます。わたくしの鼻は、確かに帳面の外にあります。辺境で、関所の控えを前に同じことを言われたなら、わたくしは同じように黙ったと思います。
違うのは、今日は左に、作れないものが伏せていることでした。
「谷の台帳とやらも、谷から持ってきたのはおまえたちだ。獣は喋らない。記録は作れる。ここに積まれたものは、すべて作れるものばかりだ」
殿下はノクスの前で足を止められました。
「これが証人か。……吠えもせぬか」
ノクスは殿下を見上げただけでした。金色の目は動きません。唸りもしません。あれだけの目に見下ろされて、殿下も瞬きをなさいませんでした。
「作れんものが、ある」
レオンハルト様でした。
「三語、か」
殿下が数えられました。マルタ様が悔しそうな顔をなさいました。数えるのは、この方の芸だったのです。
「言ってみよ、辺境伯。作れんものとは」
「獣だ」
「――なるほど」
殿下はしばらく黙っていらっしゃいました。それから、陛下のほうへ向き直られました。
「陛下。辺境伯の申すとおりでございます。紙で争えば、紙の争いは果てません。ならば、作れんもので検めましょう」
殿下の声は最初から最後まで平らなままでした。
「香は秩序でございます。秩序が正しければ獣は応えます。獣が応えれば、この者たちの申し立ては崩れましょう。応えねば、私の負けでよろしい」
「何を賭ける」
陛下が問われました。
「私の、すべてを」
広間が水を打ったようになりました。殿下は続けられます。
「場所は厩舎の前の馬場。刻限は昼過ぎ。香は調香室の、封を検めた最高等級。預かり屋は手を出さぬこと。……陛下、よろしいか」
「よい。双方、それで検めよ」
殿下は一礼して、窓の外の厩舎の方角を指されました。
「では、私の谷の獣に、もう一度香を――」
私の谷、と仰いました。誰も聞き咎める間がないほど、自然に、です。
査問というものを初めて見ました。紙と紙が争うと、勝つのはより綺麗に作られた紙のようです。殿下の仰るとおり、記録は作れます。けれど、二十年かけて角が丸くなった帳面を作るには、二十年かかります。作れるものと、作れないもの。その境目に、あの仔が伏せておりました。
吠えない証人は、今日、一度も目を逸らしませんでした。
次回、香が焚かれます。谷の獣たちと、王家の十四頭の前で。




