第47話 お預かりします。殿下の騎獣でも
翌る日の昼前に、預かり屋の門の前へ、同じ馬車が参りました。
今度は後ろに一頭、繋がれています。
影のような色、と申し上げるのがいちばん近いと思います。黒に灰を混ぜて、夕方の光で溶いたような毛色の大きな騎獣でした。歩様は完璧です。完璧すぎるほどに。
「ウンブラだ」
殿下は、昨日と同じ平らな声で仰いました。
「私の騎獣だ。預かってもらう」
柵の外でマルタ様が小さく仰いました。
「……前にもあったねえ。こういう預けられ方」
「はい」
侯爵様が銀色の仔を置いていかれたときと、同じ形です。あのときは三月と言われました。預けるためではなく、量るための預け方です。
レオンハルト様が、わたくしの横に立たれました。
「罠だぞ」
「はい」
「……受けるのか」
「受けます」
わたくしは殿下のほうへ向き直りました。
「お預かりします。殿下の騎獣でも——お預かりしたからには、この柵の内側ではただの疲れた仔として扱います。よろしいでしょうか」
「疲れている、と見えるか」
「見えません。ですから、心配しております」
殿下は従者の方から薄い帳面を受け取って、わたくしへ渡されました。
「世話に要ることは、すべて書かせた。足りないものがあれば届けさせる」
めくってみると、本当にすべて書いてあります。マルタ様が横から覗き込まれました。
「餌の種類と量。水の回数。歩かせる距離。馬装の型。……几帳面なもんだね。うちの隊の台帳より詳しいよ」
「ひとつだけ、書いていないことがございます」
「言え」
「この仔が、何を嫌がるかです」
「無い」
殿下は即答なさいました。
「ウンブラは何も嫌がらない。命じれば走り、命じれば止まる。八年、一度も否と言ったことのない騎獣だ」
「それは」
わたくしは言葉を選びました。選んでも、同じところへ出ました。
「ご自慢なさることでは、ありません」
「……この仔の前に、先代がいらしたのですか」
「いた」
それだけでした。名前を間違えない方が、そこでは名前を仰いませんでした。
殿下がウンブラの綱を解いて、こちらへ一歩近づかれました。
物置の屋根の上で、影が動きました。
ノクスが音もなく降りてきます。唸りません。牙も見せません。ただ歩いてきて、わたくしと殿下のあいだに静かに立ちました。街道を向くでもなく、殿下を睨むでもなく、ただそこに居るのです。
昔、王都からの使者がいらしたとき、この仔は屋根の上から唸りました。いまは唸りません。立つだけで足りると、知っているのだと思います。
「……黒狼は、そう躾けたのか」
「いいえ。この仔が、自分で決めております」
殿下はノクスを長いことご覧になっていました。それから、綱をわたくしの手に置かれました。
「ノクス。……よい躾だ」
「躾では、ありません」
「では何だ」
「信頼です」
「同じことだ」
同じではありません。けれどこの方にその違いを申し上げる言葉を、わたくしはまだ持っておりません。馬車は、来たときと同じ速さで帰っていきました。
「……ねえ、預かり屋さん。あの方はなんで、わざわざご自分の騎獣を預けたんだと思う」
「量るためだと、思います。わたくしの腕と、それから」
「それから?」
「わたくしが、何に気づくかを、です」
「気づいたら、どうなるんだい」
「分かりません。ただ、気づかないふりは、あの方にはたぶん通じません」
昼を過ぎて、わたくしはウンブラを柵の内に放しました。
放しても動きません。指示を待っています。目は澄んで、毛艶もよく、蹄も整えられています。手入れはどこにも文句のつけようがありません。
「ティム、歩かせてみてください」
「おれが? ……あの、殿下の騎獣だよ?」
「この柵の中では、疲れた仔です」
ティムが綱を引くと、ウンブラはすぐに歩きました。止めるとすぐに止まります。速歩の合図を出すと駆けました。ティムの、覚えたての拙い合図でもです。
「すごい。……おれの言うことも聞く」
「ええ。それが心配なのです」
「姉さん、聞き分けがいいのは、悪いことなの」
「よいことです。ただ、この仔のは聞き分けではありません」
「どう違うの」
「聞き分けのよい仔は、嫌なときに嫌だと言えます。この仔は、言えません」
マルタ様が柵に肘を掛けて仰いました。
「贅沢な悩みに聞こえるけどね。言うことを聞かなくて困る獣なら、山ほど見てきたけどさ」
「聞かない仔のほうが、直しやすいのです。嫌がってくれますので」
柵の隅で、ノクスが伏せてウンブラを見ています。近づきません。挨拶にも行きません。ただ、尾の先だけがゆっくり一度動きました。この仔なりに、何かを測っている顔です。
わたくしはウンブラの首筋に顔を寄せて、息を吸いました。
いちばん上は香。王宮の、上等な。その下に革と旅の埃。その下に、この仔自身の匂い。
そしていちばん底に、疲れの匂いがありました。古い疲れです。染みついて、この仔の匂いの一部になってしまうほどの。
「……走らされ過ぎています。今日や昨日のことではありません。何年も、です」
「殿下は、そんなに乗り回す方には見えなかったけどね」
「殿下おひとりでは、ないのだと思います。この仔は、誰の指示でも走ってしまいますので」
厩舎の誰に命じられても走る。使いに出されれば走る。断らない。断り方を教わらずに来たのです。先代の仔がいなくなってからの八年を、この仔はずっとそうやって埋めてきたのだと思います。
「壊れるまで働く道具、って言い方があるけどね」
「道具ではありません。ですから、壊れる前に休ませます」
夕方前に、ノクスが一度だけ柵に近づきました。ウンブラの耳が伏せられます。ノクスはそれ以上寄らずに、風上へ回って、伏せ直しました。
「……何やってるの、あの子」
「自分の匂いを、届くところに置いたのです。敵ではないと知らせる、置き方です」
「挨拶ってこと?」
「挨拶の、いちばん遠い形です。あの子は、近い挨拶が得意ではありませんので」
夕方、蹄の裏を検めました。
レオンハルト様が灯りを持って、横に膝をついてくださいます。
「……どうだ」
「蹄は良い蹄です。ただ」
よく整えられた蹄の、溝の奥に泥が固まって残っていました。黒くて粘りのある泥です。王都の道の土ではありません。
指先で少し崩して、匂いを取りました。
湿った岩と、古い藁と、痩せた草。……知っている匂いです。北の谷筋の、あの柵の中の匂い。
「閣下。この仔は、あの谷に入っています」
ウンブラの蹄に、谷の泥が詰まっていました。
何も嫌がらない仔、というのはいちばん心配な仔です。嫌がることは、生きものの仕事のうちですので。うちの黒い仔はその点たいへんよく働きます。本日は唸りもせずに、立つだけで仕事を済ませました。
ウンブラの帳面には、餌も水も距離も全部書いてありました。書いていないのは、嫌いなものと好きなものだけです。八年ぶん白紙の頁を、これから埋めてまいります。
次回、この仔が八年走り続けることになった理由を、古い厩番の方から伺います。




