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「獣臭い令嬢」と婚約破棄されましたが、王国の魔獣はぜんぶ私に懐いています 〜辺境で預かり屋を始めたら、討伐一筋の辺境伯まで懐いてしまいました〜  作者: 鈴宮ひなた


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第51話 逃がした獣は、生きていました

 馬で、街道を北へ折れました。


 谷までは、馬なら昼過ぎに着きます。ノクスは列の風下を、同じ速さで走っておりました。ティムとハンスには、保護した仔と王都をお任せしてあります。


 「閣下、先に言っときますよ。クルトの供は商会の人足です。荒事の顔ぶれじゃない」


 「構わん」


 「構わんじゃなくてね。逃げ足だけは速いって意味です。……で、預かり屋さん。あんたはさっきから、何を数えてるんだい」


 「風です。谷に着くまでに、あと二度変わります」


 「そりゃ何よりだ。あたしは逃げる人足の数でも数えるよ」


 マルタ様の見立ては、半分だけ当たりました。


 谷の口に着きました。荷馬車は乗り捨てられています。人足たちは坂の下に散っていました。こちらを見ても、争う様子はありません。ひとりが叫びました。


 「檻はもう開いてる。当主は奥だ。おれたちは知らん、開けろと言われただけだ」


 「開けたのは、あなたがたですね。では、最後にひとつだけお仕事を。谷の口で、火を焚かないでください。それだけで結構です」


 「ひ、火は焚かん。焚かんよ」


 谷は、思ったより広い場所でした。柵が二重にあります。檻は木と鉄です。どれも古い。修理の跡だけが新しいのです。


 檻の古さは、木口を見れば分かります。雨に打たれて灰色になった木は、一年や二年ではそうなりません。少なくとも十年は、この谷に檻がありました。半年前に柵を打ったのは、古い檻を囲い直しただけなのです。つまりこの谷は、クルト様が始めた場所ではありません。クルト様が引き継いだ場所です。


 柵の中で、獣たちが動いています。


 痩せた仔たちです。開いた檻と柵のあいだを回っています。行き先の決まらない歩き方です。耳が忙しなく動きます。たがいの気配に、脚が跳ねる。


 「囲いません。水と風だけ、先に整えます」


 「手伝いは」


 「桶を三つ、風下にお願いします。人は、柵より近くへ寄らないでください」


 わたくしは風上に立ちました。層を剥がします。いちばん上は乾いた土。その下に藁と獣たち。あの薬の尾は薄い。刷り込みは再開されたばかりです。まだ深くは入っていません。


 そのとき、坂の上の岩から、影がひとつ降りてきました。


 大きな仔です。夜行の種。並の騎獣より頭ひとつ高い。鼻面に白いものが混じっています。老いた獣でした。


 わたくしは、目より先に鼻で確かめました。老いた獣の匂いは、若い仔とは違います。乾いた毛と、古い傷の、治りきったあとの匂い。その底に、あの薬の尾がありません。一滴もです。この仔だけは、この谷で、刷り込まれておりませんでした。盛られた夜を、たった一度で抜け切った体なのだと思いました。


 牙が、見えました。


 群れと人のあいだに立っています。低く、こちらへ牙を見せていました。若い仔たちを背にした立ち方です。


 坂の下から、人足のひとりが声を上げました。


 「その年寄りは、前からこの谷にいた。おれたちは近寄らなかった。……近寄れなかったんだ」


 レオンハルト様が、馬を降りられました。


 「閣下」


 マルタ様が止めるより先に、その方は歩き出しておいででした。獣まであと三十歩、というところで、足が止まります。


 牙が、ゆっくりと収まりました。


 老いた獣は首を伸ばして、風を吸いました。一度、二度。それから、前脚の力を抜いたのです。


 「……覚えているのか」


 その方は、腰の剣を鞘ごと外されました。そして、地面に置かれました。


 「なら、聞け。八年前の夜の、続きだ」


 わたくしは動きませんでした。マルタ様も、坂の下の人足たちも、誰も動きませんでした。


 「おまえが最後に会った男の名を、言う」


 その方は、名を仰いました。


 低い、短い名でした。八年のあいだ、誰の前でも呼ばれなかった名なのだということを、わたくしは後で知りました。


 「笑うと、歯の欠けが見える男だった。飯を三杯食う男だった。隊でいちばん、獣の世話がうまかった。おまえを追った三日、俺はあいつの名を呼びながら追った。……斬れなかった夜から、呼べなくなった」


