第50話 暴れさせたいのは、どちらですか
閲兵の朝は、よく晴れました。
王都の大通りには春の飾り布が渡されています。沿道は夜明け前から人で埋まりました。行進には王家の騎獣が十四頭、揃って出ます。香の絶えた厩で眠れるようになった仔たちの、お披露目でもありました。
わたくしどもは、行進には入りません。持ち場は風上です。
風上の台は、昨日のうちに大通りの北の口へ据えてもらいました。台といっても、荷を積む木の箱を二つ重ねただけのものです。高さは人の頭ひとつぶん。それだけあれば、人垣の上を渡ってくる匂いを、混じる前に拾えます。春の王都の風は、朝のうちは北から南へ流れます。祭りの人いきれも、香炉の煙も、南へ流れていくはずでした。
「姉さん、旗が多くて、風が読みにくいです」
「では、旗を使ってください。布の裏が見えたら、風が変わった合図です」
「裏が見えたら、合図。……覚えました」
「ハンスは、辻のほうをお願いします。人の流れが、あそこだけ逆です」
「承知しました。二十年前の祭りの日も、あの辻から馬が抜けましたよ」
「では、今日も抜けます。抜けた仔の行き先に、水と藁を」
「置いてあります。朝のうちに」
ティムとハンスには、大通りの中ほどの辻をお任せしてあります。昨夜、三人で決めた持ち場です。谷では、あの刷り込みが再開されています。仕掛けるなら人のいちばん多い場所です。それも、今日です。
ノクスは、台の脇の荷の陰に伏せています。朝から一度も鳴きません。目だけが、通りを追っていました。
レオンハルト様は騎士の列の外です。通りの端から端までを見ていらっしゃいます。マルタ様が、横で数を数えていました。
「香炉の屋台が三つ。花売りが六人。飾り布が二十枚。……閣下、香炉が四つに増えました。朝には無かった位置です」
「止めろ」
「あいよ。二人ばかり借りますよ。……ほら、行った行った」
騎士が二人、走りました。その動きを、どこかで見ていたのだと思います。合図は、ほとんど同時でした。
通りの南の口で、悲鳴が上がったのです。
幌が跳ねました。荷馬車から獣が一頭、飛び出しました。騎獣種です。痩せています。あばらの形が、遠目にも分かるほどでした。
人垣が割れました。獣は石畳を蹴りました。走る先に、行進の列があります。
「香を消してください。火ごと、水にです」
「消させます。台の上、譲りますよ」
わたくしは風上の台に上がりました。旗の布の裏は、まだ見えません。風は保ちます。
「ティム、ハンス、そのままです。道を空けるだけ。掴んではいけません」
「はい」
「……はいっ」
あの仔は、暴れてはいません。逃げています。耳が伏せたまま、口の端に泡。昼の光の下で、目が光を追っていません。
匂いは、風上のここまで届いていました。
人の多い場所で匂いを剥がすのは、厩舎より骨が折れます。いちばん上に、花売りの花と、揚げ菓子の油。その下に、幾千人ぶんの汗と、飾り布の染料。その下に石畳の埃。さらに下に、逃げていく仔の、恐怖で酸くなった体の匂い。そこまで剥がして、いちばん底に、あの行がありました。
甘い。焦がした蜜のような。底に金気。
幌の中であの匂いを浴びせられてから、放たれたのです。
辻で、ティムが立ちました。
逃げません。道の真ん中を獣に譲ります。自分は壁際に寄ります。抱えていた寝藁の束を、石畳へ落としました。それから顔を伏せて、動くのをやめたのです。
獣の脚が、藁の手前で乱れました。
速さが落ちます。そこへハンスが横から並びました。並んだだけです。掴みません。同じ向きに歩きます。半歩ずつ。袋小路の路地のほうへです。王家の厩舎で二十年、ああやって歩いてきた人です。
路地の奥で、獣は壁に鼻先を寄せて止まりました。
ハンスが水桶を置きます。ティムが風上へ回ります。上着を脱いで、香のついていない匂いだけをそこに置きました。二人とも、最後まで手を出しません。
わたくしが着いた頃には、あの仔は水を飲んでおりました。
路地の入り口で、わたくしは一度立ち止まって、自分の息を整えました。走ってきた人の匂いは、獣にとっては追っ手の匂いです。肩の上下が収まるのを待ってから、風下へ回り込み、壁伝いに近づきました。手順は、教えた者にも同じように課されるものです。
「……姉さん。手順どおりに、できました」
「はい。全部、見ておりました」
「膝が、まだ笑ってます」
「笑わせておきなさい。仕事は、もう終わっています」
ハンスが桶の水を替えながら、静かに仰いました。
「いい足でした。二十年前のわしより、いい足だ」
路地の外で、ざわめきが遠くなっていきます。あの仔の耳が、ようやく立ちました。息が深くなります。腹の上下が、ゆっくりになりました。
「この仔は、谷へ帰すんですか」
「いいえ。しばらく、うちで預かります。谷は今夜、忙しくなりますので」
「マルタ様、列のほうは」
「乱れなし。十四頭、揃って歩いてますよ。この騒ぎでね。大したもんだ」
「眠れている仔は、崩れません」
沿道から声が上がりはじめたのは、その時です。
「香を止めたせいだぞ」
「王家の獣が暴れたんだろう」
「香を止めさせたのは、あの預かり屋だ」
人垣の中に、声の芯になっている男がおりました。香料商会のお仕着せです。声は大きいのに、獣のほうを一度も見ていません。
わたくしは、路地の入り口に立ちました。
「皆さま。王家の仔は、十四頭とも列においでです。どうぞ、数えてくださいませ」
「な……なら、その獣はどこのだ」
「北の谷筋の仔です。荷馬車で運ばれ、幌の中で薬の匂いを浴びせられ、人のいちばん多いところで放たれました。暴れたのではありません。逃げたのです」
「こ、香を止めたから、獣が」
「香が止まってから、王家の厩で仔が荒れた日は一日もありません。帳面をお見せできます」
「しょ、証拠があるのか。証拠が」
「幌に、匂いが残っています。管理局でも騎士団でも、どなたでも検分なさってください。匂いは、嘘をつけませんので」
男の口が、開いて、閉じました。わたくしは、その目を見ました。
「暴れさせたいのは、どちらですか」
男は答えず、人垣へ下がりました。追いかけようとなさるマルタ様を、レオンハルト様が首で止められました。
「泳がせろ」
「あいよ。……で、閣下、預かり屋さん。本命は、この一頭で終わりですかね」
そこへ、商会の店を張っていた騎士が駆け戻ってまいりました。
「クルト・アーレンスが、夜明け前に王都を出ています。供の人足と、荷馬車が数台。行き先は、北の谷筋です」
「……谷の仔たちは、まだあちらに残っています」
「一頭でこの騒ぎだよ。残りを全部放たれてみな、王都中が獣の敵になる」
「放たせません」
「馬を出せ」
レオンハルト様は、もう歩き出しておいででした。
わたくしは走りながら、風上の旗を最後に一度だけ見ました。
布の裏が、ちらりと見えました。
閲兵の日にいちばん働いたのは、エルナの鼻ではなく、ティムの立ち止まり方と、ハンスの歩幅でした。手順というものは、教えた人の手を離れた日からが本物なのだと思います。
声の大きな人ほど、獣を見ていません。そして獣のほうは、見ていない人の声をよく覚えています。
次回、谷へ。八年前に逃がした仔と、逃がした人が、もう一度会います。




