第46話 大公殿下は、名前を間違えません
王宮の香がすべて止まって、三日になります。
厩舎の仔たちはとうに眠るようになっていましたけれど、この三日は、宮のほうから来る風まで軽くなった気がいたします。
「姉さん、東の端の二頭、今朝は喧嘩しなかったよ」
「はい。先に食べられると分かった仔は、急がなくなりますので」
「香があった頃は、毎朝蹴ってたのに」
「怒っていたのではありません。眠れていなかったのです」
ティムと藁を運んでいると、門のほうで車輪の音がしました。
「……姉さん。馬車です」
振り向いたティムの声が硬いのは、馬車に紋があるからだと思います。
飾りの少ない、けれど造りのよい馬車が一台。従者はお二人だけです。降りていらしたのは背の高い方で、若くも見えず老いても見えない、不思議な年恰好をしていらっしゃいました。
外套には皺ひとつありません。わたくしは頭を下げながら息を吸いました。
上等な香の匂いです。混じりけがなく、揺れもしません。ただその下に、体温の匂いがほとんどないのです。整いすぎていて、まるで匂いの見本のようでした。
「ルーペルトだ」
その方は、まずそう名乗られました。
「王の弟で、王宮の調香室を預かっている。……おまえたちと同じだな。私も、預かる側だ」
調香室。あの香の出どころです。自分の息を吸う音が聞こえた気がしました。
「レオンハルト・ガルド辺境伯」
殿下は、柵の横に立つその方をまっすぐご覧になりました。
「アーレンスの件では、陛下がおまえに借りを作ったと聞いている」
レオンハルト様は何も仰いません。半歩だけ、わたくしの側へ寄られました。
「副官の、マルタ・レンツ。王宮騎士団の古い名簿に、その名があったな」
マルタ様の眉が一度だけ動きました。
「助手の、ティム。ガルド領から来た子だ」
ティムがこくりと頭を下げます。名を呼ばれた瞬間に半歩下がったのを、わたくしは見ておりました。
「エルナ・ウィスタリア」
最後が、わたくしでした。
「香を、止めたそうだな」
「陛下が、お止めになりました」
「そうだ。陛下がお止めになった。おまえが止めさせた、とは言わん。事実は正確に扱う主義でな」
間違いはひとつもありませんでした。名前も肩書きも、順番も。それなのに、挨拶をされた気がいたしません。名簿の上から順に、線を引かれていくようでした。
侯爵様は、誰の名前も呼ばない方でした。この方は全員の名前を呼びます。それで分かったことがあります。呼ぶことと見ることは、別なのです。
殿下は厩舎の通路を、音も立てずに歩かれました。横になって眠る仔の房の前で足を止めて、長いことご覧になっています。
「よく眠る」
「はい。香が止まってからは、特に」
「知っている。報告はすべて読んだ」
殿下は房から目を離さずに続けられました。
「おまえの処置も読んだ。香炉を消し、風を通し、寝藁を替える。……道具のない仕事だな」
「道具は、あります」
「何だ」
「鼻と、手と、時間です」
「時間か」
殿下は、その言葉だけ少し丁寧に扱われました。
「いちばん高くつく道具だ。……エルナ・ウィスタリア。眠りは、従順ではないぞ」
「従順のために眠らせているのでは、ありません」
「では、何のためだ」
「眠るためです」
殿下は笑いませんでした。怒りもなさいませんでした。ただ、初めてわたくしのほうへ顔を向けられました。
「香は、王国の秩序だ」
平らな声でした。高くも低くもならない、量り売りのような声です。
「獣は人より強い。強いものが人に従うには、仕組みが要る。情で従えた獣は、情が切れた日に牙を向く。仕組みで従えた獣は向かん。……私は、その仕組みを預かっている」
「殿下。この仔たちは、牙を向いたことがあるのでしょうか」
「ある」
即答でした。それきり、その先は仰いませんでした。
「香を止めて、獣が眠る。それは認める。だが止めたままにはできん。香は、また要る」
「なぜでしょう」
「王国は広い。獣は多い。……おまえの鼻は、ひとつしかない」
返す言葉がすぐには見つかりませんでした。この方の仰ることには骨があります。骨だけで、できているのです。
「次の香を、お作りになるのですか」
「作る。獣が眠れて、人が御せる香をだ」
「香りの下に何が入っているかは、嗅げば分かります」
「知っている。読んだと言ったはずだ。……おまえの鼻の報告もな」
殿下はわたくしの返事を待たずに、通路を戻っていかれました。
帰り際に、殿下は一度だけ厩舎の屋根を見上げられました。
黒いものが棟の上で伏せています。朝からずっと、そこにおりました。
「黒狼。……ノクス、だな」
この仔の名前までご存じでした。誰に聞いたのかは仰いません。ノクスは伏せたまま、耳だけをこちらへ向けています。
従者の方が馬車の扉を開けました。乗り込む前に、殿下は振り向かれました。
「今日は、名を検めに来ただけだ。用件は改めてになる」
「……はい」
「ああ、それから」
声は最後まで平らなままでした。
「預かり屋。おまえの体質の使い道を、私は知っている」
扉が閉まりました。
車輪の音が遠ざかってから、マルタ様がぽつりと仰いました。
「……百と六語」
「数えていらしたのですか」
「癖だよ。数えるのが途中で嫌になったのは、生まれて初めてだけどね」
「マルタ様。あの方は、どういう方なのですか」
ティムが訊きました。訊いてくれて助かりました。わたくしも伺いたかったのです。
「陛下の弟君だよ。王宮で焚く香は、ぜんぶあの方の窯から出る。金の出入りも人の出入りも、香に関わるものは全部あの方を通るのさ」
「じゃあ、止まった香を作ってたのも」
「そういうことになるね。それと、もうひとつ」
マルタ様は槍の石突きで、こつんと地面を突かれました。
「あたしの昔の上官……混ぜ物の話を握り潰した男は、いまあの方の家宰をやってるんだよ」
「え。それって」
「偶然だと思うかい、って話さ。あたしは思わないね」
レオンハルト様は、馬車の消えた道の先を見ていらっしゃいました。
「……泊まり込む」
「え」
「明日から」
それだけ仰って、厩舎の奥へ歩いていかれます。ティムが慌てて、客用の寝藁がどこにあったかを思い出しに走りました。
使い道、と仰いました。
わたくしはその言い方を、前にも一度だけ聞いたことがあります。あのときは辺境の柵の前で、今日は王家の厩舎の前で。仰った方は違うのに、匂いのしない言葉であることだけが同じでした。
侯爵様は、誰の名前も呼ばない方でした。殿下は、全員の名前を正確に呼ぶ方です。それなのに、呼ばれるたびに名簿へ線を引かれているような心地がいたします。名前というものは、呼び方ひとつで挨拶にも点呼にもなるのですね。
閣下の本日のお言葉は「泊まり込む」と「明日から」でした。マルタ様の集計で二語だそうですけれど、この方の二語は、たいてい百語ぶんの仕事をいたします。
次回、殿下が騎獣を連れていらっしゃいます。黒くて大きな、とても行儀のよい仔です。




