第55話 綱を、咥えてきたのです
二日目の朝は、紙と墨の匂いで始まりました。
卓の上には樽の関所控えと、谷の台帳の写しと、焼印の拓きが並んでおります。マルタ様は夜のうちに、証を出す順番を三度も並べ替えられました。
「おはようございます。王家の厩の帳面、お持ちしましたぞ」
ハンスが風呂敷包みを抱えて来てくださいました。二十年ぶんの帳面です。角がどれも丸くなっておりました。
「重かったでしょう」
「なに、餌桶より軽うございます」
「爺さん、明日は口も持っておいで。証人なんだからね」
「口は軽うございますで、ご心配なく」
ティムは朝から写しを綴じております。針を持つ手つきが、いつの間にか職人のようになっておりました。
「で、本題だよ」
マルタ様が卓を指で叩かれました。
「あの黒いのを明日どうするか。あたしは連れて行かないのに一票。査問の庭は敵地だ。第四条の紙が生き返ったら、その場で執行されかねないんだからね」
「おれも、隠したい」
ティムが針を止めて言いました。
「王都の外の牧なら匿ってもらえるよ。姉さん、そうしようよ」
「隠すと、負けになりゃしませんかな」
ハンスが帳面を撫でながら仰いました。
「危険だから隠した、と向こうは言いますじゃろう」
「言わせておけばいいのさ。負けたって生きてりゃいい」
「マルタ様。それは、あの仔の前でも同じことを仰いますか」
「言うともさ。生きてりゃいい。あたしはずっと、それだけで隊をやってきたんだ」
マルタ様の声は、いつもより少しだけ低うございました。この方の毒舌は、心配の裏返しでできております。
「閣下は、いかがお考えですか」
レオンハルト様は窓の外を見ていらっしゃいました。庭の隅の、屋根の上を、です。
「あれが決める」
「三語」
マルタ様が数えて、それきり誰も何も言いませんでした。
夕方になって、わたくしは庭へ出ました。屋根の上のノクスに、下から全部お話しいたしました。
「明日、査問があります。あなたの処分を決めた紙を、検め直す場です。あなたが行けば、いちばん強い証になります。そのかわり危ないのです。紙が生き返れば、その場であなたを連れて行かれるかもしれません」
耳が、わたくしの声のほうへ倒れました。
「牧に隠れる道もあります。恥ではありません。マルタ様の言うとおり、生きているのがいちばんです」
ノクスは動きませんでした。
「あなたが決めていいのですよ」
返事の代わりに、風が藁の匂いを運んでいきました。わたくしはそれ以上は申しませんでした。
夕餉の後片づけをしていたときです。
とん、と土を踏む音がしました。ノクスが屋根から下りたのです。あの仔はわたくしの前を通り過ぎて、納屋の壁へ歩いて行きました。壁には綱が掛けてあります。荷役用の太いのと、洗い替えと、それから、いちばん端に一本。
ノクスは首を伸ばして、その一本を咥えました。釘から外れる乾いた音がしました。
それから、まっすぐにわたくしのところへ戻ってきて、座りました。首を低くして、咥えた綱の輪をわたくしの手のひらへ載せます。載せても、まだ離しません。わたくしが両手で受けるまで、あの仔は綱を支えておりました。
「姉さん、それ……」
ティムが台所の戸口で、布巾を握ったまま立っておりました。
「開業のときに揃えた綱です。一度も使いませんでした。この仔を繋ぐ日は、来ないと思っておりましたから」
マルタ様は何か仰りかけて、おやめになりました。
「……行くのですね」
わたくしは綱の輪を受け取りました。使われたことのない麻は、まだ硬くて少し冷たいのです。
「あなたが、あなたを、証として差し出すのですね」
ノクスは座ったまま動きません。金色の目が、わたくしを見ております。
「わかりました。では、いちばん綺麗な綱にしましょう」
それからの晩は、預かり屋じゅうが働きました。
わたくしは綱を洗いました。麻の硬さが取れるまで湯で揉んで、拭き上げて、油を薄く入れます。
「姉さん、留め具はおれがやる。息を吹きかけて磨くと、よく光るんだ」
「お願いします。指を挟まないように」
「もう挟まないよ。……ほら見て。顔が映る」
「上出来です」
マルタ様は、騎士だったころの飾り紐を持って来られました。銀色の、細いのを一本だけです。
「閲兵の前の晩は、どこの隊もこうだったよ。革を磨いて、紐を編んで、寝るのを忘れるのさ。まさか狼で同じことをやる日が来るとはね」
「餞別、ですか」
「貸すだけだ。査問が終わったら返しておくれ」
「はい。お借りいたします」
レオンハルト様は黙って出て行かれました。戻られたときには、掌に革の切れを載せていらっしゃいました。使い込んで飴色になった、剣帯の革です。
「……余りだ」
「二語」
マルタ様が数えられました。レオンハルト様はその革で、綱の持ち手のところを丁寧に巻いてくださいました。剣だこのある指は、結び目をつくるのがとてもお上手なのです。
「ねえ、姉さん」
ティムが留め具を布で包みながら言いました。
「ノクスは、怖くないのかな。明日のこと」
「怖いと思いますよ」
わたくしは油の布を畳みました。
「怖くても行くと、あの仔が自分で決めたのです。だからわたくしたちは、綱を綺麗にするのです」
夜がふけて、綱は生まれ変わりました。油の入った麻は艶を持ち、留め具は灯りを跳ね返し、持ち手には飴色の革、端には銀の紐です。
ノクスは屋根へは戻らず、庭の真ん中で伏せておりました。仕上がった綱を見せに行くと、あの仔は首を伸ばして、匂いをひとつずつ確かめました。湯の匂い、油の匂い、革の匂い。
「明日の朝、これを着けます。嫌になったら、いつでも咥えて外していいのですよ」
耳がひとつ動きました。
査問の朝は、霜のない乾いた夜明けでした。
門の前で、わたくしはノクスの首に綱を掛けました。結びはしません。輪をそっと通すだけです。
「忘れ物はないかい」
「証と、証人と。あとは行くだけです」
「……いい綱だ」
レオンハルト様が仰いました。マルタ様は今度は数えずに、鼻を鳴らされました。
「よし、行こうか。……ああ、ひとつ言い忘れてたよ」
「なんでしょう」
「よく似合ってる。狼と、預かり屋」
「行きましょう」
王宮までの道を、あの仔はわたくしの半歩前を歩きました。荷車も物売りも、道の両側へ割れていきます。黒い狼が銀の紐を光らせて王宮へのぼっていくのを、王都じゅうが見ておりました。
お読みいただきありがとうございます。
綱というものは、繋ぐための道具だと思っておりました。今夜わかったのですが、違うようです。誰が誰を選んだのかを、外から見えるようにするための道具でした。あの仔は繋がれたのではありません。選んだのです。
うちの納屋の壁には、綱を掛ける釘がまだ何本か空いております。ブックマークをひとつ掛けていってくださると、釘は錆びずに次の綱を待てます。
次回、査問が始まります。証人は、吠えません。




