第49話 樽は、夜に動きます
その夜、戸を叩く音で起こされました。
マルタ様でした。外套の下に鎖帷子を着ていらっしゃいます。
「起きな、預かり屋さん。樽が動いた」
「……樽、ですか」
「香料商会の倉庫だよ。騎士団の張り番から、いま報せが来た。夜中に荷馬車が何度も出入りしてる。灯りを点けずにね」
「点けずに、ですか」
「まっとうな荷なら、夜道で灯りをけちる理由がないだろ。……ああ、それと。この鎖帷子は寝間着の上に着てるんだ。誰にも言うんじゃないよ」
外に出ると、レオンハルト様がもう馬装を済ませていらっしゃいました。
「行くぞ」
「わたくしも、ですか」
「鼻が要る」
マルタ様なら三語と数えるところです。けれど、これ以上ないほど正確な人選の理由でした。
「ティムは、ウンブラと……」
言いかけて、やめました。ノクスがもう門の外に出ています。行くと決めた立ち方です。
「ティム、ウンブラをお願いします。誰が来ても柵を開けないでください」
「うん。……姉さん、気をつけて」
「夜明けまでには戻ります。あの仔が起きたら、水だけ替えてあげてください」
倉庫の裏手から出てきた荷馬車は、幌を深くかけていました。
わたくしたちは通りを二本外して後をつけます。マルタ様は王都の裏道を、ご自分の庭のように歩かれるのでした。
「昔、夜回りでね。この街の抜け道はだいたい踏んだんだよ」
「荷馬車は、追わなくてよろしいのですか」
「追ってるよ、ちゃんと。荷馬車ってのは道なりにしか走れない。人間は塀を跨げる。……近道はこっちなのさ」
辻で荷馬車が止まったとき、幌の裾から樽の腹が見えました。焼印のあるべき場所が鉋で削られて、白い木肌になっています。
「……印を、削っていますね」
「売り物なら、印は看板だ。削るってことは、売り物じゃなくした荷ってことだよ」
「捨てるのでしたら、川で足ります」
「そうだね。捨てない。けど、持ち主も名乗らない。……嫌な組み合わせだ」
「クルト様の商会の樽だと、証を立てられますか」
「削られたらもう無理だね。だから削るのさ。あの男、手際だけは本当にいい」
荷馬車は北の門へ向かいました。
夜だというのに門は開きました。御者が札を一枚見せただけです。誰の札かまでは見えませんでした。
「見たかい、いまの」
「はい。夜の門が、札一枚で開きました」
「門番の独り判断じゃ、ああはいかない。上のほうから、通せと言われてるんだよ」
「あたしたちは、正面からは出られないね」
「……回る」
レオンハルト様が馬首を巡らせます。壁沿いの間道を月明かりだけで抜けました。ノクスがわたくしの前で伏せて待ちます。仕事の顔です。わたくしはその背をお借りしました。
街道を外れた荷馬車は、迷いのない速さで北へ進みました。
「初めての道を行く速さでは、ありませんね」
「通い慣れてる速さだ。夜にね」
「行き先の見当は」
「ついてるよ。この向きで荷馬車が入れる道は一本しかない」
マルタ様の声から軽さが抜けていました。
「……谷筋の、あの私牧だ」
「柵の焼印は、王家の紋でした」
「ああ。けどね、あの紋を彫らせたのが誰かまでは、紋は教えてくれない。……そこが厄介なんだよ」
谷へ入る手前で馬を下りました。ここから先は蹄の音が谷に響きます。それに、ここからなら風が読めます。
尾根に伏せて、下を見ました。
柵と、掛け小屋。荷馬車が二台、先に着いています。松明は数えるほどしかありません。火を嫌う荷なのだと思います。人影が樽を転がして、小屋へ入れていきます。
柵の中に、獣たちの影がありました。痩せた影です。眠っている影ではありません。みんな起きています。
ノクスが、わたくしの横で低く伏せ直しました。谷を見ています。毛の一本も、動きません。怯えている伏せ方ではなく、覚え込む伏せ方でした。
「黒いの、どうしたんだい」
「この谷の匂いを、知っている気がします。……この仔に聞いてみたいことが、また増えました」
「……夜中だぞ。なんで一頭も寝てないんだい」
「起こされているからです。夜のほうが、匂いがよく通りますので」
風が谷底から上がってきました。
わたくしは目を閉じて、息を吸いました。
いちばん上は夜の露と、土。その下に松明の油と、人の汗。その下に獣たち。乾いた藁と、長く陽に当たっていない毛の匂い。
そして、香。青い、草を潰したような——魔除けの香が、谷じゅうに焚かれています。討伐の晩と同じ濃さでです。
その、いちばん底に。
甘い。焦がした蜜のような。底に金気。
手が冷たくなりました。
「……どうした」
「香を焚いて、その下で薬を使っています。谷じゅうの仔に、同じ夜に、同じ匂いを」
「意味は」
「刷り込みです。あの香の匂いを、敵だと教え直しています。……辺境の谷でされていたことと、同じです」
マルタ様が低く息を吐かれました。
「敵の匂いを覚えさせて、どうする気だい。王宮の香はもう止まってるんだよ」
「王宮の香は、です」
わたくしは、自分の声が硬くなるのが分かりました。
「魔除けの香は止まっておりません。討伐に出る方々が、いまも全員、首から下げるものですので」
「……騎士も、兵も、か」
「はい。香を下げた人間を、敵だと教えているのです」
「……春の閲兵が、近いんだよ。人も香も、王都でいちばん多く集まる日だ」
誰もしばらく何も仰いませんでした。
「戻って、騎士団を入れるかい」
「夜のうちは動かせないだろ、って顔だね、閣下。……分かってるよ。証もまだ薄い。樽の印は削られてる」
「それに、いま柵を破れば、教え込まれた仔たちが夜の街道へ出ます。あの仔たちのためにも、いまでは駄目です」
悔しいのは、それが正しい順番だと分かってしまうことでした。
「引き上げるよ。夜明け前に壁の中へ戻らないと、誰何されるのはこっちだ」
「はい。……その前に、風をもう一度だけ」
わたくしは息を吸って、谷の匂いを上から順番に、帳面へ書ける形で覚えました。匂いは、わたくしの証書ですので。
風向きが変わって、香の青い匂いがひとすじ、尾根の上まで届きました。討伐の夜に、みんなの首元から立っていた匂いです。今夜だけは、それが合図の匂いに思えました。
谷の下で、樽がまた一つ荷馬車から下ろされました。転がす音だけが、静かな谷にこつん、こつんと響きます。
獣たちの影は身じろぎもせずに、それを見ています。
教え直しは、始まったばかりではありませんでした。
匂いの刷り込みは、教えるほうは何日かで済みますけれど、解くほうはそうはまいりません。教えるより教え直すほうが、いつも何倍も手間がかかるのです。獣も、人も、たぶん同じです。
閣下の今夜のお言葉は「行くぞ」「鼻が要る」「回る」「意味は」でした。マルタ様の集計によりますと、今夜の閣下は多弁だそうです。
次回、春の閲兵の日です。教え直された匂いが、人のいちばん多い場所で試されることになります。




