第52話 処分簿の、十七頭目
悲鳴は、谷の奥の窪地からでした。
日の落ちかけた坂を下ります。松明は低くしました。窪地の底に人がひとり座り込んでいます。クルト・アーレンス様です。外套の裾を握りしめたまま動けずにおいででした。
囲まれているのです。
痩せた仔が七頭。窪地の縁にぐるりと立っています。鼻先は底の一点へ向いていました。牙は見えません。ただ立って嗅いでいる。それが囲まれた側にはいちばん怖いのです。
わたくしは窪地の縁の、風下の一点を選んで膝をつきました。上から入ると、仔たちの輪を背後から破ることになります。破られた輪は、締まります。風下から声だけを届ければ、輪は動きません。松明はレオンハルト様に預けて、五歩下がっていただきました。火の匂いは、この仔たちにとっては谷の夜番の匂いだからです。
「た、助けてくれ……私は、何も」
「動かないでください。声も、いまの半分に」
「く、食われる」
「食べません。この仔たちは、匂いを確かめているだけです」
「に、匂い……」
「風下から失礼しました。いちばん上に濃い香水。その下に樽の木。いちばん底に――甘い。焦がした蜜のような。底に金気。……あなたの外套の匂いです」
「な、なんだと」
「この仔たちが敵だと教え込まれた匂いです。あなたはいま、ご自分の荷の匂いに囲まれています。脱いでください。手袋も上着もです」
「ぬ、脱いだら、どうなる」
「あなたが、あなたの荷物ではなくなります」
クルト様は脱ぎました。外套も手袋も上着もです。震える手で全部落としました。それから申し上げたとおりに、上から土を三度かけました。
「風下へ、ゆっくり。目を伏せて、歩幅は半分に」
「は、半分……」
「そうです。お上手です」
一歩ごとに輪がほどけていきます。仔たちは追いません。土をかぶせた外套の周りへ集まります。鼻先をそこへ並べるだけです。
窪地の縁で、レオンハルト様がクルト様の襟首を受け止められました。
「歩けるな」
「……ひ、一人にしないでくれ」
「歩け」
マルタ様が縄を出しながら、ため息をつきました。
「命の恩人に縛られるんだ。世話のない話だね。ほら、手をお出し」
「私は、命じられ……いや」
クルト様の喉が一度、上下しました。
「……樽は、私が作らせたものではない。窯は、別の場所にある」
「どこだい」
「……言えば、私が、消される」
「もう半分消えかけたじゃないか。獣に、じゃないよ。あんたの取り引き先にさ」
クルト様は、それきり何も仰いませんでした。
夜の谷は静かでした。松明は三本に減らしました。火は小さく保ちます。風は東からです。仔たちの息の数が、数えられるほどでした。
「休め」
レオンハルト様が、わたくしの松明を取り上げて仰いました。
「見張りは、代わる」
谷の奥に、板葺きの小屋がありました。樽が積んであります。それから壁の棚に、帳面がひと綴り。
戸を開けた途端に、匂いが層になって押し返してきました。いちばん上は樽の木と、こぼれた香料の甘さ。その下に、人が寝起きした油と煙。その下に、湿った紙。そしていちばん底に、あの行です。ここは、香を混ぜた場所ではありません。混ぜた樽を、置いていた場所です。窯の匂い——火にかけた金気の匂いが、どこにもありませんでした。
「台帳です。この谷の、受け入れの台帳」
「灯りを寄せるよ。読んどくれ」
「……三年前。受け入れ、十六頭」
頁のあいだに管理局の判定簿の写しが挟んでありました。前の局長ボルグ・ハイデン様のお名前で――危険個体、十七頭。
「十六と、十七だ。一頭、足りないね」
「はい。足りません」
写しの端に、細かい字の書き添えがあります。わたくしは、声に出して読みました。
「十七頭目、黒狼種、雄。移送の檻の格子を折って逃走。格子に、上顎左の、牙の先が残る……」
声が、最後まで保ちませんでした。
書き添えの下に、あとから押された判がひとつ。
「処分済、だと」
レオンハルト様が、低く仰いました。
上顎の左の牙。辺境で開業して間もない頃に、わたくしが抜いた牙です。折れて膿んで、あの仔をずっと痛がらせていた牙。あれは檻の格子の値段だったのです。
戸口に、ノクスが立っていました。
呼んでおりません。いつからいたのかも分かりません。黒い体が灯りの際で止まりました。首だけが、朽ちた檻の列へ向きます。
歩きます。いちばん奥の檻の前で止まりました。格子の匂いを一度だけ嗅いで、離れました。
それきり、わたくしの斜め後ろに立って、動きません。
「六年前、王都の厩舎でこの仔の房が空いた朝のことを、覚えています。帳面には、移送と、それだけ。行き先は誰も教えてくださいませんでした。……移送の先で三年、この仔はどこかの檻にいて、それから判定を受けたのです。その先が、ここです。教えられなかったはずです。この谷は、帳面の上に無い場所ですから」
「……台帳の上じゃ、この仔は三年前に死んでるってことかい」
「はい。判をひとつ押すだけで、紙は生きている仔を死んだことにできます。けれど、逆はできません」
「だが、立ってる」
「はい。立っています。この仔は、証人です。生きてここにいることが、そのまま証拠になる仔です」
朝の谷を、端から歩きました。檻の数を数えます。空の檻も数えます。水場はひとつ。壊れかけの樋がふたつ。直せるものは直しました。
数えるときは、必ず二度数えます。一度目は東から、二度目は西から。数が合えば、それが数です。合わなければ、どちらかの途中で何かを見落としています。檻は二十二。辺境の谷と同じ数でした。偶然だとは思いません。同じ手で、同じ図面から作られた場所なのです。
「谷の仔は、十五頭です。閲兵で保護した一頭を足して、十六。台帳のとおりです」
「ウェスペルは」
「どの頁にも、おりません。逃げた仔と、逃がされた仔。帳面の外が、二頭です」
「樽は、数えるかい」
「数えます。ふた組に分かれましょう。マルタ様は、騎士の方と外をお願いします」
朝のうちに、王都へ使いを立てました。クルト様の身柄と、台帳と、樽。騎士たちが荷を検めるあいだ、わたくしは谷の水場を直しておりました。
昼前に、街道から早馬が一騎、上がってきたのです。
管理局の使いでした。馬を降りもせず、書き付けを読み上げます。
「危険個体登録、第四条により、黒狼種一頭の回収を通告する。可否は、局長が判断した」
「その仔を、ご覧になってのご判断ですか」
「……局長が、判断した」
「判断なさった方は、檻の格子に残った牙のことを、ご存じですか」
「局長が、判断した」
「三度、同じお答えですね。……承りました」
早馬は、来た道を戻っていきました。
ノクスは、わたくしの横に立ったまま、遠ざかる土埃を見ています。
尾は、動きませんでした。
判はひと押しで、生きている仔を紙の上で死なせることができます。その紙の上の死から三年、あの仔は北の谷で、それから辺境の屋根の上で、毎晩ちゃんと生きておりました。
十六と十七のあいだの隙間を埋めたのは、判ではありません。寝藁と、水と、抜いた牙がひとつです。
次回、尻尾を切る方のお話です。切られた尻尾の行方より、切った手のほうを、どうぞ見ていてください。




