第48話 守るという言葉の、使い方
ウンブラが来て、三日が経ちました。
「姉さん、この仔の薬はどこ?」
「ありません」
「え。じゃあ、処置は」
「走らない日々です」
この仔に要るのは、それだけなのです。朝、柵に放して何も命じません。昼に水と餌。夕方に蹄と脚の手入れ。「走れ」と言われない一日を、ただ重ねていきます。
「それって、何もしてないのと違うの」
「違います。この仔はいま、命じられるのを待つのをやめる稽古をしています。人が黙っているのも、処置のうちです」
最初の日、ウンブラは柵の真ん中で、日が暮れるまで立っていました。
二日目も立っていました。指示を待つ立ち方です。誰かが柵へ近づくたびに耳がそちらを向いて、脚に力が入ります。
三日目の昼に、初めて自分から水桶へ歩きました。
「……おお」と、ティムが小さな声を出しました。
「静かに。気づかれると、やめてしまいますので」
「水を飲んだだけで褒められる職場なんて、あたしも欲しいもんだね」
マルタ様はそう仰いますけれど、その声もちゃんと小さいのでした。
ウンブラは水を飲み終えると、また柵の真ん中へ戻りました。それでも、戻る足取りが少しだけゆっくりになっています。
「姉さん、あれは?」
「急がなくてよいと、覚えはじめたのです」
ハンスがいらしたのは、その日の夕方です。
「大公家の仔が来ておると聞きましてな」
屋根の上で、ノクスが伏せたまま耳だけをこちらへ立てました。ハンスの声を、この仔は覚えています。降りては来ません。それがこの仔の、聞くときの姿勢です。
ハンスは柵の外から長いことウンブラを見ていました。それから目を細めて仰いました。
「……ソルに、よう似ておいでだ」
「ソル、ですか」
「先代です。殿下の、前の騎獣で。殿下がそれはもう可愛がっておられた仔ですよ」
レオンハルト様が腰掛けをひとつ、ハンスの横へ置かれました。座れ、ということのようです。ご自分は柵に寄りかかって、北の空を見ていらっしゃいます。
「あの頃の殿下は、いまとは違われた。厩へも足しげく通われてな。獣に名を付けるのがお好きで、ソルという名も殿下が付けられた。日向の匂いのする仔だから、と」
「日向、ですか」
「ええ。冬でも、あの仔の首筋だけはぽかぽかしておりましてな。……よう覚えております。殿下が厩で笑っておられた頃のことは」
「……いまの殿下と、同じ方の話?」
ティムが訊きました。訊きたくなる気持ちは分かります。
「同じ方ですよ。八年前までは、な」
ハンスはそこで少し黙りました。話してよいものかを量っている間だと思いました。レオンハルト様が短く仰いました。
「頼む」
「……八年前の春に、ソルが暴走しましてな。乗っておられたのは、殿下のご子息でした。お一人きりの、ご子息で」
「怪我を、なさったのですね」
「傷を負われました。それ以上はわしも申しません。……ソルがどうなったかは人づてにしか知りませんが、その年の冬を越えなかった、とだけ聞いております」
柵の中で、ウンブラが耳をこちらへ向けていました。
「それきり、殿下は厩へいらっしゃらなくなった。名を付けるのもおやめになった。かわりに調香室へ通われるようになって……二度と獣に裏切られぬ国にする、と仰ったのを聞いた者がおります」
「それで、香なのですね」
「香なら、情の要らぬ手綱になりますでな。獣に近づかずに済む。心を移さずに済む。……あの方は獣がお嫌いになったのではありませんよ。怖くおなりになったのだと、わしは思っております」
「ウンブラは、その後に来た仔ですか」
「その年の暮れに、です。殿下は一度も、あの仔を可愛がるということをなさらなんだ。乗って、走らせて、降りる。それだけです」
「誰の指示でも走るのは」
「殿下がそう躾けさせなさった。特定の誰かにしか従わん獣は、その誰かを裏切るから、と」
誰にでも従うように育てられた仔は、誰のものでもありません。八年、この仔は誰のものでもないまま走ってきたのです。
「妙な話だろ」
マルタ様がぽつりと仰いました。
「あたしが騎士団を飛ばされた頃の話と、ちょうど重なるんだよ。香料に混ぜ物が入り始めたのも、あの時分だ。……八年前ってのは、いろんなものの境目らしい」
「マルタ様は、ソルの暴走をどう聞いていらっしゃいますか」
「表向きは、獣の気性ってことになってる。けど当時から、妙だと言う者はいたよ。ソルは大人しい仔で通ってたからね。……調べは殿下ご自身が打ち切らせたそうだ。これ以上ほじくるな、ってね」
「なぜでしょう」
「さあね。見たくないものがあったのか。……それとも、獣が悪いということにしておきたかったのか」
「ハンス。ソルは、どちらの生まれの仔ですか」
「北の谷筋の牧ですよ。あのあたりは昔から良い騎獣を出す土地でしてな。……いまは、どうなっておりますやら」
北の谷筋。ウンブラの蹄に詰まっていた、あの泥の谷です。わたくしは手の中の蹄鉤を、少しだけ強く握りました。
「……守ろうと、なさったのですね」
「はい?」
「殿下は。ご子息を守り損ねて、それで二度と誰も傷つかない仕組みを作ろうとなさった。あの方の香は、憎しみの道具ではないのだと思います。守り方を間違えていらっしゃるだけで」
申し上げてから、間違えている、という言葉の重さに自分で少し驚きました。人さまの守り方を、わたくしが量れるわけではありません。
けれど柵の中のこの仔を見ていると、思うのです。鍵をかけることと守ることは、匂いが違います。守られている仔は、こんなに古い疲れの匂いをさせません。
「ハンス。また、この仔に会いに来てくださいますか」
「ええ、ええ。ソルの顔を思い出しますでな。……今度は麦を持ってまいりましょう。あの仔の好物でした」
「それを、この仔の帳面に書きます。好きなものの欄の、最初の一行です」
その晩、ウンブラは初めて脚を折って休みました。
横にはなりません。まだです。けれど、脚を折りました。八年ぶんの立ちっぱなしの、最初の一枚が剥がれた音だと思うことにしました。
ハンスを門まで送って戻ると、レオンハルト様がまだ柵の前に立っていらっしゃいました。夕方からずっと、動いていらっしゃらないのだと思います。
北の方角を見ていらっしゃいます。
「閣下?」
しばらくお返事はありませんでした。それからその方は、柵から手を離さないまま仰いました。
「……八年前。俺が逃がした獣も、その谷の生まれだ」
北から吹く風が、少しだけ湿った岩の匂いをしていました。
名を付けるのがお好きだった方が、名を呼ぶことだけを残して、あとを全部やめてしまわれた——ハンスのこの話を、わたくしはしばらく持て余しそうです。憎むだけでよい方のほうが、ずっと楽ですので。
ウンブラは今日、脚を折って休みました。横になるのはまだ先です。急かしません。八年ぶんは、三日では返ってまいりません。
次回、樽が、夜に動きます。荷は、灯りを持ちません。




