第53話 尻尾は、切って捨てるものだそうです
その翌日、管理局の広間へ呼ばれました。
呼ばれたのはわたくしどもだけではありません。台帳と樽が運び込まれています。騎士団の立ち会いがあります。上座には見慣れない方がひとり。新しい局長です。お名前は、伺いそびれました。誰も、呼ばなかったからです。
広間は天井の高い場所でした。声がよく響きます。靴の音は、もっと響きました。
匂いのほうは、響きません。石と、古い蝋と、綴じ紐の革。役所の匂いです。運び込まれた樽の甘さが、その上に薄く被さっておりました。人の汗の匂いがいちばん濃いのは、広間の真ん中です。わたくしは入り口で一度だけ、上から順に剥がして、それから目を上げました。
クルト・アーレンス様は、広間の真ん中に立たされておいででした。
「アーレンス香料商会当主、クルト・アーレンス。商会の帳簿、谷の台帳、谷の現場。三つが揃っている」
読み上げたのは、騎士団の方です。
「樽の数字は、帳簿と台帳の両方で合っている。閲兵の日の獣は、商会の荷馬車から放たれた。人足の証言が、四人ぶんだ」
クルト様は、昨日より小さく見えました。
「私は……取り引き先の、指図で」
「その取り引き先の名を」
「……」
名前は、出ませんでした。代わりに、広間の扉が開いたのです。
「ルーペルト大公殿下の、おなりです」
その方は供を二人だけ連れて入ってこられました。歩きながら順に、こちらをご覧になります。
「レオンハルト・ガルド辺境伯。マルタ・レンツ。エルナ・ウィスタリア。……谷では、働いたそうだな」
この方は誰の名前も間違えません。従者の名も厩番の名もです。ただ、間違えないことと覚えていることは別のものなのだと思います。呼ばれた名前は、呼ばれたあとも寒いままでした。
「殿下。……殿下、私は」
クルト様が一歩出て、騎士に止められました。
大公殿下は、足を止めずに仰いました。
「クルト・アーレンス。アーレンス侯爵の甥。……甥のしたことだ。商会の不正は商会のもの、侯爵家の残り火は侯爵家のもの。王宮は関わりがない」
声は荒くありません。低くもありません。帳面を読み上げるような声でした。
「殿下……っ、わ、私は、あなたの窯の」
「連れて行け」
騎士が二人、クルト様の両腕を取りました。クルト様は、最後まで大公殿下のほうを見ておいででした。扉が閉まる、その時までです。
マルタ様が、わたくしの横で小さく仰いました。
「……見たかい。尻尾ってのは、ああやって切って捨てるものだそうだよ」
「尻尾は、気持ちを言うところですのに」
「あたしらの知ってる尻尾とは、別の生き物なんだろうさ」
大公殿下は、上座の新しい局長の前に立たれました。
「局長。昨日の通告の件だ。危険個体登録、第四条。可否は、局長が判断する」
「は……はい」
「判断は」
新しい局長は机の書き付けを見ました。それから殿下を見ました。判を、手に取られました。
「恐れながら、局長様」
わたくしは、一歩前へ出ました。
「その仔を、ご覧になりましたか」
判を持つ手が止まりました。局長はわたくしではなく、大公殿下をご覧になります。答えたのは殿下でした。
「その必要はない。第四条に、獣を見よとは書いていない」
「書いていないことは、してはならないことではありません」
「エルナ・ウィスタリア」
殿下は、初めてわたくしの正面に立たれました。
「あの黒狼は、三年前に処分と判定された個体だ。書類の上で終わった話を、書類の上で終わらせる。それだけのことだ」
「あの仔は、生きています」
「知っている。だから、回収する」
知っている、と仰いました。声の高さは最初から最後まで同じでした。
「あの仔が生きていることは、三年前の判定が間違いだった証拠です。殿下が終わらせたいのは書類ですか。それとも、証拠のほうですか」
「……おまえは、数を数えるのがうまいそうだな」
殿下はそれにはお答えになりませんでした。局長のほうへ、顎を引かれただけです。
判の音は、思っていたよりも軽いものでした。
厩舎で聞く音は、たいてい重いのです。蹄が石を打つ音。桶が床に置かれる音。藁束が落ちる音。どれも、重さのあるものが重さのまま立てる音です。判は、紙に触れて離れるだけでした。あれだけ軽い音で、生きている仔の行き先が決まるのだということを、わたくしは初めて耳で知りました。
「執行は、三日後」
殿下は書き付けを局長へ戻されました。去り際に一度だけ、足を止められます。
「レオンハルト・ガルド。獣を惜しむ辺境伯を、王都は初めて見た」
「……惜しむのではない」
レオンハルト様は、三語で終えられました。
「借りがある」
夕方、王都の預かり屋に戻ると、ティムとハンスが待っておりました。
「姉さん、あの仔、飼葉を食べました。それで、あの……広間のほうは」
「三日後だそうです」
ティムの顔から、色が引きました。ハンスは、黙って帽子を握り直しました。
「三日で……三日で、何ができるんですか」
「第四条には、可否は局長が判断する、とあります。判断、です。判ではありません」
わたくしは、通告の写しを机に置きました。
「判は、押されました。けれど判断は、まだ誰もしていません。誰も、あの仔を見ていないのですから」
「見せるんですか。あの人たちに」
「一日目に、判断の中身を問います。二日目のことは、一日目が終わってから決めます」
「……姉さんは、怖くないんですか」
「怖いですよ。ですから、数えるのです。数えているあいだは、手が動きますので」
「では、わしは明日、ご一緒しますよ」
ハンスが帽子をかぶり直しました。
「二十年ぶんの目玉を持って、です。厩の中のことなら、書類より多く覚えておりますからね」
マルタ様が、通告の写しを指で弾きました。
「判ってのはね、押した人間より、押させた人間の名前が残るもんだよ。……残させてやろうじゃないか」
「エルナ」
レオンハルト様が、戸口で仰いました。
「三日ある」
「はい。三日も、あります」
夜になりました。ティムが厩の灯りを確かめに出ます。ハンスが飼葉を計り直します。マルタ様は、砥石を出してこられました。誰も、寝ようとは言いません。
わたくしは、帳面を最初の頁から開き直しました。三日で要るのは、新しい証拠ではありません。持っているものを、順番に並べ直すことです。辺境の薬瓶の刻印。関所の控え。ハンスの二十年の印。谷の台帳と、檻の格子の牙。頁に付箋を挟んでいくと、付箋の数が、ちょうど三日ぶんに分かれました。
屋根の上で、ノクスが街の灯りのほうを向いて伏せています。降りてはきません。いつもの距離です。
「明日から、一日ずつ数えます。まず明日、判を押させた方に、判断の中身を伺いに参ります」
名前をぜんぶ正しく呼べる方が、いちばん冷たい呼び方をなさいました。甥、と。それから、局長、と。呼ばれた側の顔は、名前で呼ばれたときより白かったように思います。
判の音は、軽いものです。あの軽さを、どうぞ覚えておいてください。三日後の重さと、比べるためにです。
次回、三日の一日目。押された判の、中身を問いに参ります。