 老いた獣は、立ったまま聞いています。


 「おまえは、盛られていた。あの夜のおまえは、おまえじゃなかった。それを教えてくれた人が、そこにいる。俺が剣を下ろしたのは間違いじゃなかったと、その人は言った。……八年目に、初めて言われた」


 「あいつは、獣のせいで死んだんじゃない。薬のせいだ。墓の前で言えなかったことを、いま言う。……おまえのことも、あいつのことも、間違えていたのは俺の側だ」


 「探した。三年、探した。谷の奥まで行った。見つからなかったのは、おまえがここまで来ていたからだな。……遅くなった」


 風が、谷を渡りました。


 老いた獣は、置かれた剣の匂いを遠くから一度だけ確かめました。それから、背を向けたのです。


 群れのほうへ、です。


 若い仔たちの真ん中まで歩きました。そこで、伏せたのです。それだけです。それだけで、若い仔たちの耳がひとつ、またひとつと動きをやめていきました。


 群れが落ち着くときの順番を、わたくしは厩舎で幾度も見ております。最初に耳が止まります。次に尾が下がります。それから、首の高さが揃います。最後に、誰かが水を飲みます。一頭が飲めば、残りは順に飲みます。順番を飛ばすことはありません。飛ばしたように見える日は、人がどこかで急かしているのです。


 一頭が伏せました。二頭が、水桶に鼻を入れました。押し合いません。順に、です。


 「……年寄りが真ん中で寝ると、群れは騒げないもんかね」


 「はい。あれは、ここで伏せていい、という伏せ方です。若い仔は、見て覚えます」


 「並ばせたのは、あんたじゃなくてあの年寄りだね」


 「はい。わたくしの出る幕は、水汲みだけでした」


 レオンハルト様は剣を拾わず、まだ立っていらっしゃいました。


 「名前は」


 「え」


 「あれの名だ」


 八年、付けられなかったのだと思います。斬るはずだった獣に名前を付ける言い訳が、この方にはありませんでしたから。


 わたくしは、群れの真ん中の大きな背を見ました。夜になる、ひとつ手前の色です。


 「古い言葉で、宵のことを、ウェスペルと申します。ノクスが夜なら、あの仔は、夜のひとつ手前です」


 「ウェスペル」


 その方が呼ぶと、老いた獣の耳が、こちらを向きました。伏せたままです。


 剣を拾って、その方は短く仰いました。


 「生きていたな」


 返事の代わりのように、尾が一度、土を払いました。


 マルタ様が、指を折りながら近づいてこられました。


 「百と十二語。あたしの知る限り、閣下の生涯最長ですよ」


 「数えるな」


 「はいはい。三語に戻った、と」


 その笑い声に重なって、谷の奥から、人の悲鳴が聞こえたのです。


 風が、濃い香りを運んできます。覚えのある、甘ったるい香水の匂いでした。


 「……クルト様です」

お読みいただきありがとうございます。


八年ものあいだ言えなかった言葉は、たいてい三十歩の距離のところに置いてあります。閣下は今日、そこまで歩きました。剣を置いて、名前をひとつ、運んで。


老いた獣が群れの真ん中で伏せるのは、強いからではありません。伏せていい場所を知っているからです。


ブックマークは、谷の入り口に灯りをひとつ提げておくようなものです。帰り道が少しだけ明るくなりますので、よろしければ。


次回、悲鳴の主を助けに参ります。谷の帳面には、数えなければいけない数が書いてあります。

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